Une petite esquisse

日々の雑事の中で考えたこと、感じたことを徒然に書き綴ります。

そうだ、京都へ行こう

2022年05月01日 | アート全般
知られざる京都の美、『智積院』で長谷川等伯のホンモノに出会える

 子どもの頃大阪に住んでいたので、小学校の遠足は、たいがい京都
か奈良であった。天龍寺か南禅寺だったか定かではないが、長いなが
い参道を歩いた記憶ぐらいしかない。
竜安寺の枯山水を見て何のためにこんな庭を作ったのかさっぱり分か
らなかったし、清水寺では「清水の舞台から飛び降りる」という言葉
があるが、実際に飛び降りた人がいたのか?と思った程度である。
余談ながら清水寺は京都で唯一の高層建築でもある。

 京都は日本の「古都」、歴史の興亡が繰り返されてきた街である。
歴史遺産も多く、京都は「美の宝庫」と言われている。
京都の寺院には世界基準に照らしても劣らない普遍的な美がある。
それが、庭園や建築物であったり、絵画・仏像であったりする。

 京都には日本美術を代表する美術作品がたくさんある。しかし美術
館の倉庫に保管されていたり、非公開だったり、いつも見学できると
は限らない。
以前、東京国立博物館で「長谷川等伯展」が開催された。大混雑で他
人の頭越しにしか作品を見ることができず、他人のシルエットだけ見
て帰って来たことがあった。
同じような経験をした人も多いと思うが、「智積院」では安土桃山時
代の長谷川等伯の障壁画をいつもゆったりと鑑賞できる。

 鑑賞者にとっては、間近で画面に近づいて筆のタッチや色の微妙さ
まで見ることができる。
絵具が剝落して、色彩の鮮やかに欠けていても、いかに本物が素晴ら
しいか、本物を見る感動を味わうことができる。



 智積院は真言宗智山派の総本山。南北朝のころ創建された紀州根来
山の学頭寺院が起源である。
1585年(天正13)豊臣秀吉の焼き打ちに遭い京都に移転した。
仏教顕学の道場として栄えた。

桃山美術の豪華絢爛な障壁画で有名で「桜図」、「楓図」、「松に秋
草図」など25面から構成される、長谷川等伯、久蔵の障壁画(国宝)
を所蔵している。


長谷川等伯筆 「楓図」右側部分


部分拡大図

 「楓図」には川に垂れかかる紅葉が描かれている。数枚の葉がある
が、オレンジ、赤などいくつかの色で紅葉の進み具合の違いと、色の
組み合わせの美しさが描かれている。
中央には太く巨大な幹がある。その力強さと葉の繊細さの対比が面白い。




智積院には美しい日本庭園の「名勝庭園」、大書院をはじめ「金堂」
や「明王殿」等があり、「東山隋一の庭園」、「利休好みの庭」と言
われている。築山は中国の廬山をイメージして造られている。

春は5月から6月にかけてツツジが咲き、秋になると紅葉でより鮮や
かになり、夏の緑が綺麗な時期もオススメである。

周辺には「三十三間堂」、「京都国立博物館」など観光スポットがあ
り、そちらに観光客が流れるのであまり混雑していない。
観光客が少ないのも相まって、ゆったり、静かで趣深い時間を過ごす
ことができる。

京都を観光する時、智積院にも立ち寄って、「東山随一」、「利休好
み」と言われる名勝庭園、長谷川等伯の障壁画をゆったり鑑賞しては
いかがですか。


アクセス: 電車「京阪七条駅」から徒歩10分。JR京都駅から
市バス「東山七条」下車徒歩3分。
料金  : 大人500円(境内のみは無料)
電話番号: 075-541-5361
拝観時間: 9:00~16:30(16:00受付終了)
定休日 : 12月29日から12月31日





若林 奮ー飛葉と振動

2016年01月10日 | アート全般
 若林 奮は2003年胆管癌のため亡くなった。その事が昨日のように思われる。
芸術の世界に生きて芸術家ズラしつつ、実は芸術の名を穢している「輩」が多い中で、彼は芸術の本質を問いかけた、たぐい稀なる彫刻家である。
芸術と言う概念の「鋳型」の中でしか制作ができない作家、常に流行に追われ、パターン化された類似的な作品しか作ろうとしない日本の美術風土の中で、彼は芸術の概念に捉われず、自身の思考に忠実に「芸術の概念」そのものを創造したと言える。
人が生きているという思考を彫刻制作によって体現した人物とも言える。
朴訥で一言ひと言、コトバを選び、考えながら語る彼の姿は哲学者のようでもあった。
死ぬ間際、2003年に制作された、「飛葉と振動」というタイトルが付けられている「自刻像」は生きることを問いつつ、この世とあの世の境界を見つめている彼自身の姿のように思われる。


若林 奮 飛葉と振動展
2015年8月15日(土)から12月23日(水祝)
神奈川県立近代美術館 葉山館


















東京工芸大学パクリ疑惑

2015年12月21日 | アート全般
 2001年にヨーロッパにデザイン・リサーチに出かけた折、チュリッヒで見かけたポスター。人類の進化の過程を示し、人がゴミを拾っている。何ともユーモラスであり、空間配分(レイアウト)も完璧で申し分ない。
 一方は小田急線の車内広告で見かけた、2007年度の東京工芸大学の学生募集ポスター。
『「写真教育」をルーツとし、つねに進化しつづけ84年の歴史!』 
ここに描かれているイラストはチュリッヒで見かけたポスターのイラストとほぼ同じではないかと思い、東京工芸大学に問い合わせた。
 後日、担当者から電話で「外注したデザイナーに問い合わせたところ、盗作ではないと言っているので、盗作ではありません」との回答をいただいた。あまりにも簡単すぎて、何とも釈然としない答えである。東京オリンピックのエンブレムの盗作疑惑で一躍有名になった佐野研二郎さんだって「盗作ではない」とわめき続けているではないか。
どう見ても「佐野研二郎してる」としか思えないのだが、みなさんは2枚のポスターを比較して、どのように判断されますか。


チュリッヒで見かけたポスター




東京工芸大学の学生募集の車内広告









「永仁の壺」捏造事件

2015年02月23日 | アート全般
「永仁の壺」捏造事件





 1943年(昭18)、愛知県の道路改修工事現場で古瀬戸の壺が発見される、「永仁二年」の銘が入っていたので、陶磁史上の大発見として大きな話題となる。
 1946年(昭21)、東京美術倶楽部で展示され、陶芸家の加藤唐九郎がこの壺の解説を行う。
 1948年(昭23)に文部技官で陶磁研究家の小山富士夫が「この壺」を重要文化財に指定するよう提案するが、銘文に疑問があるとして見送られる。
 1954年(昭29)、唐九郎は自ら出版した『陶器大辞典』に原色図版で紹介する。
重文指定に反対していた委員たちが他界した後、1959年(昭34)、小山は再び重文指定を求める。この時は何ら議論されることなく、満場一致で重文に指定される。
 永仁の壺は怪しいとの噂はずいぶん前から地元ではささやかれていたが、1959年(昭34)、名古屋の丸栄百貨店で「火と土の芸術展」が開催された頃から偽物の疑いが決定的になる。翌年、1960年(昭35)2月に読売新聞が永仁の壺に「ニセモノの疑い深まる」と報道し騒動が大きくなり、唐九郎が疑惑の人物とされる。彼は頑なに「壺は本物で疑惑はでっちあげだ」と否定するが、結局、唐九郎が自作の壺であると告白し、翌年、科学分析の結果、鎌倉期の作ではあり得ないと証明され、重文指定を解除される。これが事件の概要である。
 芸術新潮1960年12月号の対談の中で、青山二郎氏は「文化財保護委員会の連中に目がないから悪い」と発言している。唐九郎が学界や役人を嘲笑うため、わざと松留窯を仕込んだ、彼の所業を虐げられてきた陶人の魂の造反であると讃える人もいる。
村松友視氏も自身の著作の中で、唐九郎はこのような事件を起こすことで、陶芸の価値がある特定の人々によって決められている、既存の陶芸界の権力構造に反撥した。陶芸を広く世間に示し、陶芸の価値を高めたと彼の行為を擁護している。
 しかし、私はこの考えに反対である。松留窯と言う、鎌倉時代の存在しえない瀬戸古窯のデッチ上げ、もっともらしく見せる演出、自分が発掘したと称し、その陶片を根津美術館に持ち込み、礼金として2千円(現在の440万円から520万円)を手に入れている。自分が作ったものであるにも関わらず、鎌倉時代末期の出土品と解説をおこない、自分で編纂した『陶芸大辞典』にカラーで図版まで載せている。
 松留窯出土と称して、根津美術館に陶片を寄贈するのは、永仁の壺事件の17年前、松留窯の陶片が重要文化財に指定する判断材料になった事を考えると、実に綿密に計算され、長期的に計画された大がかりな歴史の捏造事件と捉えることも出来る。旧石器発掘捏造事件を引き起こした、民間の考古学者の幼稚な手法と比較すれば、知能的で余りにも手の込んだ見事さである。
 唐九郎は「みんな偽物と言うがあれは偽物じゃないよ。偽物というのは、本物があっての偽物じゃないか。永仁の壺は本物がないんだから。あれは僕の本物の創作だよ」、何か具体的な作品をまねしたのではなく存在しない永仁の壺をデッチ上げただけと主張するが、歴史を歪曲する行為はただ単なる偽作を作るより、もっと罪が重いと考える。
 唐九郎も口をつぐんだまま亡くなった。関係者たちも沈黙をし、真相を語ることなく他界した。何が嘘で、何が真実かさっぱりわからない。ますます謎は深まるばかりであるが、贋作を作ってよしとする瀬戸の風土があって、古瀬戸の「写し」を本物と称して売り捌く、唐九郎は悪知恵を働かして、より高く売るために、廃れた古窯をデッチ上げ発掘劇を演出しただけである。「永仁二年」の銘があったばかりに、贋作スキャンダルに発展したと推測できる。

永仁の壺事件に興味をお持ちの方には、松井覚進著、『永仁の壺 偽作の顛末』講談社文庫を読むことを薦めます。ただし絶版のため古本市場で探して下さい。

偽ガンダーラ仏

2011年09月28日 | アート全般
 1987年に奈良国立博物館で開催された、特別展「菩薩」の目玉展示のガンダーラ仏が贋作と指摘され、奈良博は偽物と気付きながら、ニセモノと認めず、あくまでも本物と主張する。政治家、文部省などからの圧力、仏像の検査妨害と、ありとあらゆる手段を使い、贋作指摘派を潰しかかるが、圧力をかけても効果がないと分かると、あとは沈黙をつづける。
 X線検査の結果、「寄せ石づくり」の贋作であると判かると、館長の西川杏太郎は、税関の確認書から奈良博が購入したものと確認されているにも関わらず、「館は仲介しただけで館の学芸員が個人的に売買の話のリレー役になっただけ」と新聞にコメントし、奈良博の責任を学芸員個人に転嫁する。贋作騒動の中でも最も醜い事件である。
 その後、当時の館長の西川杏太郎は横浜美術短大(現大学)学長、神奈川県立歴史博物館の館長を歴任している。真理を折曲げ、国民を愚弄し、文化に泥を塗る、こんな人物が要職に就いている事が日本の文化行政の貧困である。今もガンダーラ仏はニセモノと言う人が多いが、西川はこの事を、どのように考えているのか。