「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙

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坂本氏を探る(3) 佐野信吉とその周辺

2018-09-19 16:39:17 | 坂本氏

佐野信吉は富田一白(本貫地は近江国浅井郡富田荘)の五男でしたが、佐野房綱(天徳寺宝衍)の婿養子となります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%88%BF%E7%B6%B1


房綱の長兄である佐野昌綱は戦況を見定め降伏・離反を繰り返して佐野家の命脈を保った…とあるようにこの当時の強敵であった上杉謙信・後北條氏を何度も撃退していたそうですが、やがては嫡子の無かった佐野氏は、北条氏から北条氏忠を養嗣子として迎え入れ、佐野氏忠を名乗らせて家名を保とうとします。
しかし御北条氏の力が強く佐野氏が吸収されたような形となり、かえって反北条氏を攻略するための拠点となってしまったそうです。

その後は、wikipediaの『佐野氏忠』によりますと「天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では小田原城に籠城。敗戦により後北条氏が滅亡した後は氏直に従い、高野山に入る。その後大関斉と号し、伊豆河津で隠遁生活を送り、文禄2年(1593年)に死去。秀吉により、房綱を経てその養嗣子である佐野信吉が佐野氏の家督を継承することになった。 」

とあるように、佐野信吉の時代がやってきます。その陰には天徳寺の奔走があり、功を奏したようです。

あの新田老談記の後北条もこの頃のことのように思えます。

そして気が付いたことは、富田氏の中に盛んに親族として「坂崎氏」が出てきます。なんだか近いような気も。。。

でも、横すべりせずに「佐野氏」と「富田氏」の流れが関係がありそうですので、こちらを調べていきます。





坂本氏を探る(2) 佐野氏

2018-09-19 13:34:27 | 坂本氏

もしも近江の明智光秀の居城「坂本城」と関係のある「坂本氏」だったならば…の仮定で書き進めています。(根拠はありません。)

昨日は「小見の方」に注目して見ましたが、本日は栃木県の小見と埼玉県の小見に住んでいた「佐野氏」のことについて考えてみたいです。

なぜ「佐野氏」?…それは、両方の「小見」と関係がある氏であること、近江国の中にも「佐野氏」がいることが大きいです。

まず、有名なお話なのでご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

佐野源左衛門常世の「鉢の木物語」です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%BA%90%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
  
北条時頼が僧となって放浪している際の出来事で、佐野家が絡んでくるのです。

越中国ではありますが「櫻井庄」もいただくことになるので、私の直系の坂橋市太郎の妻「櫻井平治右衛門の娘」とも繋がるかもしれないと思って進めます。(平治右衛門は新潟の古志という所に住んでいました)

佐野源左衛門常世の話すところでは「自分が一族に佐野庄三十余郷の領土を押収された」とありますので、一族内で抗争があったのです。時は、1250年代と思われます。

絵についていた文には
「佐野常世ハ鎌倉に仕へたる人なり 故有て下野佐野に住し貧困に日を送り忠節愈鉄石の如く且て最明寺時頼脚僧となりて諸國を巡回し民の疾苦を問ふ 計らず佐野家に泊し夫妻の忠節を感じ且常世が愛玩の梅松桜の三樹を伐りて寒凛を凌ぐの資料に充て以て貴人の待遇を厚くす 後時頼鎌倉に歸し召して諸侯に列し佐野の荘にて焚ける三木に擬し加賀梅田越中櫻井上野松井田下野黒髪の荘を賜り益々其忠節を全ふせしとぞ 以壽美 記”」とあるそうです。


…ちょうど、九里の方では「富木常忍」と同時代です。

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この佐野氏は藤原秀郷から分かれた佐野氏でしょうか。そのあたりを探っておりましたら‥‥絶句。
https://www.sankei.com/premium/news/171229/prm1712290001-n1.html

群馬・高崎も「鉢木物語」の舞台とされる。常世の邸宅跡と伝わる常世神社(高崎市上佐野町)がある。だが、高崎に関連史料はあまりない。一方、佐野市内には同時代の史料はないが、多様な言い伝えが残る。出居さんは「物語と史実が重なりあって、できた可能性がある」と指摘。常世は確かに実在し、家名再興を願った。

 佐野基綱の次男、景綱が上野・佐野(高崎市付近)を領有し、この系統が上佐野氏。常世は一族の市橋氏との領地争いで没落し、景綱の故郷、下野・佐野に移った。

 願成寺に伝わる「鉢木物語」はよりドラマチックで、継母との確執、暗殺未遂、三浦泰村の娘との出会いという前段がある。三浦氏は鎌倉幕府の有力御家人だったが、宝治合戦(1247年)で滅んだ一族だ。

 さらに後日談がある。三浦氏の遺族を訪ねた常世。増水した川に小舟を乗り入れた。怖がる家来をよそに「これくらいが怖くて戦に行けるか」。岸に着く直前、濁流に飲まれて、みな水死。常世の遺体は見つからなかった。

 佐野市内に残る伝承でも、「いざ鎌倉」の後、小田原の縁者を訪ね、帰路、増水した川で馬もろとも流されて水死した。有名な教訓話には、あまり知りたくなかった悲劇的でシニカルな結末がある。

 佐野常世(さの・つねよ)生没年不詳。父は常春、祖父は景綱。願成寺の「佐野源左衛門常世の墓」は市指定文化財(史跡)。

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ここに重要なことが書かれておりました。祖父は景綱。
しかし武家家伝他の系図には数名の景綱がいて、よくわかりませんでした。

http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/sano.html


天徳寺宝衍【てんとくじ・ほうえん ?~1601(慶長6)】時代的に「本能寺の変」とかぶってきます。

そして次の佐野信吉【さの・のぶよし 1566(永禄9)~1622(元和8)】には、富田知信の五男とあります。
この富田知信は近江生まれです。

wikipediaには
「富田氏は、宇多源氏佐々木氏庶流で、同族の出雲守護京極氏の家臣であった。『寛政重脩諸家譜』では、富田城を築いた富田義泰が家祖で、一白の祖父・重知が尼子経久に富田城を追われて没落し、京極氏同様に別領の近江国に逃れたとされている。
富田一白は近江国で生まれた。本貫地は近江国浅井郡富田荘と伝わる。」とあります。

この一白=知信の五男が佐野氏となっていたことに、何かしら繋がりを感じますが、果たして明智光秀とのつながりはどうだったのかは、これから調べていきます。