桜子でーす

日々の感想や思いついた事柄を写真や文章に表しました。ビジュアルに表現出来ると嬉しいな!

今、望むこと

2012年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
8月24日(金)

竹島問題、いよいよ、難しくなったぞ!
天皇陛下に無礼な発言があった事には驚く。

私は、それ程、真面目な人間ではない。京城で生まれ、仁川で育った少女時代を経て、終戦のため、リュックサック一つで帰国した。
私には故郷が無い。若しあるとすれば、それはここ東京の大森と言う事になる。だから、小学校の同窓会も無いし、友達も僅かである。それを淋しくも思わないし、無理をして友人を求めようとも思わない。

最近、急に戦時中や戦後の話題や見た事も無い秘蔵のドキュメンタリーフイルムを見る機会が多くなった。
今まで、口を固く閉ざしていた人が戦時中や戦後の厳しい事情を、現代の何も知らない若者たちへ真剣に伝えようとする様になった。

良い事だと思う。でも、我々にとっては苦しく辛い思い出でもある。誰もが嫌な思いがする事柄が必ず出て来るからだ。
辛い話題が出て来ても、やはり美化したくなる事もある。人間、真実を他人へ伝える事は、兎角、自己嫌悪に陥るからだ。

朝のテレビ小説『梅ちゃん先生』は、終戦で荒れ果てた蒲田を舞台に時代の流れを人々の暮らしを通じて、当時の家族関係や徐々に生活が向上して行く様子を、短く多量にとらえている。
「ああ、そう言う事もあった!」自分の家でテレビが入った時の家族の喜びも、電気洗濯機や炊飯器、電子レンジ…等々が初めてお目見えした時の女性たちの関心ぶりも如実に覚えている。

しかし、それ等の無い時代の経験もしている私達には、生活の変化をよく把握出来る。そして若し、文明の利器が何も無くても、対応出来る力も失っていない。

子供時代に過ごした朝鮮は、私にとっては懐かしい。しかし、昭和二十年八月十五日を境にして、日本人の生活は変わった。今でも鮮明に心の中に残っている。

引き揚げてから転入学した女学校は彦根に有り、一里の道を歩いて汽車通学をした。
折角、私達が担いで帰国した反物類も米や金にかわってしまったが、それを父に頼らず、母は一人でやってのけた。母がどの様な思いで見知らぬ農家を回ったか、その苦労と意志の強さを、未だに私はよく知らない。本当に申し訳なかったと思う。

今も、仁川の事を思い出す。(この町はインチョン空港とは離れている)
親達がたゆまぬ努力をして生活の基盤を造り上げたものや夢が、一瞬にして失われたのである。
空襲こそ無かったが、もう数日終戦が遅れたら、インチョンも原爆に遭ったかも知れないと後で聞いた。
仁川には陸軍工廠があったので、偵察にB29が来た。また、軍港でもあった。

そんな思い出が、まだ、鮮明に思い出される。

竹島、天応陛下に不敬な発言、今もテレビで、野田総理大臣が発言していたが、当然な事である。
しかし、平和なうちに解決出来れば良いが…前の政権は何をやっていたのだろう?
相手の国は余りにも感情的で、これにも国民性の違いを感じるのだ。

与野党もいい加減にして、国の大事や国民の幸福へ目を向ける様にして欲しい。
日本の将来が不安だ。





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