日時;2010-1-21
天気;曇り
同行者;男女5名
徒歩;約5時間(見物・休憩などを含む)
【歩行コース】東武東上線川越駅(9:00)→川越八幡宮→光西寺→中院→仙波東照
宮→喜多院→日枝神社→成田山川越別院→川越キリスト教会→市民会館入口
→札の辻(昼食)→広済寺→濯紫公園→高沢橋→見立寺→菓子屋横丁→時の鐘
→りそな銀行→山崎美術館前→大正浪漫夢通り→クレアモール→(15:00)川越駅
川越八幡宮
八幡宮境内にある稲荷神社
八幡宮境内で 仙波東照宮(家康縁の地に家光により再建された)
喜多院
「久能山に直ちに葬り、1年経ったら日光山に移葬せよ」との家康の遺言を実施したが、その移送の際に行列はこの喜多院に4日逗留して天海による法要がなされている。喜多院は、徳川家にとり、特に家光にとって、さほどに大切な場所なのだ。
入館料400円を払えば、客殿や書院に入れる。客殿には「家光誕生の間」や「春日局の間」がある。これらは江戸城紅葉山から移した建物だとのこと。ここにこそ、家康・春日局・家光三人の秘密というか、関係が如実に表されている。家光が秀忠ではなく、家康と天海に対して示していた傾倒ぶりは尋常ではなかったそうだ。上野寛永寺の執事が書いた研究書がある。
「通説」では、家光は二代将軍秀忠の子(竹千代)で、春日局は竹千代の乳母ということになっている。そうすると、矛盾だらけになる。根拠を挙げれば切りが無い---
(1) 両親が兄弟の国松だけを寵愛し、竹千代を疎外したため、彼は自殺未遂をしている。(2)春日局は一介の乳母の身で静岡にいる家康に「家光を将軍にして」と談判に行って、その通りにさせた。(3) 家光は母親と言われている「お江与」の墓も知らなかった。つまり、増上寺を訪れたとき、「あの石塔は何だ」と供の者に訊き、お江与の墓と知らされるや、「目障りだ、壊してしまえ」と言ったとか。これだと、自分の母親の葬儀にも納骨の儀にも立会っていないことになる。(4) 春日局が病の床についたとき、将軍の身で毎日のように見舞っている。(5) お江与と国松(忠長)は毒殺の可能性大------
さすがに近年では「通説」に異を唱える者が増えてきた。江戸城紅葉山文庫にあった「松のさかえ」という史料に『秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公 左大臣』とある。
そこで、昨年末の民放の長時間番組ではズバリ、『春日局は家康の女で、家光は、家康と彼女の間にできた子』と明確に打ち出している。これなら、これまでの矛盾は消える。秀忠夫妻は、竹千代を自分たちの子として育てるよう、家康に押し付けられたのであろう。
ここ、喜多院に来て客殿に入れば、よく分かる。家光誕生の間の畳みは「京間」だそうだ。これも大事な鍵になる。
酒を酌み交わす羅漢像 天海像
成田山川越別院で 新河岸川遊歩道を歩く
蔵造りの町並み
菓子屋横丁に入ればお菓子の山だ。
中心街路地で 時の鐘
蔵造りの町並み りそな銀行川越支店