「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙

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Hawaiiの移民に関する講座のメモ(3)と 追記 1907年 ハワイに入る。 1908年 日本人排斥運動

2018-09-11 21:52:53 | 坂橋氏

Shigeichi Sakahashiさんは、広島県矢野村のご出身でしたので、我が家とは別の坂橋さんということになります。

彼は、私にHawaiiにたくさんの坂橋さんが移住していたことを、教えてくれました。
そして、1900年から始まった自由渡航の最後の年に入国したS・Sakahashiさん。
このあと1908年からは呼び寄せ移民のみが認められるということでしたので、
私が見たSakahashiさんの概ねは「呼び寄せ移民」となります。

兄弟・家族・親戚…それ以前にSakahashiではなくとも、誰かがいたことになります。

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講座の続きです。

移民が終了となり、次は『二世の時代』に入ります。

二世の特徴としては、
米国籍を持っている・英語が喋れる・日本文化の継承が責務である・修身を学んでいる・家長制度がまだ続いている・
農園主の政策は、なんだったかな?…忘れました。

農園主は英語がしゃべれなくともよし…日本語でOKと言っていた。(乗っ取られないように?)
それでも二世たちは「午前中英語の学校 午後は日本語学校」で学んでいた。

カリフォルニアでは日本人の移民はマイノリティーなのだが、ハワイでは日本人移民はマジョリティーであった。
それが日本文化を残すことができたことにつながった。

移民はどこから来たかで賃金が決まっていた。(国によって賃金が違っていた。)
移民はまとまって住んでいることが多かった。

二世の人達の中に修身はしみついていて「犠牲・義理・…」など石に掘られた碑が残っている。

それらの日本文化に関しては以下のセンターに行くと良くわかる。↓

JCCH おかげさまで  https://www.jcch.com/
モイリイリ日本文化センター https://hawaii.navi.com/miru/58/

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次回は第二次世界大戦に突入していく二世たちで、そこから先が映画「Go for Broke! ~ハワイ日系二世の記憶~Memories of Hawai'i Japanese "Niseis"」につながっていきます。

https://www.facebook.com/GoforBrokeHawaii/?fb_dtsg_ag=AdxSYp1eUnd27l-9NMo9zz5mIlK2AllpIas5Gj9iCRHUCw%3AAdxYyc9c44ppRIPH9s71lv4_9Q7GthLs0cINuqgRJHdP2g





Hawaiiの移民に関する講座のメモ(2)と 追記 

2018-09-11 10:26:30 | 坂橋氏
木村摂津守喜毅、通訳として乗っていた中浜万次郎らがカメハメハ4世に謁見した際に「日本から移民を送ってほしい」と要請されたことが大きなきっかけとなって、その後移民を送ることとなっていく。

1854年(嘉永7年)日米和親条約
1858年(安政5年)日米修好条約
1866年(慶応2年)海外渡航禁止令廃止
という動きがあり、
1868年のサイオト号が横浜から約150名を乗せて出港となることにつながっていく。
初の移民船には曲芸師(コマ回し)も乗っていたそうである。

1881年 カラカウア王(7代目)が移民調査を始める。(以下はwikipediaによる説明)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%82%A2

カラカウア王は、移民問題について学びまた外交関係を改善するためハワイを発ち、サンフランシスコを経て日本、中国、シャム、ビルマ、インド、エジプト、イタリア、ベルギー、ドイツ、オーストリア、フランス、スペイン、ポルトガル、イギリスを歴訪し、アメリカを経由してハワイに戻った。初の外国元首の来日となった日本では明治天皇と会見し移民の要請およびカイウラニ王女と山階宮定磨王(のちの東伏見宮依仁親王)の政略結婚を要請した(後者は明治政府に断られた)

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明治政府にとって初めての現職にある王様の訪問となり、大歓迎をしたようである。

これを機に「官約移民」(明治政府が正式に認めた移民)を始めることとなる。
詳しくみると、
1885年(明治18年)-1894年(明治27年)・・・官約移民
1894年(明治27年) -1899年(明治32年)・・・私約移民 ハワイ共和国
1900年(明治33年)-1907年(明治40年)・・・自由移民 米国準州
1908年(明治41年)-1924年(大正13年)・・・呼び寄せ移民・・・ジョンソン・リード法

このジョンソン・リード法というのは「排日移民法」のこと。(以下はwikipediaによる説明)

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95

日本人移民のみを排除した法律ではない。この法律では、各国からの移民の年間受け入れ上限数を、1890年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者数を基準に、その2%以下にするもので、1890年以後に大規模な移民の始まった東ヨーロッパ出身者・南ヨーロッパ出身者・アジア出身者を厳しく制限することを目的としていた。独立した法律があるわけではなく、既存の移民・帰化法に第13条C項(移民制限規定)を修正・追加するために制定された「移民法の一部改正法」のことを指す。

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1900年以降 日本人排斥運動も盛んになり、紳士協定を結ぶ。米国への移民は日本政府によって自主的制限がされることとなった。
労働者としての受け入れはしない、しかし呼び寄せ移民(家族・親戚)はOKである。
この時、写真花嫁が2万人とこうしたそうである。
1924年 日本人はこなくてよい、となり移民時代が終了した。

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まだまだ続く。