4月8日(土)
<体が弱かった私>
すっかり、暖かくなった。
朝のシャワーも厳しさを乗り越えて、温かい湯にかかりながら、まだ大丈夫と思いたくなる。
しかし、その後がよろしくない。
朝ごはんの用意でもするかと思いながら、だらだら時間を過ごすことが多い。
それは、何よりも、足の具合が一向に良くないからだ。
正座は無理。座る姿勢になると、そのまま、ひっくり返ってしまうのだから始末が悪い。
少しは身の回りを整理しようと思っても、まともな姿勢になれないから、本当に桜子ちゃんは気の毒。
と、いうわけで、まだ、あの世行きは無理というものですね~
最近になって、世間では嫌な問題が多過ぎるが、そのうちの幾つかは、過去にもあったかな?と思うようなものが多い。
何時か、この事について書いてみようかな?と考えている。
考え付く時間はいくらでもある。いささか、感情を高ぶらせて書けそうだ。
ところで、仁川という町は、とても、穏やかで、良い所だった。
何よりも、親の愛情に囲まれて幸せに暮らした町だった。
姉に言わせると「あなたは親にすごく大事にされていた」
「そう!その通り!」私は体が弱くて色々な病気をしたもの。親は大変だったと今も思う。
その結果、他の人に迷惑をかけている。
特に、弟は友達を家へ連れてくる事を遠慮させられたし、姉は体が丈夫だったから私のようにかばわれなかった。
その話は、今でも聞かされている。
聞く度に「結局、『にんじん』という(ジュール・ルナアル作)小説の主人公と同じだったのね」と二人の話題となる。
しかし、体が弱い本人にとっては、あまりに大事にされることが辛かった。
結局、1年間、留年した程だから「落第生!」と、男の子に言われるのはとても嫌だった。
それに、先生から「掃除はしなくて良い」と言われた事も、特別扱いが悔しくて仕方がなかった。
今なら、掃除免除なんて、凄く喜んだのになぁ!
小学4年生になって初めて、女子組に入って嬉しかった。それまでは男女組だったのだから、憧れのクラスだ。
私の学校、龍岡尋常小学校は隣の旭小学校が高等科もあるのと違って、のどかな学校だったし、兄も、姉も弟もこの学校へ行っている。
その後、太平洋戦争勃発で、国民学校となる。
今、騒いでいる『教育勅語』も修身の時間に、覚えたり清書するのが大変だった。
久しぶりに大阪の幼稚園の子供達が口を揃えて暗唱しているのを聞いて驚いたものだ。
何時までも、この勅語を大事にしている人がいたのだなあ!と驚き、過去の決して楽しくもない記憶を、無理矢理、押し付けられた気がした。
男女組から女子組へと憧れていたクラスだったが、そのあとの様々な出来事は未だに忘れられない。
それは私の人生観に大きく影響したもので、成人してからのあり方の決め手となっている。
この歳になっても忘れられない事があまりに多過ぎた小学校5、6年生時代の記憶は、心を落ち着かせながら、何時か、述べていく事にする。
<体が弱かった私>
すっかり、暖かくなった。
朝のシャワーも厳しさを乗り越えて、温かい湯にかかりながら、まだ大丈夫と思いたくなる。
しかし、その後がよろしくない。
朝ごはんの用意でもするかと思いながら、だらだら時間を過ごすことが多い。
それは、何よりも、足の具合が一向に良くないからだ。
正座は無理。座る姿勢になると、そのまま、ひっくり返ってしまうのだから始末が悪い。
少しは身の回りを整理しようと思っても、まともな姿勢になれないから、本当に桜子ちゃんは気の毒。
と、いうわけで、まだ、あの世行きは無理というものですね~
最近になって、世間では嫌な問題が多過ぎるが、そのうちの幾つかは、過去にもあったかな?と思うようなものが多い。
何時か、この事について書いてみようかな?と考えている。
考え付く時間はいくらでもある。いささか、感情を高ぶらせて書けそうだ。
ところで、仁川という町は、とても、穏やかで、良い所だった。
何よりも、親の愛情に囲まれて幸せに暮らした町だった。
姉に言わせると「あなたは親にすごく大事にされていた」
「そう!その通り!」私は体が弱くて色々な病気をしたもの。親は大変だったと今も思う。
その結果、他の人に迷惑をかけている。
特に、弟は友達を家へ連れてくる事を遠慮させられたし、姉は体が丈夫だったから私のようにかばわれなかった。
その話は、今でも聞かされている。
聞く度に「結局、『にんじん』という(ジュール・ルナアル作)小説の主人公と同じだったのね」と二人の話題となる。
しかし、体が弱い本人にとっては、あまりに大事にされることが辛かった。
結局、1年間、留年した程だから「落第生!」と、男の子に言われるのはとても嫌だった。
それに、先生から「掃除はしなくて良い」と言われた事も、特別扱いが悔しくて仕方がなかった。
今なら、掃除免除なんて、凄く喜んだのになぁ!
小学4年生になって初めて、女子組に入って嬉しかった。それまでは男女組だったのだから、憧れのクラスだ。
私の学校、龍岡尋常小学校は隣の旭小学校が高等科もあるのと違って、のどかな学校だったし、兄も、姉も弟もこの学校へ行っている。
その後、太平洋戦争勃発で、国民学校となる。
今、騒いでいる『教育勅語』も修身の時間に、覚えたり清書するのが大変だった。
久しぶりに大阪の幼稚園の子供達が口を揃えて暗唱しているのを聞いて驚いたものだ。
何時までも、この勅語を大事にしている人がいたのだなあ!と驚き、過去の決して楽しくもない記憶を、無理矢理、押し付けられた気がした。
男女組から女子組へと憧れていたクラスだったが、そのあとの様々な出来事は未だに忘れられない。
それは私の人生観に大きく影響したもので、成人してからのあり方の決め手となっている。
この歳になっても忘れられない事があまりに多過ぎた小学校5、6年生時代の記憶は、心を落ち着かせながら、何時か、述べていく事にする。