8月15日(水)
今日は絶対に忘れてはならない日である。そう言いながらも、今年の私は変わっていた。
先ず、8月6日、8月9日の悲惨な出来事を忘れかけていた。申し訳ない。決して忘れてはいけない日だと言うのに、私の頭は相当にボケて来たのだろうか?
そして8月15日、天皇陛下(昭和天皇)のお言葉がラジオで流されたが、父の話によると、なかなか聴き取れない放送だったようである。
私は高等女学校二年生だった。校舎の前の植え込みに蛸壺と言う防空壕を掘っている最中だった。教室へ集まり、直ぐ帰宅する様に指示を受けた。
蛸壺にはシャベルが放り出されたままだった事を未だに忘れない。(女学校の校舎は進駐軍の宿舎となる)
それからは長い長い休みになる。それも、外出禁止の夏休みだから、毎日が不安そのものだった。(夏休みが終わっても、学校はそのまま開かれなかった)
家から外を見れば、朝鮮人のデモ行進が続き、日の丸に青い模様を書いた様な国旗を担いで、つい先日まで一緒だった、朝鮮の友達も行進をしていた。
色々なデマも流れた。一番ホッとしたのは、開城(北朝鮮と直ぐ近くの町)に学童集団疎開をしていた弟が、逸早く保護者達の迎えで無事帰って来た事である。
子供達は、終戦直後に直ぐさま引き払って来たので、孤児にならなくて良かったと話したものである。
沖縄で激しい戦闘をして来た進駐軍が仁川港に上陸した。私達日本人は家の中から、そっと、彼等の様子をうかがっていた。
警戒心が強いのは彼等の方も同じだった。歓迎するのは朝鮮人。日本人は皆、家に籠ったままだから、気持が悪かったらしい。何しろ沖縄で、多くの人が玉砕する姿を見て来たのだから、日本人は恐ろしく無気味だったようだ。
暫くすると、昼間の外出を許される様になった。進駐軍側から申し入れがあったと聞く。
その後、日本内地に引き揚げる為の準備が始まった。
最初は荷物は7個持ち帰る事が出来ると聞いていたが、高級役人一家の荷物から持ち帰り禁止の筈の宝石類や刀剣が見付かり、一切、荷物は手で持てるだけとなったのである。
ひどい話である。毎日の様に荷作りをしていた母のがっかりした姿を思い出す。
結局、リュックを担いでの引き揚げとなったが、家の中は住んでいたままの状態で帰国の途についたのである。時計の針が正確に時を刻み、大事な大事な品物はみーんな居ぬきのままで引き揚げた。今でも、あの室内の様子が目に浮かぶ。
戦争による被害者は様々な形でいるが、私達も同じ立場にある。『謝罪を求める』と言う話は私達の様な引揚者にも通じる事だ。でも「謝れ」とはもう言わないだけの許容心はある。
思えば苦しい引き揚げだったが、何とか父母のお陰で家族揃って生きて来た事を、ただただ、感謝するのみである。
引き揚げ列車から見た、ドームの骨組みと草だけが生えていた焼け野原の広島。
あの川の水を求めてどれだけの人が辿り着けたか、今、わざわざ、ヒロシマを訪れなくても、私の目の奥には強く焼き付けられている。
8月15日は、やっぱり忘れてはならない日である。
今日は絶対に忘れてはならない日である。そう言いながらも、今年の私は変わっていた。
先ず、8月6日、8月9日の悲惨な出来事を忘れかけていた。申し訳ない。決して忘れてはいけない日だと言うのに、私の頭は相当にボケて来たのだろうか?
そして8月15日、天皇陛下(昭和天皇)のお言葉がラジオで流されたが、父の話によると、なかなか聴き取れない放送だったようである。
私は高等女学校二年生だった。校舎の前の植え込みに蛸壺と言う防空壕を掘っている最中だった。教室へ集まり、直ぐ帰宅する様に指示を受けた。
蛸壺にはシャベルが放り出されたままだった事を未だに忘れない。(女学校の校舎は進駐軍の宿舎となる)
それからは長い長い休みになる。それも、外出禁止の夏休みだから、毎日が不安そのものだった。(夏休みが終わっても、学校はそのまま開かれなかった)
家から外を見れば、朝鮮人のデモ行進が続き、日の丸に青い模様を書いた様な国旗を担いで、つい先日まで一緒だった、朝鮮の友達も行進をしていた。
色々なデマも流れた。一番ホッとしたのは、開城(北朝鮮と直ぐ近くの町)に学童集団疎開をしていた弟が、逸早く保護者達の迎えで無事帰って来た事である。
子供達は、終戦直後に直ぐさま引き払って来たので、孤児にならなくて良かったと話したものである。
沖縄で激しい戦闘をして来た進駐軍が仁川港に上陸した。私達日本人は家の中から、そっと、彼等の様子をうかがっていた。
警戒心が強いのは彼等の方も同じだった。歓迎するのは朝鮮人。日本人は皆、家に籠ったままだから、気持が悪かったらしい。何しろ沖縄で、多くの人が玉砕する姿を見て来たのだから、日本人は恐ろしく無気味だったようだ。
暫くすると、昼間の外出を許される様になった。進駐軍側から申し入れがあったと聞く。
その後、日本内地に引き揚げる為の準備が始まった。
最初は荷物は7個持ち帰る事が出来ると聞いていたが、高級役人一家の荷物から持ち帰り禁止の筈の宝石類や刀剣が見付かり、一切、荷物は手で持てるだけとなったのである。
ひどい話である。毎日の様に荷作りをしていた母のがっかりした姿を思い出す。
結局、リュックを担いでの引き揚げとなったが、家の中は住んでいたままの状態で帰国の途についたのである。時計の針が正確に時を刻み、大事な大事な品物はみーんな居ぬきのままで引き揚げた。今でも、あの室内の様子が目に浮かぶ。
戦争による被害者は様々な形でいるが、私達も同じ立場にある。『謝罪を求める』と言う話は私達の様な引揚者にも通じる事だ。でも「謝れ」とはもう言わないだけの許容心はある。
思えば苦しい引き揚げだったが、何とか父母のお陰で家族揃って生きて来た事を、ただただ、感謝するのみである。
引き揚げ列車から見た、ドームの骨組みと草だけが生えていた焼け野原の広島。
あの川の水を求めてどれだけの人が辿り着けたか、今、わざわざ、ヒロシマを訪れなくても、私の目の奥には強く焼き付けられている。
8月15日は、やっぱり忘れてはならない日である。