2月17日 月曜日
おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。
社会に混乱を招いたダーウィン進化論に終止符を打つためにも、
新進化論を完成させねばなりません。
誰もが人類は特別だと思い、確かに疑う余地なくその通りだ。
例え個人のあらゆる種がそれぞれ比べようもなく個性的であったとしても、
逆に人類の特異性が本来の意味で特別でなかったとしても、
あるいは進化が、どれだけ自分自身に都合よく解釈されたとしても、
人類の進歩が他の動物から区別されたことには間違いない。
端的に説明すれば、
新進化論とは遺伝子の二重らせんによるものである。
脳は進化によって出来た器官だ。
この器官の中には二つの性質が備わっている。
進化という名の 「利己と利他」 だ。
人類進化の中で淘汰を生き抜いてきたと説明するには、
遺伝子による二つの顔を持つ振る舞いが最適者だ。
共存共栄を分かち合う集団を楽しむ利他的ミームと、
他人に対して残忍な行動を楽しむ利己的ジーンによる、
遺伝子進化論での利己と利他、双方を兼ねた振る舞いによる二重性、
二つの遺伝子に対して対立ではなく相互依存による、
遺伝子進化論の適応性と最適者とは、
利己的ジーンと利他的ミームの比率を以て発展した時にのみ保証されるものであって、
どちらかに偏ってはどちらも淘汰の対象となるのである。
重要なのは比率とバランスなのである。
ダーウィンによる進化論は動物進化論であり、
自然淘汰は初めから終わりまで競争的だという。
次に、進化生物学が現時点で調和を保守している。
過去、この二つが対立し合っていた時代、様々な淘汰が具現化した。
代表的なのは二つの世界大戦であろう。
この戦争によって数知れぬほどの生命が淘汰されたのだ。
つまり、競争、闘争、共生、団結など、
どれもみな全てが淘汰の対象であったのだ。
過去、進化は相手を打ち負かすものと思われていたが、
そうではなく、共生にこそ希望があるとも考えられた時代、
動物哲学にせよ、生物学にせよ、自然科学にせよ、
人間だけが食物連鎖から逃れて、また脳の突然な発展には、
ゆっくりとした自然の中での突然変異であると疑う余地はない。
突然変異での人間の脳の発達による遺伝子進化論なのである。
少し比喩的だが言い方を変えれば、
脳には二つの性質が備わる。利己的なジーンと利他的なミームだ。
どちらも同じ人物であり、誰にでも備わる人間の長所だ。
この長所を発展させることが新進化論の目的であり、
動物進化論と進化生物学による過去の対立とはこれでさよならだ。
利己的なジーンは攻撃的であり、利他的なミームは協調的だ。
どちらが良いか悪いかではなく、どちらも自分自身なのである。
重要なのは、
この二つのどちらかに偏りすぎればそれが淘汰の対象になることである。
つまり、利己的でも利他的でも生き残れないのである。
最適者とは一体誰なのか? 人類が解決しなければならない難問だ。
過去、ダーウィンによる種の起源が社会を利己的へと導いた時代、
全ては自然淘汰によって強いものだけが生存可能だとするかなり強引な理論が人々の感情を支配した。
自然が牙と爪を血に染め、情け容赦のない闘争が繰り返されていた時代、
自然が一つの大きな蒼然たる闘争。残酷で過激な競争社会での生存闘争という理由。そして適応性。
その適応性がより強いものだけが生き残ることで進化がもたらされるという、
まるで地獄のルールブック。相手を殺さんばかりの競争をそそのかすようなものである。
ダーウィンの自然淘汰が地獄論でいうところの 「絶望という科学」 であるにしても、
この情け容赦のない生存闘争において生き残りを賭けたプログラムに終止符を打つのが新進化論だ。
いつまでも 「我が闘争」 が自然法則だと言っていては
第二のアドルフ・ヒトラーを再現するだけであるからだ。
それに対して、
共生が成せる業、利他的行動の主張には、
もっとも気前が良い自己犠牲がどうして自然淘汰を生き延びることが出来たのか?
利他行為には相互協力による利益がある。最適者にとってこれ以上の武器はない。
生存闘争において生き残ることが最大の使命であり相互援助が実際には最適者として生き残るのだ。
ホメオスタシス。体内の細胞が生物個体全体の利益のために機能しているのと全く同じように、
各個体は集団に貢献し従属するようになり、またアナロジーに向けられた「内部環境」を
制御、調整、維持させて集団に貢献している生物学と生態学の原理によるものである。
ホメオスタシスは部分と全体の対立に対する解決策である。
個人の利益と集団の幸福の間のかじ取りにおいては、
相互依存によるバランスと比率に懸かっている。
どちらにしても、これらの答えを全て自然に当てはめて今日まで激しい論争が続いている。
ある動物として他の個体の為に自らを犠牲にするように仕向ける行動は、
第三者に対する優位を獲得する上で究極的な合理性があることが解る。
自分の利益につながるところでは、あらゆる生物は当然のことながら仲間を助けると予想される。
個体を受け継ぐ遺伝子。集団を破滅さようとする個体。他の集団と共生しようと試みる集団。
利他的行動が利己的行動と共に進化してきた事実であろう。
それは何らかの目的に適し、何らかの秘められた天性の尺度として進化に通じる道であろう。
ここで一つ重大な疑問が浮かび上がる。
本来の利他的行動とはそもそも存在するのかという疑問である。
全面的に自分自身の利益のために振る舞う機会が与えられたら、
利他主義を装ってみても偽善者の血が流れていることに気づく。
相対的に見ても利己には利他が無ければ、また
利他には利己が無ければ生まれないのではないか。
善悪同様、幸福と苦痛と同じように表裏一体ではなかろうか?
民主主義の正義と自由市場。共産主義と平等への期待。自立と団結。
私たちの進化はどこに向かうのか?
生命誕生から人類進化への壮大な歴史物語である。
闘争か。平和か。 共生か。対立か。
この世界が地獄であっても法則さえ解れば対応可能だ。
文明をもたらした人類にとっての適応性と最適者。
私たちが暮らす地球の守護者としての使命。
それはミームとジーンによる、二つの性質の比率(バランス)にあるのだ。
つづく。
おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。
社会に混乱を招いたダーウィン進化論に終止符を打つためにも、
新進化論を完成させねばなりません。
誰もが人類は特別だと思い、確かに疑う余地なくその通りだ。
例え個人のあらゆる種がそれぞれ比べようもなく個性的であったとしても、
逆に人類の特異性が本来の意味で特別でなかったとしても、
あるいは進化が、どれだけ自分自身に都合よく解釈されたとしても、
人類の進歩が他の動物から区別されたことには間違いない。
端的に説明すれば、
新進化論とは遺伝子の二重らせんによるものである。
脳は進化によって出来た器官だ。
この器官の中には二つの性質が備わっている。
進化という名の 「利己と利他」 だ。
人類進化の中で淘汰を生き抜いてきたと説明するには、
遺伝子による二つの顔を持つ振る舞いが最適者だ。
共存共栄を分かち合う集団を楽しむ利他的ミームと、
他人に対して残忍な行動を楽しむ利己的ジーンによる、
遺伝子進化論での利己と利他、双方を兼ねた振る舞いによる二重性、
二つの遺伝子に対して対立ではなく相互依存による、
遺伝子進化論の適応性と最適者とは、
利己的ジーンと利他的ミームの比率を以て発展した時にのみ保証されるものであって、
どちらかに偏ってはどちらも淘汰の対象となるのである。
重要なのは比率とバランスなのである。
ダーウィンによる進化論は動物進化論であり、
自然淘汰は初めから終わりまで競争的だという。
次に、進化生物学が現時点で調和を保守している。
過去、この二つが対立し合っていた時代、様々な淘汰が具現化した。
代表的なのは二つの世界大戦であろう。
この戦争によって数知れぬほどの生命が淘汰されたのだ。
つまり、競争、闘争、共生、団結など、
どれもみな全てが淘汰の対象であったのだ。
過去、進化は相手を打ち負かすものと思われていたが、
そうではなく、共生にこそ希望があるとも考えられた時代、
動物哲学にせよ、生物学にせよ、自然科学にせよ、
人間だけが食物連鎖から逃れて、また脳の突然な発展には、
ゆっくりとした自然の中での突然変異であると疑う余地はない。
突然変異での人間の脳の発達による遺伝子進化論なのである。
少し比喩的だが言い方を変えれば、
脳には二つの性質が備わる。利己的なジーンと利他的なミームだ。
どちらも同じ人物であり、誰にでも備わる人間の長所だ。
この長所を発展させることが新進化論の目的であり、
動物進化論と進化生物学による過去の対立とはこれでさよならだ。
利己的なジーンは攻撃的であり、利他的なミームは協調的だ。
どちらが良いか悪いかではなく、どちらも自分自身なのである。
重要なのは、
この二つのどちらかに偏りすぎればそれが淘汰の対象になることである。
つまり、利己的でも利他的でも生き残れないのである。
最適者とは一体誰なのか? 人類が解決しなければならない難問だ。
過去、ダーウィンによる種の起源が社会を利己的へと導いた時代、
全ては自然淘汰によって強いものだけが生存可能だとするかなり強引な理論が人々の感情を支配した。
自然が牙と爪を血に染め、情け容赦のない闘争が繰り返されていた時代、
自然が一つの大きな蒼然たる闘争。残酷で過激な競争社会での生存闘争という理由。そして適応性。
その適応性がより強いものだけが生き残ることで進化がもたらされるという、
まるで地獄のルールブック。相手を殺さんばかりの競争をそそのかすようなものである。
ダーウィンの自然淘汰が地獄論でいうところの 「絶望という科学」 であるにしても、
この情け容赦のない生存闘争において生き残りを賭けたプログラムに終止符を打つのが新進化論だ。
いつまでも 「我が闘争」 が自然法則だと言っていては
第二のアドルフ・ヒトラーを再現するだけであるからだ。
それに対して、
共生が成せる業、利他的行動の主張には、
もっとも気前が良い自己犠牲がどうして自然淘汰を生き延びることが出来たのか?
利他行為には相互協力による利益がある。最適者にとってこれ以上の武器はない。
生存闘争において生き残ることが最大の使命であり相互援助が実際には最適者として生き残るのだ。
ホメオスタシス。体内の細胞が生物個体全体の利益のために機能しているのと全く同じように、
各個体は集団に貢献し従属するようになり、またアナロジーに向けられた「内部環境」を
制御、調整、維持させて集団に貢献している生物学と生態学の原理によるものである。
ホメオスタシスは部分と全体の対立に対する解決策である。
個人の利益と集団の幸福の間のかじ取りにおいては、
相互依存によるバランスと比率に懸かっている。
どちらにしても、これらの答えを全て自然に当てはめて今日まで激しい論争が続いている。
ある動物として他の個体の為に自らを犠牲にするように仕向ける行動は、
第三者に対する優位を獲得する上で究極的な合理性があることが解る。
自分の利益につながるところでは、あらゆる生物は当然のことながら仲間を助けると予想される。
個体を受け継ぐ遺伝子。集団を破滅さようとする個体。他の集団と共生しようと試みる集団。
利他的行動が利己的行動と共に進化してきた事実であろう。
それは何らかの目的に適し、何らかの秘められた天性の尺度として進化に通じる道であろう。
ここで一つ重大な疑問が浮かび上がる。
本来の利他的行動とはそもそも存在するのかという疑問である。
全面的に自分自身の利益のために振る舞う機会が与えられたら、
利他主義を装ってみても偽善者の血が流れていることに気づく。
相対的に見ても利己には利他が無ければ、また
利他には利己が無ければ生まれないのではないか。
善悪同様、幸福と苦痛と同じように表裏一体ではなかろうか?
民主主義の正義と自由市場。共産主義と平等への期待。自立と団結。
私たちの進化はどこに向かうのか?
生命誕生から人類進化への壮大な歴史物語である。
闘争か。平和か。 共生か。対立か。
この世界が地獄であっても法則さえ解れば対応可能だ。
文明をもたらした人類にとっての適応性と最適者。
私たちが暮らす地球の守護者としての使命。
それはミームとジーンによる、二つの性質の比率(バランス)にあるのだ。
つづく。