「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙

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坂本氏を探る(7)

2018-09-24 21:38:57 | 坂本氏
上杉家臣団の中にも「坂本氏」がいるのです。

坂本民部という人物です。

深谷領の侍忍領狼籍 并 坂本忍へ使の事 (成田記)
http://www7b.biglobe.ne.jp/~fukajirou/cyuuseishi/oshirannyuu/oshirouzeki-voice.html

この坂本民部は、深谷領にいた人なのか、狼藉を働いた者たちのために謝罪に忍城に行った人物のようです。

この人物と同一人物かどうかはわかりませんが近江国の比叡山と関係のある「北獄日吉神社宮司 坂本民部」もいます。

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最上家臣・新田家臣・伊達家臣・仙台藩家臣等に坂本は見えます。伊達家臣は坂本大條氏といいます。

下記は室町時代からの坂元要害と呼ばれている場所ですが、関係しているのは「坂本氏」です。

坂元要害は当初、蓑首城と呼ばれ元亀3年坂元要害(蓑首城)(1572)に坂本三河俊久が築いたとされます。
坂本氏は鎌倉幕府有力御家人だった千葉常胤の三男・武石胤盛の後裔である亘理氏の庶流で南北朝時代時代以降、小斎峠に近い新城山城を拠点としていました。


https://www.miyatabi.net/miya/yamamoto/siro.html


http://www.town.yamamoto.miyagi.jp/site/kankou/5767.html

坂本主殿という名前もみえます。(最上家臣団)
創価大学の論文では「坂本主殿は,鳥居氏・保科氏と新しい山形藩主に続けて仕官し,保科氏が会津転封の際にも共に移住している。」とあります。



坂本氏を探る(6)坂本(比叡山東麓)で育った 足利義昭の末裔  坂本 義辰(さかもと よしたつ)

2018-09-24 21:34:15 | 坂本氏

比叡山の東の麓に「坂本」はあります。

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坂本 義辰(さかもと よしたつ、生没年不詳)は、江戸時代後期の陸奥国会津藩士、会津松平家家臣。通称は学兵衛。父は坂本義馮(学兵衛。諱は義応とも)

宝永年間から正徳年間までの松平正容の治世下の会津藩城使に「坂本学兵衛」、宝暦5年(1755年)の御用人に「坂本学兵衛」の名が見られるが、これらは義辰の先祖にあたる。

寛政3年(1791年)に会津藩を通して江戸幕府老中の松平定信に、自身が室町幕府最後の将軍足利義昭の子で近江国坂本で義昭近臣の一色藤長に養育されたという一色義喬の子孫である、という由緒書を提出する。

子孫は松平容敬の御用人を勤める。また幕末の子孫の義続(右兵衛)は戊辰戦争で白河口方面の主将となったが、戦傷死した。その子義劉(栄助)の代で、会津から栃木県足利へ移ったという。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E8%BE%B0


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これは、坂本大炊隆中と関係があるのでしょうか? そこはまだ、調査中です。
(仙台藩と会津藩なので、違いますよね??奥羽越列藩同盟で、二藩の坂本氏が同じ白河口で新政府軍と闘っていた…ということでしょうか??)


さらに井伊直広の母に「坂本氏」が見え、側室 智貞院(坂本氏)となっています。
子どもは、
忠六郎(?-1772) 南渓院
女子(?-1765)  
鶴之亮(?-1769)  
女子(?-1771)  
直広(1769-1792) 聞溪院、幼名外也
越後与板藩世子
真田幸専(初名直専)(1770-1828) 大暁院、幼名順介
信濃松代藩七代藩主

・・・となっていて、現在の長野市と関係があります。この母親の坂本氏は井伊家・真田家共に通じ、藩主となる人物も出ていることから、家格も高いのでは、と思われます。










坂本氏を探る(5)成田氏家臣 坂本主水 坂本将監 

2018-09-24 14:15:24 | 坂本氏

埼玉苗字辞典  http://saitama-myouji.my.coocan.jp/2-5sa.html

 忍城士の坂本氏 成田分限帳に「御物頭・坂本将監」。成田記に「本庄越前守の士卒坂本五兵衛は水練の達人なり」。行田史譚に「坂本主水は遊軍として城中を巡廻す。坂本将監は行田口を守る」と見ゆ。


そして、坂本氏の意味は、『下(もと)は浦の意味で海洋民を指す。坂(ばん)族の海洋民集落を坂本と称す。サカノウエ、バン条参照。』

 海洋民と水練の達人の部分が見事につながっています。

将監は↓の参軍、親衛軍、親衛校尉、録事のような意味で使っていると思われます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BA%9C


主水とは、↓と同じらしいですが、いまいちピンときません。水や調理の調達に関わっていた人でしょうか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E6%B0%B4%E5%8F%B8

この「本庄越前守」とは、どなたなのだろうかと思い調べてみますと、他の坂本氏についても少しずつ分かってきました。(ほかの坂本氏は次回へ)
この「本庄」は武蔵国、「本荘」は出羽国にあり、そのどちらとも言い難いのですが、置賜郡(出羽)の方には上杉氏の家臣に本荘氏がいました。

また、武蔵国の「本庄氏」はちょっと複雑です。
児玉党系の本庄氏が時家以降に「本庄氏」を名乗り始め、現在の埼玉県本庄市周辺に居館・居城を構えていたそうです。

もう一つ、秩父党系の本庄氏もいます。桓武平氏秩父氏の一族で、本庄城(現在の村上城、新潟県村上市)に本拠を置き、越後上杉氏、長尾氏に従ったそうで、この本庄氏は揚北衆の一氏だそうです。

揚北衆は鎌倉時代から戦国時代にかけて越後北部に割拠した国人豪族のことで、大きな集団で、加地氏・中条氏も入っています。

上記の坂本五兵衛は、いったいどちらの本庄越前守であったのか…を観ますと、児玉党のようですが、まだ謎の部分も多いようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E9%95%B7%E8%8B%B1

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E5%AE%9F%E6%98%8E

この児玉党系の本庄氏に仕えていた「坂本氏」が成田氏の忍城にいたことになると思います。