実施日;2017-05-25
天気;曇り時々小雨
同行者;鎌ヶ谷ハイク&ウォークの会、メンバー
カメラ;ニコン FinePix S6600
徒歩コース--*トイレ
新小岩駅(9:00)→安斎歯科医院→約110m(P)右折→(9:15)於玉稲荷(9:20)→小松川→(9:40)第2ポンブ場分岐*→(9:50)中央森林公園*(往復)(10:00)→総合文化センター*→小松菜屋敷→(間々井)香取神社(10:40)→信号・八蔵橋→(10:50)グリーンパレス*・(3F)郷土資料室(11:20)→14号→高速道→(11:45)黒沼染工場(11:55)→寶積院→(12:05)名月あられ本舗(12:15)→(12:25)善照寺(相撲寺)→(12:35)江戸川競艇場*[入場](13:05)→東小松川南公園*→船堀街道→バス停・東小松川小前(13:20)----{バス}--(13:35)新小岩駅→(13:40)ガスト[昼食・打合せ](15:00)→駅
旧小松川はすっかり整備され、このような遊歩道に生まれ変わった。
私が子供の頃は川幅はもっと広く、田園地帯の中をゆったりと流れていた。高校生の
頃はこの川沿いの道を八蔵橋まで自転車通学したものだ。
クチボソ・鮒・エビ・鰻などが沢山生息していて、鮒などは釣り糸を垂れれば「入れ食い」であった。
川の合流地点で、中央森林公園へ向かった↓
中央森林公園の夏は子供たちの水遊びの場となる。
合流地点に戻り、江戸川区総合文化センター方面へ向かう。
流れを挟んで向かい側に間々井香取神社がある。江戸時代のこの辺りは水運の中心地だったらしい。また、自然豊かな湿地帯が広がり、徳川将軍家の鷹狩によく利用されたとのことだ。獲物は小動物かと思って調べたら、何と鶴で、それを食べたというから驚いた。その鍋に当地の野菜である小松菜が一緒に出され、吉宗が名付け親という話だ。
江戸時代、間々井香取神社には芭蕉や一茶など、文人墨客も訪れているようだ。
九月 尽の日、女木沢に舟さし下して 「秋に添て行かはや 末は小松川」 はせを 昭和60年(1985 )建立。
信号八蔵橋の前にも香取神社がある。我が母校のすぐ前なので、こちらは良く知っていたが、間々井香取神社のほうは知らなかった。二つの香取神社がすぐ近くにあるのは理解できない。
廃仏毀釈は学校で習った。長州が担いだ「東京天皇」を利用して明治政府は徹底的にお寺や仏像を破壊した。伊勢神宮を頂点にして神道国家にしたのだと高校時代に習った。だが、明治政府は神社も弾圧した。
「一村に社は一つでいい」という合祀政策で徹底的に神社を破壊した。素朴な庶民が連綿と守ってきた神仏混交の精神だけでなく、太古からの神聖な杜とそこに生きる動植物をも破壊した。熊野の巨人・南方熊楠もたった一人で国家に抵抗したが、熊野の自然や寺社も相当破壊されたのだ。
明治政府の方針だと、香取神社が近くに2つあることは許されない。だから、どのような手を使って政府の弾圧を逃れたのか、理解できないのだ。
小松菜の 一文束(いちもんたば)や 今朝の霜 一茶
神社の由来---新小岩厄除香取神社のパンフより
新小岩厄除(間々井)香取神社は、經津主命(ふつぬしのみこと)を祀り、元和三年(1617年)に再建された、ご神徳の多い、有り難い神社です。 当時、当地には16軒の農家しかなく、その小松川16軒農家が当神社を創立したと言われています。 また、神社の東を流れる小松川(現親水公園)は、下総・国府台真間(しもうさ・こうのだいまま)と武蔵江戸城を結ぶ重要な水路でしたが、伝説によれば長禄の頃、太田道灌持資(おおたどうかんもちすけ)が国府台控城に往来のとき、この神社に船を泊め、霊水を汲み、船路の安全を祈願したと伝えられています。 現在の本殿は、文政五年(1823年)、今より約180年前、五分一に住む宮大工八郎次(はちろうじ)が、用材を仕入れ、10年の歳月を経て、天保三年に完成された名建築物です。 遠い長禄の時代より平成の今日まで、有り難いご祭神のご神徳に感謝し、その霊験(れいけん)を戴き、信ずる人々の念願の達成をお祈り申し合掌いたします。
向こうの石碑は芭蕉の碑とは違うみたいだ。
信号八蔵橋から親水遊歩道に戻ると区の施設グリーンパレスの前に出、この三階に郷土資料室がある。じっくり見ると時間がかかるので、ざっと目を通した。昔の農作業用の道具などはあったが、私が昔体験したカスリーン台風の被害状況を示す写真等は無かったみたい。なにしろ40日くらい床上1尺の水が引かず、江戸川激流の上の枕木を渡り市川に逃れ、真間小学校の体育館に世話になった覚えがある。
首都高の小松川ランプ入口が工事中で遊歩道が通れず、戻るのにかなり遠回りをさせられた。ようやく快適な親水歩道を行くと、右手に黒沼染め物工場が目に入った。
ここは素通りできない。昔の小松川の歴史を知っているはずだ。立寄って主人に話しかけた。思った通り、60年以上昔の話が通じた。---八蔵橋辺りの川面には染め物の長い布が何本も揺れていた。あの頃は染め物屋は何十とあったよ。そうでしょう?
---と話が弾んだ。この工場は他所へ行かずに、何十年と頑張っている一つなんだ。
永福寺という寺が見え、その隣が宝積院だ。見ると、その門前に「名月あられ本舗」の看板が。これだ、これだ、むかし皆と寄ったお煎餅屋だ。今から20年以上前だろうか。ウォーキングの会で皆と立寄ったところだ。その頃のメンバーはもう残っていない。
皆さんは、それぞれ好みのものを買いました。
相撲寺で知られている善照寺はぐるっと塀が巡らされ、どこから入るのか分からず、
かなり歩かされた。その割には見るべきものは無かった。子供用の土俵でもあれば
よいのに。
江戸川競艇場--これは通称で、所在地からすると「中川競艇場」が正式名であろう。
ここまで来たのだから、話のタネに競艇を見て行こうということになった。入口前に大きな像が2つ聳えていた。近寄ると大魔人だという。どうしてここにあるのか、
分からない。駅の改札口みたいのがあり、百円玉を入れると通過できるようになっていた。
競馬と違って勝手が分からない。「選手一同位置に着いて」とか「よーい、ドン」
も無い。気づいたらボートが走っている。「えー、練習かと思ったよ」と言う間もなく、どうやら第五レースだとのこと。
あっという間にレース終了。次は?と待ったが、アナウンスもなし。周囲の客も席を立った。どうやら、第六レースまで時間がありそうだ。
我々はレースを一つ見ただけで、帰ることにした。新小岩駅へ行くバス停は何処?と訊いたら、出発は4時ごろだという。そりゃぁ、そうだろう。レースが全部終わるのはその頃らしい。客はその時刻までレースに付き合うのだろう。
よって、我々は船堀街道まで歩き、近くのバス停から新小岩駅に戻ることにした。
出走直後か?
かなり差がついたようだ
レースが終わって艇庫へ戻るところか
川沿いには 2期生が多く住んでました。 下流から山沢君斉藤京子さん永井れい子さん今塩屋建光君川島君 他にもいたんでしょうが 思い出せません。
善照寺には山沢君のお墓があります。山沢家は寺の山門から40メートルぐらいの距離です。
昔 川に流れ込んでいる小川で お釜を洗うと小魚が突っつきに来ていた と母に聞いたことがあります。フナの入れ食いは当然だったんでしょうね...。