なんて常識の無い奴だ、と私は思った。
傷つき よごれた わたしでも
骨まで 骨まで
骨まで愛して ほしいのよ
この歌詞が問題なのだ。「よごれた」は身体のことを連想させる。純白無垢の花嫁に送る言葉ではない。作詞は川内康範。この人は「おふくろさん」を森進一に歌わせないという、一連の騒動で話題になった人だ。歌詞に勝手に言葉を付け足したというのだ。確かに作詞者としては、許せない行為だ。
このときの騒動のついでに、或る飛行機墜落事故に関して、川内氏の一面がTVで紹介された。川内氏は羽田沖の事故現場に通い、海中から引き上げられた遺体との、肉親たちの対面の模様を見て歩いたそうだ。
私の中学時代の友人が警官をやっていて、彼からよく聞かされた。死因が何であれ、ほとんどの遺体は、目を背けたくなるものばかりだそうだ。首吊りや銃による自殺なんかはその代表で、溺死は青くぶくぶくに膨れ上がって見られたものではないそうだ。
数日して引き上げられた死体は、腐乱して特に酷いだろう。ところが、自分の息子だと分かるや、その肉塊を我が手で抱きしめ、頬ずりしている母親の姿を想像してみよ。そこまで出来るか、これが本当の愛だ、と川内氏は実感したのだろう。
彼は南海の孤島を訪れ、戦死者の遺骨も収集しているとの話もある。「傷つき汚れた」肉塊はすでに骨と化し、しゃれこうべとなって、見捨てられたままになっている。そうした骨を抱きしめている姿を想像してみたい。
「骨まで愛して」という歌詞にはそういう原体験があるのだ。半端じゃない。だから、結婚披露宴で歌うのは正に当を得ている。
ついでに、「おふくろさん」だって、作詞者の並々ならぬ原体験があるはずだ。言葉は生み出した者の命。歌詞を勝手に変えたり、付け加えたり、あるいは、「これは森の歌です」なんて言って平気で歌うのは、絶対に許せない行為なのだ。