佐比内しし踊りの歴史を語る上で、佐比内高炉および佐比内溜池はすごく関係の深いものです。
簡単に説明すると、万延元年(1860年)佐比内高炉完成の際、山神祭に佐比内しし踊りが踊ったという記録が残っている。
また、佐比内高炉が湖底に沈む、佐比内溜池の落成式(昭和59年)に県知事が来るので佐比内のしし踊りが復活し踊った。
2015年7月5日
橋野鉄鉱山(橋野高炉及び関連遺跡)を含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」は、世界遺産に登録されました。
佐比内高炉跡は当時の通産省が認定した釜石周辺の近代産業遺産の中で唯一、釜石以外にある遺産です。場所は遠野市上郷町の猫川上流で、高炉跡は佐比内溜池(灌漑ダム)の湖底に沈んでいます。高炉跡が残っているのは橋野と佐比内だけです。
佐比内高炉
遠野市上郷町の北、猫川の上流に昭和6年完成の砂防灌水ダムがある。この水底に2座の僻地州高炉が眠っている。
灌漑ダムに沈んでいるため、その存在は「明治7年11月末までの操業資料を有し、また国立博物館所蔵の『佐比内鉄鋼山山内絵図』によって、操業当時の構内状況も、ある程度まで判明していた」(岡田広吉・佐比内高炉遺跡の発掘調査)。
岩手大学の森嘉兵衛教授は、昭和32年7月に、ダムが空梅雨で湛水を排水し尽していたことで、初めて露出した高炉を見る機会を得た。だが、この時の調査では、ダム底の堆積泥が深いため難渋し、わずかな煉瓦、銭棹しか見出せなかった。絶好機会はそれから19年経て訪れた。
その機会とは、昭和53年6月の宮城県沖地震である。ダムの損壊がひどいため、排水して補修工事が行われ、ダム底が姿を現した。工事と併せて、早速幻の高炉遺跡の調査が行なわれたが、発掘は1番高炉のみで、2番高炉までは時間、予算に制限があり、調査を見送った。
1番高炉の再調査は、昭和57年7月27日~8月13日、58年7月25日~8月6日の2次にわたって行われた。
筆者は、当時、新日鐵釜石の史料館(現・鉄の歴史館)の三浦加録館長と、この時期に、1番高炉遺跡を見る機会を得た。四隅の支柱はなかった。高炉の支柱は1.5尺、長さは8尺の花崗岩で、これは現在、慶雲寺の山門と上郷中学校の校門に利用されているが、四方の角に、要らざる加工が施されており残念である。
3段の基壇には損傷の跡が少なく、ふいご座、水路もしっかりしていた。基壇上段の寸法は、15.5尺四方で、泥を払った炉底の様子がはっきり見てとれる。森教授らの調査で、ふいご座跡から油脂が発掘された。鯨油と判明したが、水車軸と、ふいご軸の潤滑油(グリース)の役割を果たしたのである。大島の妙策である。
当初、この佐比内高炉は、遠野領主南部弥六郎の依頼で、大島の門弟清岡澄が大橋高炉の炉容を踏襲して築造した。高須清次郎と遠野商人忠平の共同事業で始まったが、この商人の杜撰な商法に、高須は見切りをつけ、後に岩城屋理平の経営に切り替えた。
佐比内(鉄鉱山)高炉場は、慶応4年(1868)に幕府の許可を得て、橋野の分座として稼働したものだが、築造の時期については、1番高炉は安政6年(1859・森嘉兵衛説)、万延元年(1860に2座・岡田広吉説)とある。盛山時には、年間10万貫、明治2年に45万貫の銭を算出した。
職人・高炉大工、3人、同炭司5人、手伝い4人、鍛冶2人、同手子4人、鋳物師1人、家大工10人、木挽き3人、諸人足29人、御雇手牛方28人、牛128頭、大炭焼75人、小炭焼5人、金掘24人、炭と種(焼鉱石)砕方女15人・子供12人。総人数235人。
大島高任:日本産業の礎を築いた「近代製鉄の父」より抜粋
著者:半澤周三