今日から年金生活

中国ハルビン市方正県から

開業そして30年後廃業

2014年09月24日 | 日記

それから少し時代が下がり、26歳で結婚した。すぐ写真店を開業した。その後順調に推移し携帯電話の代理店になり店を10店舗に増やした。社員は20人いた。毎月電話会社から1000万円以上の振り込みがありベンツに乗ったりしていた。でも写真業はデジタル化に押されすでに限界だった。携帯電話も無料ではなく有料に変化していった。無料で売って1台2-3万円稼げる時代は終わった。

自己破産をしたあとレトリバーのブリーダーを始めた。30年連れ添った奥さんとはギクシャクし始めた。ホームページを自分で作って子犬の販売というよりは犬と一緒の楽しさとかを日記形式で綴った。また毎日自分の夢を描いた。そしてついに自分の面倒を見ない奥さんと離婚した。実は一番下の子供が20歳になったし、親としての責任は果たしたのが大きい理由だった。金の切れ目は縁の切れ目というのを体感した。

そうこうしていると自分の犬のホームページのファンの数人の方から、金銭の提供の申し出があった。一人は富山県のモモさん、一人は神戸市のMさん。特にMさんは無担保低利子で500万円の申し出があった。ありがたくお借りして国道沿いに競売物件の大きな敷地と3階建ての古ビルを買い改装工事もした。全部でちょうど500万円かかった。モモさんは気持ちだけありがたく受け取った。犬舎と自分の部屋の区別がつかない状況で13匹の大型犬と暮らすことになった。中国の奥さんが山口県来てから生活スペースと犬舎を分離した。

離婚してネットを見ているとハルビンの女性が出ていた。それから連絡が始まった。当時はまだQQやスカイプもなく手紙が多かった。福岡空港から大連を経由してハルビン行の切符を買った。しかし雪のため大連ー哈爾浜は欠航となった。そこで大連駅に行きハルビン駅行の寝台で行った。自分はこういう判断は早いが、後で考えると払い戻しの請求を忘れた。翌朝彼女が駅のホームに待っていた。映画のシーンのように泣きながら抱き合った。その後結婚して二人で犬の面倒見たり、子犬の販売を始めた。

このハルビンの奥さんとは7年近く一緒に暮らしたが、その後東京で自分の判断ミスで離婚した。離婚は失敗だった。(この失敗で何度も中国人と離婚再婚を繰り返すはめになった。というのは昔から自分の夢は毛主席と同じ大地で暮らしたいと言うのがあり、そのためにはどうしても親族訪問ビザが必要だった。

その後、奥さんの希望でこの敷地を売って東京に行くことになった。そこで不動産屋に聞くと1200万円の価値があると言う。

しかし早く売りたいので900万円で売り出したら1週間で売れた。そのお金を持って東京に出た。途中神戸に寄って500万円と利息も返却した。手元に400万円残った。

この400万円がその後、方正県に2つ目の大楼に化けた。

 

 

 

 


休憩

2014年09月24日 | 日記

文章ばかりで疲れたところ、36歳の女友達から電話があった。台湾から帰国したので会いたいと言うので会いに行った。

台湾料理はどうかと聞いたら甘いので好きでないとのこと。日本の中華料理が甘いのでなんとなく理解できる。韓国風の焼肉店に行った。

味は悪くないけど特に美味しいと言うほどでもなかった。おごってもらってすまん。4人で160元。安かった。中国では割り勘は殆どない。その時一番お金がある人がおごる。清客 ちんくー と言う

彼女はまだ日本人と結婚したいと言っていたが、仕事のビザで日本に来て日本男性を探すのが楽とアドバイスしたがその方法は費用がかかるみたい。美人なのでなんとかなれば良いが・・・

久々西市場に行ったのでゴールデンの毛毛mao mao に会いに行ったらもう閉店になっていた。

この靴屋にいた。以前行ったとき毛毛いますかと店主に聞いたら今日は自宅にいると言われた。確かに客は多くなかった。

まあ、対面に大きな靴屋があるし・・・

自転車販売 歩道を占領してるので人は車道を歩く。

これは献血車。多くの人が採血していた。感心した。

 

 


高校から大学時代

2014年09月24日 | 日記

そうはいっても所詮高校生。羽目も外した。

一番の思い出は文化祭にグループサウンズを結成して出たこと。もちろんエレキなんて前代未聞。当時軽音楽部もあったが真面目な音楽ばかりで退屈だったので、生徒会主催と言うことで出た。花の首飾りや キサナドゥ-の伝説を歌った。背むしと鼻かじられ男はボーカル。自分はエレキベースだった。当然また始末書。この学校は比較的生徒の自主性を尊重したが、やらせたあと始末書で教育委員会から逃げていた。今思うと理解があった。校門でビラ配りもした。先生方は問題児がいなくなり喜んだと想う。山口県にはこういう風土があった。

1969年。卒業したら東京の大学に行った。毎日新宿西口のフォークゲリラを見に行った。熱気に圧倒された。当然反戦歌ばかりだった。

自宅が中野坂上だったので新宿西口から遠くないのでいつも歩いて帰った。途中当時盛んに東京副都心新宿と言われていて、都庁予定地の空き地を見ながら帰宅した。

写真が趣味なので新宿西口駅から相当路地にあったのヨドバシという小さなカメラ店で外国製の三脚やレリーズを買った。小さいけど外国製が多いので有名だった。当時はコイデカメラのほうがはるかに大きかった。

アルバイトは中野の日本発色系の中央発色現像所でカラーフィルムの現像をした。中野坂上は新宿区、中野区、渋谷区に近い。でも港区、渋谷区は何故か好きになれなかった。やはり東京は下町だと思った。好きなところは上野、浅草、葛飾・・・北区は住みやすいけど何もない。

当時ランボーが好きでフランス語が勉強したくて親に別の大学に行くと駄々をこねた。親はOKというので1年で東京の大学をやめて翌年仏語学科のある大学に行った。でも時代が悪く学生運動の最中だった。ここでランボーの地獄の季節を翻訳したり、文芸部で芝居の台本を書いた。数度上演された。

しかし自分には大学より労働運動が大事だった。親不孝な息子だっだと思う。遅いけど亡くなった両親に謝りたい。