日時;2017-01-14
天気;晴れ後曇り
気温;最高6度、昼前後に雪がちらついた
参加者;鎌ヶ谷ハイク&ウォークの会、メンバー11名
記録カメラ;ニコンCoolPix S6600
徒歩コース--予定は以下の順だったが---
水天宮→護岸橋→堀部安兵衛武庸の碑→鉄砲洲稲荷→佃の渡し跡→築地教会→外国人居留地の碑→浅野内匠頭屋敷跡→メトロ・築地駅→築地市場・場外市場[昼食]→
築地本願寺→築地駅
【実際の徒歩コース】水天宮(9:20)→護巌橋→純子稲荷→堀部安兵衛武庸の碑→鉄砲洲稲荷(10:20)→佃の渡し跡(10:45)→新大橋通り→メトロ・築地駅→(11:20)築地市場・場外市場(11:40)→(11:50)ジョナサン[昼食](12:30)→築地本願寺→聖路
加通り→浅野内匠頭江戸上屋敷跡→築地教会→(13:40)外国人居留地の碑→(14:00)メトロ・築地駅
※【参考地図】八丁堀(与力同心組屋敷図の画像)より
【与力・同心】同心とは現代で言えば警察官で奉行所配下。彼らが自腹で雇っているのが「岡っ引き」。「必殺シリーズ」中村主水の身分は同心です。
4~5人の同心をまとめるのが与力。与力の上にいるのが「町奉行」。[北町奉行・南町奉行] 大岡越前守は江戸中期、金四郎は江戸末期の人。北町奉行と南町奉行は1ケ月交代。それぞれ、与力1+同心6。従って、「八丁堀の7人」という番組があるように、たった7名で大都市江戸の治安を預かっていたことになる。それで、他に、「自身番」・「木戸番」の民間の防犯組織もあった。
[火付け盗賊改め] は、町奉行のような裁判所ではなく、若年寄り預かりの特別機動隊で、犯人との斬りあいも任されていた。「鬼平犯科帳」に出てくる長谷川平蔵は、実在の人物だったとのことだ。
goo地図の上に「ペイント」で上書きして作成した。最下部のバーを右にスライドすると、隠れている部分が現れます。
【水天宮】祭神は天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)。天地初めてひらけし時、高
天原に成りし神の名。日本の神々の祖なので、安産・子授けに繋がる。
もとは久留米藩・有馬家の水天宮より分霊として芝上屋敷に勧請し、明治4年に現在地に移転した。水天宮には他に、安徳天皇・建礼門院・二位の尼も祭られている。
車道に面して鳥居があり、そこから入るものと思っていた。だが、水天宮に入るには、一旦ビルの中に入り階段を上る。上の写真は、ビルに囲まれていた。
新亀島橋のすぐそばにあります。純子はジュンコかスミコか分かりません。江戸時代からあったとのことですが、関東大震災と第二次世界大戦で焼失。昭和の終わりに再建されたそうです。→純子稲荷神社
堀部安兵衛武庸は「ほりべ やすべえ たけつね」の碑。高田の馬場の件は有名ですが、此処にも住んでいたのですね→堀部安兵衛武庸の碑 - 東京・亀島川 リバーサイド ガイド
道路を挟んで、上記の碑の南側にあります。この近くに写楽や伊能忠敬も住んでいたらしい。→銀座の柳 四世 | 下町の外れから - 楽天ブログ
銀座の柳は歌でも有名ですが、震災や空襲で焼失し、苦難の歴史があるようです。→銀座の柳 ついでに、銀座は八丁目で終わりだが、神戸一郎の歌に「銀座九丁目は水の上」という歌が流行した。→銀座九丁目水の上 神戸一郎 - YouTube
当初は、高橋を渡り霊巌島側の遊歩道を歩いて南高橋から渡り返す予定であった。
だが、そちら側は閉鎖されていたので止む無く、亀島川のこちら側の遊歩道を歩いた。向こう岸には漁船(?)が係留されていて、前方に南高橋が見える。
この右手が八丁堀です→【参考地図】八丁堀 を見てください。
画面の一群は我らのメンバーです。本日の参加者は女性8名・男性3名です。気温が低いとの予報だったので、皆、完全武装に近い。
前方、南高橋の右手、斜め前方に鉄砲洲稲荷がある。
【鉄砲洲】鉄砲洲の名は砂洲が細長く鉄砲の形をしていたこと、あるいは大砲の試射をしたことに由来すると言われている。
この金次郎は銅像なのか? 火消し水の名残。「銀座六」とある。
だとすると、マッカーサー以降に
建造されたと推測される。
生憎この日は工事中で、境内のあちこちが立ち入り禁止。富士塚に登りたかったが--
道を挟んで、トイレのある児童公園。
このあと、佃大橋へと進んだはずだったが、高いビル群に視界が効かず、南高橋に
逆戻りしてしまった。住民に尋ね、鉄砲洲通りを南下して佃大橋へと向かう。
佃大橋の袂にあった「佃の渡し跡」。現代では、佃煮と佃島の関係を知らない者が多い。
さて、ここから外国人居留地の痕跡を求めて行くのだが、時計を見て不安になった。築地場外市場での昼食のことだ。ほとんどの店が2時頃には閉めてしまうとの情報。11時前後には入店せねばならない。そこで、当初の予定地を午後からに回し、
「佃の渡し跡」から場外市場に直通することにした。
途中まではよかったのだが、メトロ・築地駅手前から急に人が湧き出てきた感じ。
気温が低いというのに、外国人を含めて、どんどん人が増え、場外市場手前から大混雑。自由に前へ進めない。
現場に着いて更にびっくり。11時過ぎだというのに、道路まではみ出て皆さん立ち食い。しかも肘が他人とくっ付いている凝縮度。食事処は店とは言えず、何処も椅子が4~5くらいで、その後ろは長蛇の列。とてもじゃない、我々は11名だが、皆ばらばらになって、突撃でもしなければ食事はできない。
とういことで、ここでの食事を断念。近くのファミレスへ移動。ここまで来てファミレスかよ、という気もあったが、どうしようもない。
昼食後(12:30) ジョナサンを出て本願寺へ向かう。なんと、雪がちらつき始めたではないか。
本願寺の正門へ向かう。
正門から入った所で全体像を写す。まるで、インドやカンボジアに来たみたい。
築地本願寺は国の重要文化財です→築地本願寺 - 日本のすばらしい建築物
伝統的な従来のお寺には、このような獅子像はない。
本尊・ 阿弥陀如来 にお参りする人の列
雪がちらついた本願寺を出て、少し先の交差点で右折し、聖路加病院へ通じる聖路加通りに入る。因みに、聖路加とはルカ伝で知られる聖ルカに由来する。なので、聖路加病院は、本来は聖ルカ病院となるべき。
聖路加病院や聖路加国際大学などは、浅野内匠頭の江戸上屋敷・敷地跡に建てられたものだ。→浅野内匠頭邸跡 - ビバ!江戸
芥川といえば、両国小学校の角にある「芥川龍之介文学碑」が有名だが、生誕はこの
辺りとのことだ。→芥川龍之介生誕の地 - ビバ!江戸
次に向かったのは、「居留地通り」を歩いて築地教会だ。
居留地通りで見かけたマリア像?
明治政府が用意した外国人居留地の痕跡はほとんど無い。【カトリック築地教会】は
唯一の生き証人と言ってもいい建築物だ。明石小学校の前にある。→
1982.カトリック築地教会
周囲のビルに埋もれて遠くからは分からない場所にある。明石小が目印になる。