元高校教師のブログ[since2007/06/27]

地元仲間とのウォーキング、ハイキング、サイクリング、旅行の写真入報告。エッセイや意見も。

勝蔵親分から万葉の飛鳥へ

2007-07-26 08:31:22 | 異端日本史・民俗学

 《勝蔵親分から万葉の飛鳥へ

 皇居の脇を通るとき、バスガイドが「江戸時代、この門から象を入れようとしましたが、からだ半分しか入らず、それでハンゾウモンと言います。」と説明したのにはびっくりした。その場の状況から、笑いをとろうとした雰囲気はまったくなし。実に真面目顔でしたよ。
 マニュアル作成の(作家?)先生は、服部半蔵としては面白くないので、ふざけて書いたのが、会社の指導教官には伝わらなかったのであろう。
  山梨県に入って御坂辺りに来ると、「奈良時代、この辺りは牧場で、良質の馬を献上していた所です。色が黒かったので、黒駒と言い、地名もこの辺りは黒駒村と言っていました。」---これは、まともであろう。
 そこで登場するのが、次郎長三国志でおなじみの、ライバル・黒駒の勝蔵親分である。甲州では人気があったらしい。侠客なんかに姓などあろうはずがなく、清水の(次郎長)、国定の(忠次)、追分の(三五郎)という具合に、土地の名を使っていたのは誰でも知っている。
 さて、黒駒がいるならば赤駒がいるだろう。---そう、その言葉に昔からひっかかっていた。場所は飛鳥、時は奈良時代より少し前の、天武天皇治世。万葉集の歌。

  ---壬申の年の乱の平定(シズ)まりし以後の歌二首--- 

(no.4260)大君は神にしませば 赤駒の腹這ふ田居[タイ]を 都と成しつ
                       (大将軍贈右大臣大伴卿の作)
(no.4261)大君は神にしませば 水鳥のすだく水沼[ミヌマ]を 都と成しつ
                                   (作者不詳)                                                                        
   この辺りは大湿地帯で、とてもミヤコ(京師)にできるような所ではなかった。それなのに...えらい!と、ヨイショしているのである。 ところが、飛鳥の地はすでにミヤコがあった所で、天武軍が大伴将軍の活躍で、壬申の乱を平定し、かつての首都を奪還したのだ。あの辺に水鳥がはばたいたり、馬が腹まで埋まるような大湿地帯や不良水田地帯でもあったのだろうか? 大和は昔から水の少ないところで、そのため、潅漑用の池をわざわざ造っているのだ。
 また、駒と書けば、普通は乗用馬で、牛なら分かるが、その時代から馬が水田農耕用に利用されていたのであろうか? 騎馬民族渡来説ではないが、当時馬は貴重な動物であったはずだし、その主人は農耕民族ではない。
 「腹這ふ」がどうも気になる。従来の説では納得できないのである。野原に寝ころんでいるのではない。水田の中で馬が四つ足で立っているのではなく、腹ばいしているなんて常識では考えられない。そこで「馬が腹まで水田にはまっている」と言い訳する。そんな姿なんて想像できないし、それでは動けなくなって、泥沼で溺れている姿であろう。
 そこで登場するのが、支配者・勝利者からではなく、被支配者・日本原住民側から見た「矢切史観」である。「赤駒」に謎があると言う。

 「赤」は「アカ棚」や aqua に通じる「水」。駒は馬で四つ足、綱吉時代に野犬を収容した東京の四ツ谷にも通じる言葉。ずばり、赤は黒潮に乗ってやってきた海洋渡来民族、駒は戦時中の言葉・満州あたりから昔やってきた騎馬民族。この両者が、当時ではすでに被支配層の一般庶民。江戸時代では八っつぁん・くまさんになる。
 私はまだこの意味の「赤駒」に完全に納得しているわけではない。しかし、その線上でイメージすると、飛鳥浄御原(キヨミハラ)あたりの田圃に腹ばいになってうずくまっているのは、近江朝廷軍兵士たちの屍なのであろうか。ベトナムのディエンビエンフー陥落ではないが、古都奪還・完全制覇、新国家誕生の雄叫びとするのであろうか?これらの歌は。

 {黒駒の勝蔵壬申の乱赤駒矢切史観}


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« プロ野球OB戦観戦記 | トップ | 団塊世代の高校時代、学園闘... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

異端日本史・民俗学」カテゴリの最新記事