Une petite esquisse

日々の雑事の中で考えたこと、感じたことを徒然に書き綴ります。

無策な政治が招く悲劇(2)

2022年02月12日 | 社会学/社会批評
パンデミック後の海外渡航は?



 オミクロン株の爆発的な感染は収まる気配がない。
昨日の国内の感染者は9万8370人、重症者は1340人、死者は147人を数える。
死者数147人、重症者1340人をもって、「オミクロン株は重症化しない」と言えるのか?
東京都では80人に一人が陽性と言われている。病床の確保が出来ず、自宅療養を余儀なくされ、
放置状態に置かれている。
 検査キットが不足し、ワクチンの供給も追いつかない。新型コロナウイルスが囁かれ2年がたち、
この第6波も、十分予想できたはずなのにオミクロン株への明確な対応も示されず、朝令暮改の対策
で対応が後手、後手に廻っている。無能な体たらくさをさらけ出している。
 日本で新型コロナウイルスが囁かれだしたのは2020年の1月半ば、「インドシナ半島への旅」
を計画し、前年の11月には航空券を購入、ホテルの予約も済ましてある。
海外旅行の自粛と言われても莫大なキャンセル料を考えると、今さらキャンセルする訳にはいかない。
 中華航空でベトナムのホーチミン(サイゴン)へ、ホーチミンからラオス航空でパクーセーへ、パ
クーセーから陸路でメコン川沿いに北上して、タイ東北部の中心都市ウドンターニへ、ラオスに再入
国してビエンチャンからルアンパバーンへ、ルアンパバーンからバンコクへ、帰路、台北に寄って
日本に帰国する旅程を組んでいた。
 中華航空の機内はブランケットもピローも機内誌もなくスッキリとしていて、ピリピリとした雰囲
気が漂っていた、しかしタイもラオスもベトナムもさして緊迫した雰囲気はない。
帰国後、旅程を振り返れば、それぞれの国であと5日遅れていれば、陸路の国境閉鎖に出くわしたり
して大変な目に合っていたことが想像できる。




誰もマスクをしていない。密、密、密のストリートフードマーケット 2月13日(ホーチミン)


ノーンカーイの陸路国境 2月25日(ラオス側) 


今はどうしてる?無銭旅行の青年 2月29日(ルアンパバーン)


閑散とした台北寧夏夜市 3月9日 (台湾)

 パンデミックによって海外渡航ができなくなり、パスポートの期限も切れてしまった。
まさか、2020年の2月から3月にかけて「インドシナ半島への旅」が最後になるとは想像も出来
なかった。
 コロナウイルスは簡単に国境を越えて無数の感染者と死者を出し、さらに拡がりを見せている。
それぞれの国は、その被害を食い止めようと国境を閉鎖し、ビザの発給を停止することによって、他
国からの入国制限あるいは全面的な禁止処置をとってウイルスの拡大を防ぐべく外国人の旅行者の入
国を不可能にしている。
 国境を閉鎖している限り、コロナウイルスは拡散しない賢明な策だが、どこの国もこのまま鎖国を
続けるのか?世界は近いと思っていたが、どんどん、どんどん遠のいていく。
 経済のグローバル化によって開かれたと思っていた国境がウイルスによって、こんなにも簡単に閉
ざされるのか。コロナによって分断された世界はどうなるのか?われわれ旅行者にとってこの状況が
いつまで続くのか?
 閉ざされた国境はまた開くのか。再び国境が開放された時、世界はどのように変わっているのか。
かつての生活に戻ることできるのか。かつてのように外国を自由に旅することができるのか。
もう、永久にパスポートが必要でなくなるかも知れない、国境が開放されない限りパスポートは不要
なものになる。


ムアンシン観光案内(ラオス)

2022年01月21日 | 旅の情報
ムアンシンでひと安心

 ムアンシンはルアンナムターから西に約60㎞、中国国境に近いラオスのひなびた寒村で
中国国境のパーントーン(パンハイ/班海)からの大型トラックが目に付く。
 町を歩けば中国の家電量販店、スーパーマーケットでは中国語の表記、中国製品が目立つ。
中国人が多いせいか中国語が聞こえてきて、中国通貨が普通に流通している。
 やたら両替商が多く、「ラオス通貨(キープ)を使いましょう!」と政府の告知文が掲示
してある。近隣の村々にはタイ・ルー族、モン族、アカ族などの山岳民族が暮らしている。




この地方独特の建築物


 一昔前は雲南に都を置いていたシップソーンパンナ王国に属していて、
家並みは中国やビルマ(ミャンマー)の影響を受け、街はビルマの
マンダレーを倣って作られた。
 かっては城壁に囲まれていて、街は碁盤上に整備されている。
そのせいか他のラオスの街並みと少し雰囲気が違っている。
第二次大戦の戦火を逃れ、昔の街並みが残されている。
 街の中心は旧市場跡で、フランス統治時代アヘンの取引で栄えた。
現在はアカ族やモン族がそれぞれのカラフルな民族衣装を
身につけ、山から下りてきて、野菜や果物を売りに集まってくる。
夕方にはナイトマーケットが開かれ、カオ・ソーイやタケノコや
魚、鶏肉料理など郷土料理を楽しむことができる。


県観光局のオフイス


民族博物館

 1920年代に建てられた、かつて商家だった趣のある
木造の家は県観光局のオフイスとして使われている。
このツーリストオフイスから少し歩いた所に、この地の豪族が
使用していた木造の家屋が民族博物館として、少数民族の衣服や
農具などのコレクションを展示している。
異次元文化に触れ、理解する意味で、この博物館は必見である。


ムアンシン市場でゴマ団子(オーロー)を売る、可愛いおばちゃん


道端で野菜を売る少数民族のおばちゃん

ルアンナムターより、さらに変化に富んだ自然に出会うべく、
トレッキングの参加者が増えている。
ツーリストオフイスで近郊の山岳民族の村を巡るツアーを
開催している。トレッキングツアーに参加するのがお薦めである。


ルアンナムター近距離バスターミナル


ムアンシンバスターミナル


データ:
ルアンナムターの近距離バスターミナルから所要1時間40分。
バスターミナルはムアンシンの市場横。
30,000キープ(約390円)街の中心まで約15分。



あなたの知らないベトナム(5)

2021年12月13日 | 旅の情報
ホイアンー木造家屋が郷愁を誘う街


夕暮れ時のトゥボン川

 ダナンから南東へ約30㎞、ホイアンの街はトゥボン川河口に出来た港街で、かつては
ベトナム最大の交易港として、チャンパ王国時代、中国やインド、イスラム圏を結ぶ中継
貿易都市として栄えた。
世界各地から人や交易船が集まり、国際色豊かな近代的な街であった。
 ホイアンは他のベトナムの街と比べ少し雰囲気が異なっている。古い町並みは中国南部
の建築の色合いが濃い、そして何よりもフランスの匂いがしない。
木造の家が連なる素朴な街の佇まいはホイアンだけの独特な雰囲気を醸し出している。 






木造家屋の街並

 琉球王朝との交易の記録が残されているが1570年を最後に途絶え、その後、豊臣秀吉
が御朱印船制度でアジア貿易に乗り出し、中国との中継貿易港として中国の生糸や絹織物が
日本に運ばれた。
日本人町が形成されるが、徳川幕府の鎖国令で衰退し日本人が激減する。
その後、中国人が移り住み、日本人町の面影は次第に消えていく。
現在残っている古い町並みは、その後移り住んだ中国人によって形成された。


日本橋(来遠橋)


橋の内部


橋内 祠




橋の両入り口に鎮座する犬と猿

 日本橋(来遠橋)は1593年、木造屋根付きの橋として建造され、橋の上には船の安全
を祈願する祠も造られている。日本人が設計して中国人が造ったとの説が残されているが、
屋根付きで橋の中に祠のある橋は日本人の発想からは程遠く、日本人町があって、その入り
口に架けられた橋だったという理由が日本橋と名付けられたという説が有力である。
1719年に明王の阮福調が「来遠橋」と命名し、遠くからやって来た人と言う意味で日本
人を意識していたと思われる。


夜のホイアンの街


色鮮やかなランタン


灯篭を売る女の子


アイホイ橋

 近世になって交易船が大型化するにしたがい、河口を利用したホイアンの港は大型船が
入港できなくなり、ホイアンの外港として利用されていた北のダナンに移っていく。
ホイアンの街は寂れていく。中世の街は開発されることもなく、戦争の被害にあうこともな
く、そのまま現代に残されていく。

データ:ホイアン~ダナン循環バス
    18000ドン(約90円)(車体に明記されているが外国人と見ると3万~5万ドンと吹掛けて来るので要注意)
    フエ~ホイアン 5ドル
    ダナン空港~ホイアン 空港シャトルバス 15万ドン(約750円)

アドバイス:
    観光スポットの入場は、町なかに13カ所のチケット売り場があり、5枚綴りの総合チケットを購入し入場する。
    チケットは実質2日間有効で12万ドン(現地要確認)

あなたの知らないベトナム(4)

2021年11月27日 | 旅の情報
戦争証跡博物館(ホーチミン)―ベトナム戦争の痕跡


博物館全景


中庭には当時使用された戦車や戦闘機が展示されている


年間50万人以上の人が来館する


館内展示室風景

 ホーチミンはモダンな高層ビルが立ち並び、パリのシャンゼリゼ通りを彷彿させるほど、中心街は
整備され落ち着いた雰囲気を醸し出している。ベトナムで最も変化が激しく、近代化を感じさせる都市である。
かつてはサイゴンと呼ばれ、統一後はホーチミンと呼ばれるようになったが人々は今でも「サイゴン」と呼んでいる。
 解放軍の戦車が突撃しベトナム戦争に終止符を打った統一会堂(旧大統領官邸)や国外亡命を企てた人々が押し
寄せたアメリカ領事館(旧アメリカ大使館)など激動の歴史を物語る痕跡がところどころに残っている。


大統領府に突撃する解放軍の戦車


当時のアメリカ大使館、ヘリコプターに乗り込もうとする人をけり落とす人々

 統一会堂の近くに戦争証跡博物館がある。
ベトナムに対する侵略戦争の犯罪性を訴え戦争を風化させず、戦争の悲惨さ、残酷さ、愚かさを後世に伝えるべく、
戦争という愚かな悲劇を繰り返したくないという立場から、1975年に開設された。
 戦争遺物、写真などの資料を展示、枯葉剤による被害状況の記録、無残な犠牲者の写真などベトナム戦争の悲惨な
被害状況が展示されている。


逃げ惑う母子


戦火の中を逃げ惑う子どもの姿








怯えるベトナム人の表情


置き去りにされた幼児


枯葉剤の散布により草木がなくなった


結合双生児「ベトちゃんドクチャン」




枯葉剤の犠牲による奇形児


ベトナム帰還兵の子どもにも奇形児が生まれた


 屋外には南ベトナム政府に反対する人々への激しい拷問、処刑を行ったコンソン島の牢獄を忠実に復元した
コーナーがある。


ギロチン台


拷問に使われたトラの檻


牢獄の再現


銃殺の現場写真

 
展示は余りにも衝撃的で言葉を失うが、あった戦争の事実、戦争の愚かさ、罪悪をさらけ出している。


虐殺された母と子の屍

 アメリカはベトナムで行った、非人道的行為に一切謝罪をしていないし、枯葉剤の被害者に対する補償、賠償を
していない。
国家エゴにより引き起こされる戦争は、つまるところ一番弱い立場の人間が、一番ひどい被害をこうむる事を、
心に刻むべきだろう。

データ:
住所   : ホーチミン市3区ボバンテァン通り28番地
開館時間 : 午前 7:00~12:00
       午後13:30~17:00
入館料  : 40,000ドン(約190円)(現地要確認)



あなたの知らないベトナム(3)

2021年09月18日 | 旅の情報
ディエンビエンフー戦勝歴史博物館―MUSEUM OF DIEN BIEN PHU HISTORICAL VICTORY



 ハノイから北西に461キロ、ラオス国境近くの山間部にディエンビエンフーはある。
このディエンビエンフーの街こそ、今から67年前にベトナム独立同盟軍(ベトミン)とフランス植民地軍が
激突し、大規模な戦闘が繰り広げられ、フランス植民地軍の大敗によりインドシナ半島のフランス植民地政策
が終焉を遂げた場所である。
 ディエンビエンフー戦勝歴史博物館は2014年にディエンビエンフー戦勝60周年を記念して建設された。
建物のデザインは当時の兵隊が被っていた竹製の帽子がモチーフになっている。
 展示資料は約1000点、当時使用された武器や写真、実物大の人形などを使って、険しい山道を、物資を
運ぶ少数民族の姿やA1の丘での戦闘風景など、戦争の様子が具体的に分かるように展示されている。
攻撃、爆撃機を持たず武器も古くて貧弱なベトミン軍が、いかに劣勢の中で、装備で優越するフランス植民地
軍に勝利したのかが、よく理解できる。
過酷な植民地政策にベトナム人がベトナム民族の自由のために如何に戦ったか理解を深め、ベトナム民族の
誇りと愛国心を涵養するのを目的としている。
 戦勝と謳っているように、ベトナムがフランスに勝った事実を強調し、決して中立的な立場ではないが、戦場
となったのはベトナムであり、土地が荒廃し多くの民間人が犠牲になった。
戦争というものは、勝とうが負けようが、必ず弱い者が犠牲になる、虚しいものであると想い起させる。


ツアーガイド風景


作戦室


作戦室のホーチミン


展示室風景 物資を運ぶモン族

重機を運搬するベトナム兵








自転車を押す人




A1の丘の激戦図


自転車


生活用品


小型爆弾




フランス軍と戦車


険しい山岳地帯


A1の丘での戦闘風景


勝利に向けて進撃を続けるベトナム軍


降伏するフランス兵


データ:
ディエンビエンフーへ
ハノイから飛行機で一日2便 所要1時間
     バス便多数 所要11時間
サパからバスでライチヤウ(LAI CHAU)へ行き、
    ディエンビエンフー行に乗り換え 約8時間
    直行便もあり(現地で要確認)
ラオスから バスでラオス各地からディエンビエンフー行あり

ディエンビエンフー戦勝歴史博物館への行き方
勝利の記念像からVo Nguyen Giap St.(ヴォーグエンザップ通り)を南へ約800メートル。