実施日;2015-01-28
場所;上野公園内、韻松亭本店
出席者;男女8名
※幹事によれば、案内を出したのは20数名。返事が来たのは、20名くらい。
だから、8名出席は妥当な線であろう。最後の2~3名になるまで、続けたいという声もあるが、さて、どうなることやら。
母校は西小岩小学校(佐々木組)、竹馬の友は六軒島と上一色の一部。
私の住んでいた六軒島町会は、現在の地図には無い。市川橋を渡って、都心方面へ向かう。
蔵前道路と四ツ木道路の分岐点の信号(六軒島信号)に、唯一名前だけを留めている場所だ。
現在の信号下に肉屋があり、コロッケを売っていた。そこから、現在の中川放水路までは、改正道路といって、ダートの草原で、子供のころは布を丸めた玉で草野球をやっていた。馬や牛に引かせた荷馬車が通っていて、時々、習志野連隊の戦車が通過する道であった。
六軒島の名の通り、我が故郷は湿地帯で、池や沼やハス田に囲まれ、水路が縦横に走っていた。現在は東京23区に入っているが、古くは、下総の国・葛飾の郷里(ごおり)・甲和里。
春には蛙の大合唱、秋にはアカトンボが群れ飛ぶ田園地帯。小岩駅から西を見ると、新小岩駅まで、(途中に住宅街などないから)ずっと見渡せた。
さて、我々はクラス会と言っても、隣組同士の集まりみたいなもの。だから、当時の小岩の話は、いくらでも出てくる。「ふわふわ池」では、よく子供が引き込まれて溺れた。とか、××の家の近くの医院には世話になった。とか、線路の向こうに「お針子塾」があり、そこから桂由美が育っていった。とか、「大川」(実は水元お合溜から流れてくる小さな清流)の橋の上で、六軒島と上一色でケンカをした。とか、次々に固有名詞続出の会話が続いた。
だが、このような話は一般の人には無関係で、興味はない。それで今日は、上野駅から上野公園に至る有名なスポットの写真を少しだけ載せて勘弁したいただく。
韻松亭と精養軒は、「時の鐘」のすぐ手前にある。
[参考]→上野の山は歴史がいっぱい
上野駅15番線ホームの端にある。 明治政府に逆らったので、田舎のおじさん姿
鹿児島の銅像は桜島を望む凛々しい軍服姿だ。
明治政府にとっては賊軍なので、彰義隊 東京大空襲の犠牲者を悼む慰霊碑
戦死者の墓は、ひっそりと建っている。 林屋三平夫人の海老名香葉子さん建立
寛永寺の屋根瓦まで届いたというアーム
ストロング砲の威力で、わずか一日で決着。
天海の遺髪を収めてある。比叡山延暦寺と京都をモデルにした江戸設計図は天海の夢。
→東の叡山、つまり、東叡山寛永寺と江戸のマスタープランだ。
昔は立派な上野大仏であったが、首から下 「花の雲 鐘は上野か 浅草か」--芭蕉
は金属資源として戦時中に供出された。