Sing Listen Travel 〜歌って、聴いて、旅をして〜

リタイアしてから鬱憤を晴らすようにできなかったことをやってきた。でもマンネリ化してる。まだやり残してることをやろう。

3年ぶりに呉に帰省。父のハナシを聴きながら飲んだ。

2024-07-24 05:37:00 | 
昨日は10時半のANAで呉へ。前回帰省したのは2021年10月。
2年間帰らなかったのは、2021年10月の国立病院の診察で、主治医から“今日で終了“と言われ、診察に合わせて帰省する必要がなくなったのと。コロナの感染が怖かったからだ。一時は病院に長期入院し、もうどこか入所するしかないかと思ったこともあったが、ついに圧迫骨折に打ち勝ったのだ。

ところが今月になって、週に一度電話で話している際の受け答え、話しぶりが、何か心許ない感じがしたのだ。
いつも帰省した日には、先ずは珍来軒の冷麺を食べてから家に向かったものだが、今日は呉駅のスーパーでもちもろ買って直帰。
対面した父は、痩せたりはしていなかったが、身体の動き、動作がちょっと遅くなった感じはした。
とはいえ、ヘルパーさんに週2回、掃除と買い出しのサポートを受けながら、96歳で自活しているとはホントにすごい。

生活ぶりは完全にマイペース。買ってきた刺身や惣菜には、ひらめの刺身をひと切れ食べただけで、自分で炊いたご飯と宅食サービスで毎日届く”おかず“を食べるだけで、それ以外は手をつけず。
栄養とりすぎると医者からおこられるからな、と。これだよ。この節制、完全マイペースこそが、96歳での自活を可能にしているのだ。

おれのほうは次第に酔ってきて、親父にインタビュー。まだまだ完全には知らないでいる父の”ファミリーストーリー“を聞きながら飲んだ。
才能があれば、これをネタに小説でを書くとこなんだがなぁ。
今日はこんなところまで聞けた。

........おじいちゃん(親父の父、おれの祖父)は波瀾万丈の人生じゃった。
呉の町工場で働く職人じゃったが、ある人がやってたヘアピン工場を引き継ぐことになって、それで辰川の家に引っ越したわけよ。そこにヘアピンを作る機械があって。
だけどヘアピン工場はうまくいかなくなって、負債を抱えて機械はとられた。

そのあとはいろんな仕事で稼いで、おばあちゃん、兄き、おれ(父のこと)、妹の5人家族を養ったんだが。
でも肺を患って死んだ。
おれはもうその頃は海軍工廠で働いていて、学校には行ってない。潜水艦の配線をやってた。それから海軍に入るのが所定のコースだった。
海軍に入ったら先輩からしごかれ、さんざん殴られて嫌になり、予科練のパイロットに応募。合格して松山へ。だがもう乗る戦闘機・紫電改はなく、やがて終戦。
翌年の1月頃までは残務処理などで松山にいて、呉に戻って復員局で働きながら、呉四中(三津田高校の夜間部)に入学して勉強。
それから恩師のおかげで、日教組の書記になり、さらに小学校の教員に採用された。はじめが阿賀小学校。そこで同僚のおかあちゃん(母のこと)と結婚した。
おれが復員局で働いて蓄えてた金でピアノを買ってやり、おかあちゃんは猛練習。それからエリザベート音楽大に教員をしながら通ったんよ.........。

今日はそんなところまで。聞いてた部分もあるが、初めて聞いた内容も。
おれには、おじいちゃんより、親父の方が、よっぽど”波瀾万丈の人生“に思えた。






















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