Une petite esquisse

日々の雑事の中で考えたこと、感じたことを徒然に書き綴ります。

ワッタイ国際空港(ビエンチャン、ラオス)

2024年10月14日 | 旅の情報
朗報 ー 嬉しい、空港ルートバスの再開 ー


エアポートライン 44番バス

 新型コロナ禍も終息に向かい、海外との往来も自由に出来るようになった事は喜ばしいが、新型コロナ
禍後の社会状況の変化に違和感を感じている人も多くいると思われる。
 銀行より交換レートの良かった両替商が軒並み店を閉じていたり、外国人観光客に人気があったレスト
ランが廃業していたり、とりわけ安価な料金で利用出来ていた既存の公営バスルートが廃止されていたの
は旅行者には痛い。

 ラオスの首都、ビエンチャンのワッタイ国際空港は国際線と国内線ターミナルが隣接している空港で、
村上春樹に言わせれば「居間を通り抜け、奥のドアを開けたら裏庭みたい」なこじんまりした空港だが、
ラオスのハブ空港としてルアンパバーン、パクーセなどラオス各地の地方空港を繋いでいる。
国際線はラオス国営航空がタイ、ベトナム、カンボジア、中国やミャンマー、シンガポール、韓国などに
運航しており、小振りながら利用価値が高い。


新型コロナ前の空港シャトルバス

 新型コロナ禍前は空港シャトルバスが走っていて、庶民的な運賃で市内まで行けたがこの路線が廃止された。
空港から市内まで約6Km、空港内のタクシー予約で10US ドルかかる、10US ドルはラオスの物価水準から
して高すぎる。

 今年7月にビエンチャンを訪れて、空港シャトルバス「エアポートライン 44番バス」が再開されているのに
気づいた。空港とビエンチャンキャピタルバスターミナル間を循環している小型のミニバスだが、
以前の空港シャトルバスと同じルートを走っている。


空港到着ロビーを出たところに、エアポートバスの案内表示


エアポートライン 44番バスのルート図


データ:空港到着ロービを出て右側に歩いて20メートル。
    運賃 40,000 LAK≒294円(2024年7月 1円=136LAK)

    空港から市内へはスーパヌウォン通り、セーターティラート通りを走りビエンチャン
    バスターミナルまで、市内からはサームセンタイ通りを走り空港まで。
    メリキュールホテル、メコンホテル、セタパレスホテル、ラオプラザホテルなど
    主要なホテルをつないでいる。

    市内から空港に行くには「ビエンチャンバスターミナル」へ行くか、「ラオプラザホテル」か
    「文化会館 / 旧国立博物館前」の停留所が分かり易い。 
       
    時刻表は不規則なので要確認。(朝7時頃から夕7時頃まで12便)







台湾の絶景

2024年08月03日 | 旅の情報
太魯閣渓谷(花蓮)

 台湾から帰って来たら早速のニュースが「台湾地震」だ。
花蓮市内の被災状況はビルの崩壊など、テレビでしっこいぐらいに放映されているのに、
太魯閣渓谷の具体的な被災情報はほとんど報じられていない。
「無期限通行禁止」処置が取られたニュースと断片的な映像などから見て、
太魯閣はほとんど壊滅状況だと推測できる。
 太魯閣渓谷は太魯閣牌樓(タロコ入口)から天祥にかけで約20kmにわたり大理石の断崖絶壁が続く、
自然の造形美が織りなす世界に類をみない美しい渓谷である。
いつになったら、又、あの素晴らしい光景を見ることが出来るのか。
素早い復旧を願うばかりである。


清水断崖から見た太平洋の蒼い海


清水断崖


太魯閣渓谷入口から見える吊り橋


燕子口入口


燕口




燕子口


九曲洞 岩をくり貫いて作った道路






錐麓大断崖


断崖が聳え立つ太魯閣風景


天祥 錐睴橋(吊り橋)


祥徳寺


天峯塔と文天祥像




天祥のレストラン タロコ族の民族料理を食べることができる

パンデミック禍の海外渡航(1)

2024年03月22日 | 旅の情報
廃墟と化したシーパンドン(ラオス)


夕暮れ時のメコン川


ナカサン ボート乗り場


ファデット船着場

 ラオス最南端、カンボジア国境でメコン川は川幅を大きく広げ、様相を変える。穏やかに流れるメコン川が唯一、
例外的に荒々しい表情を見せる場所でもある。中洲に無数の島々が浮かび、シーパンドン(4000の島々)と呼ばれている。
対岸はカンボジアでラオ族とクメール族とを分ける分岐点でもある。
 比較的大きな島では人々は水田でコメを作り、川魚を捕らえ、糸を紡ぎ織物を織る自給自足の生活を送っていた。
東南アジアらしい、観光とは無縁な小さな寒村であった。
 自然の美しさに惹かれ、欧米人バックパッカーが押しかけるようになり、村は一変する。
欧米人に迎合し、欧米人好みに変えられていく。
島々の川べりに簡素なゲストハウスやレストランが立ち並び、パブではビール片手に大騒ぎ、まるでヨーロッパの街のような
無国籍、多国籍の様相を見せる。
 新型コロナウイルス禍で欧米系のバックパッカーが途絶えると、欧米系の旅行者に依存していた島は壊滅状態になった。
つわもの(兵者)どもの夢の跡、ゲストハウスもレストランも休業状態で・・・元の静かなシーパンドンに戻った。




欧米系バックパッカーで混雑していた、島一番の繁華街ファデット

どこのレストランも閉店状態

 自転車をレンタルして島をめぐる、地図がなくても迷うこともない、道は一本道で3~4時間でコーン島とデット島の
2つの島をめぐることが出来る。自転車を借りるのにパスポートの提示も名前も聞かれない、自転車泥棒がいないのか鍵の必要もない。
代金は先払いで勝手に元の場所に返しておけばよい。
 観光スポットとしては東南アジア最大の水量を誇るコーンパペンの滝、19世紀にフランスが物資輸送のために敷設した
鉄道橋、朽ち果てた2台の蒸気機関車が旧鉄道橋とバンコーン船着き場の近くに展示されている。
この光景はかわらない。


旧鉄道橋


旧鉄道橋近くの蒸気機関車


バンコーン船着場近くに展示されている蒸気機関車






コーンパペンの滝


シーパンドンへの行き方:
パークセーの南バスターミナルからナカサン行きのソンテウで2時間30分、
80,000LAk(約730円)
パークセーからツーリスト用のミニバスでナカサンまで、小型ボートに乗りファデット船着場かドンコーン船着場まで、
ボート代込みで150,000LAK(1360円)

コーンパペンの滝への行き方:
ナカサンからトクトクで30分、往復で80,000LAK(約730円)
入場料 35,000LAK(約320円)

ボーテン・廃墟の街(ラオス)

2023年04月15日 | 旅の情報


大型免税店(前の広場は工事が中断されたまま)


工事が中断されたホテル


立派そうなホテル、営業している気配はない

 ルアンナムターの北方60Km、近距離バスターミナルからミニバスで約1時間30分、ラオス最北部、中国との国境にボーテンはある。
 日本のメディアは報道しないが、ラオス北部は中国政府が推進する一帯一路の「海外進出」のもっとも著しい所である。中国は自国のようにラオス開発をすすめている。
ボーテンは特に「ここは中国か?」と錯覚するほど街中に中国語の表記が目に付き、ラオス北部の中国化を象徴している街である。
 中国雲南省(昆明)からボーテンの国境を通過して、ルアンパバーン、フアイサーイを経てタイを縦断、バンコクに至るルート。景洪からムアンシンの国境を通過してフアイサーイ、ルアンパバーン、ビエンチャン、タイ、カンボジアを経て、ベトナム(ホーチミン)に至る2つの幹線道路が計画されている。
中国企業のラオス進出によってインフラストラクチャー(インフラ)が整備され、ラオス国民の雇用も拡大されることで、ラオスも恩恵を蒙っているではないかと言う人もいるだろうが、結局は中国企業と一部のラオス人が潤うだけで、一般のラオス人には実入りがない。
 ラオス政府は国内各地の国境地域に経済特区を設け、関税、所得税の減免など優遇措置をとり、外資の誘致を計画している。
2003年にボーテンは中国企業がカジノを中心とする観光開発に乗り出した。ギヤンブル好きな国民性なのに、中国では賭博は御法度、そこで国境を越えた地にカジノをつくり、中国人観光客を呼び込む算段だった。
山奥のうらぶれた集落、未舗装の道路と民家が少しだけの村は激変し、ラオス建築にはあり得ないピンクや黄色、バイオレットの、まるで「おとぎの国」のような街が出現した。カジノ建設にともないリゾートホテルやレストラン、ショッピングモール、大型免税店ができ、投資用のマンションが次々と建設された。
カジノ誘致によって、暴力団が利権を求めて進出、治安が悪化し、麻薬、暴力事件などの犯罪が頻発し、中国からの出稼ぎ売春婦が闊歩し、カジノで大負けして、金を払えなくなった客が殺されるという事件も発生した。
 2010年にラオス政府はカジノを閉鎖した。カジノ経済特区でラスベガスのように賑わっていた街の終わりはあっけなくやって来た。人工的に造られた街はゴーストタウンと化している。現在、ラオス政府はゴルフ場を建設し中国からの観光客を誘致しようと再開発を目論んでいる。
 日本ではカジノ法案が可決されたが、カジノを合法化しギャンブルによって泡銭で収益を得ようとする「さもしい考え」は、そこに暴力団が進出し、治安が悪化するというマイナス面も考えなければいけない。

追:雲南省の昆明からボーテン、ルアンパバーン、ビエンチャンまでの鉄道敷設も計画されている。

データ:
ルアンナムター近距離バスターミナルから 約1時間30分、25,000キープ(約335円)
(ボーテンにはバスターミナルがない、ルアンナムター行のミニバスが道路の所々とイミグレーション周辺に停まっているが、予め、ルアンナムターの観光案内所でボーテンからルアンナムター行のバス停留所を聞いた方が良い。)



あなたの知らない台湾(13)

2023年04月01日 | 旅の情報
霧社事件を考えるー真実は霧のなか

 台中から日月潭へ行く途中、バスは埔里という街に寄る、この埔里のバスターミナルから
北東に20kmの山間に霧社という集落がある。日本では霧社事件で知られた村である。
 霧社事件とは、1930年大日本帝国植民地支配下の台湾で日本人巡査が原住民の若者を殴打
したことが発端で、原住民が反発して蜂起、モーナ・ルダオをリーダとして霧社各地の駐在所を
襲った後、霧社公学校で行われていた運動会場を襲撃、日本人140人を殺害した事に起因する
一連の事件である。
武装蜂起の背景には、日頃からの差別的な取り扱い、原住民に対する侮辱、森林伐採などの過酷な
労働の強制について原住民たちの間に不満が募っていたと言われている。
 台湾総督府が駐留日本軍や警察を使い武力による鎮圧を開始、大砲や機関銃、航空機、毒ガス弾
などを使い暴動部族を制圧。村が全滅する悲劇的な結果をまねいた。
日本側の投降呼びかけによって投降した蜂起部族はみな殺しにされた。
 霧社事件を代表する記念碑として「日本人犠牲者追悼碑」が建てられ、野蛮な原住民を文明化する
過程で起こった、やむをえない犠牲とされていた。
セゼック族のマヘボ社の頭目、モーナ・ルダオは警察の処罰によって地位を失うことを恐れて、
蜂起を画策したとも言われていた。 


モーナ・ルダオの像


モーナ・ルダオの墓


原住民抗日蜂起記念像


背後から撮影


拡大部分


霧ヶ岡神社跡

 日本の植民地終了後、国民党政権は抗日教育の一環として、「霧社山胞抗日起義記念碑」を設立、
ここに設置されていた日本人の犠牲者追悼碑は破壊された。
国民党政権では評価はまったく変わり、霧社事件は日本の圧政に対する英雄的な抵抗運動とされ、
蜂起の指導者たちは「抗日英雄」と讃えられるようになった。
その時の権力者の都合によって、歴史のストーリが簡単に書き換えられる。
台湾での植民地政策は天皇と帝国に対する忠誠を示した台湾人は優遇され、反撥する人間は徹底して
弾圧される二面性を持っている事を理解する必要がある。
モーナ・ルダオは英雄か逆賊か?真実は歴史の霧のなかである。


霧社への行き方
埔里バスターミナルから「翠峰」、「清境農場」、「蘆山」行き「霧社」下車。