実施日;2017-10-05
天気;晴れ、最高気温は25度くらいか
同行者;鎌ヶ谷ハイク&ウォークの会、メンバー
カメラ;Pentax X90
徒歩コース;約6キロ *トイレ
北習志野駅(9:10分)→飯山満川源流沿いの道→飯山満駅→東福寺→薬師堂→(10:30)ゆるぎ地蔵→京葉高(10:55)→(11:10)飯山満緑地公園(11:40)→清房院→大宮神社→光明寺*→王子神社→倶利伽羅不動尊(13:45)→(13:48)薬園台駅---
[電車]---北習志野駅→(14:10)ガスト[昼食]
地図--GPS logger "m-241"の軌跡をgoogle 地図に読み込ませ、ソフトのペイン トで上書きして作成しました。
北習志野駅近くから始まる飯山満川源流の道は期待外れであった。土手の細道どころか、車道沿いで、川に落ちないようにずっと金網で目隠しされていた。生活排水が流れ込み、大きなドブ川といってもいい。ただ、住民は両側に背丈の低い樹木や色とりどりの花を活けていたのが救いだ。
立派な東福寺前の道から、切通しのような田舎道の右手に薬師堂があった。
薬師堂は今にも朽ち果てそうなお堂で、修理の最中であった。霊場巡りの番号が付
いていた。江戸時代には霊場巡りをする人も多かったのだろう。
通称「ゆるぎ地蔵」
東葉高校の正門(長屋門)から振り向いたら、前方の民家に柿がたわわに実っていた。
東葉高校は、昔は船橋にあった女学校であった。それが、この地に移って来て、今では共学校だという。通信制もあるとのこと。
この地は、江戸時代に名主総代を務めていた近藤四郎左衛門の屋敷があった所だという。それで、立派な長屋門が残っているのだ。
飯山満緑地公園へ向かう道で。
公園に着いたところで、小高い丘にベンチがあったので、おやつタイムにした。
次に向かったのが、清房院だ。
中国からのおみやげらしい。
大東亜戦争と大東亜共栄圏構想を思い出す。この碑では、上に「大東」がある。
小野田さんはこの碑のことを知っていたのだろう。ここに来て、歌も詠んでいる
し、大切にしていた軍刀を住職に預けて帰ったという話もある。
『日の本は 飯山満に咲いた五月花 散らすまいぞよ 大和武士なり』--小野田寛朗
光明寺の山門は立派だ。左右の金剛力士像は時代の重みがある。その上の額は
「補陀落山」の文字が見える。那智勝浦の補陀洛山寺に通じ、観音浄土を 目指す補陀洛渡海に通じる。なお、補陀落(ふだら)→二荒(ふたら)→ニッコウ→日光となったと松本清張の本で教わった。
最後に、薬園台駅手前の倶利伽羅不動尊に到着した。この公園の低い所に池があり、
ここが前原川の始まりだという。昔は泉が湧き出ていたのだろう。そこに降りる階段
の上が小高くなっていて、そこに民家のような建物がある。右側は小さなアパート
みたいだが、左側がお堂のような造りになっている。玄関のガラス戸みたいな一部に
穴が開いていて、そこからお堂の中が少し見える。だが、暗くてよく分からない。
中央奥に、火炎に包まれ龍に巻き付かれた不動尊の姿があるらしい。
クリカラで思い出すのが、昔小学校で習った歴史・倶利伽羅峠の戦いだ。源氏の
木曽義仲軍と平家軍が倶利伽羅峠で激戦を演じたという。旭将軍・木曽義仲は、源平合戦の走りで、義経軍より先に京都へ進軍している。
なお、木曽義仲は、埼玉県の嵐山渓谷近くで生まれ育っている。
→再び木曽義仲生誕地を訪れる
さて、倶利迦羅に纏わる幾つかの言葉だが、長くなるので以下のネットを見て
ください。
倶利迦羅竜王(クリカラリュウオウ)とは - コトバンク
倶利伽羅竜王の画像-Yahoo!検索(画像)
倶利迦羅紋紋 - 語源由来辞典
倶利伽羅紋々の画像(626,000件)
中高年の団体さんが歩いているのを時々拝見してますが、その中に皆さんのグループもあったんでしょうね。
ヘルメットした青いバイクの老人を先頭に4台の自転車が列をなして進むのは、NHK-BS3のこころ旅のご一行さん。
どこかで らしきグループ を拝見したら、お声をかけてみようと思います。