今日から年金生活

中国ハルビン市方正県から

方正県の病院

2014年09月30日 | 日記

方正県中医医院(通称中医 ぞんい)。閉まっていた。新築移転中らしい。血糖値検査代30元

方正県人民医院 通称県医院(しぇんいーわん) 方正で一番大きい。今回はここで血液検査。4月以来2度目だか二姐夫の見舞いに二度来ている。血糖値検査代10元・・・安い。2-3時間後わかる。

後日談:血糖値が先月と同じで15.5あった。とりあえず薬の量を2倍にした。日本の薬アルカボーズも手に入れた。調べたら中国と日本の血糖値の表示が違うらしい。15.5はa1cではなく血糖値だとのこと。 mg/dLとmmol/Lの単位の違いらしい。中国の15.5は18倍すれば日本と同じ数値で280になる。高いのは高いけど極端に恐れる数値ではない。日本ではa1c値で管理していたので血糖値表示はピンと来ない。でも少し安心した。http://www.fukazawa.ne.jp/page207_6.htm

県医院前の風景。同安路の南の最後。これより少し南に方正インターがある。さらに20分南に行くと双風水庫がある。

协(協)和(しぇほぅ)病院。市の東北方面にある。

同安医院 他にも病院は多数ある。

ここは方正第一中学。近くに県政府(しぇんぞんふ)がある。10/1-10/7まで国慶節なので役所も学校も休み。

三中。同安路北にあるが二中はどこだろう。

上二枚方正第一小学。街の西はずれにある。第三小は方正鎮の東側。二小はこの中間か?今度探しに行こう。

 


蓑虫状態

2014年09月29日 | 日記

方正県は現在一年で一番寒い?持ってる厚手のコートやズボンを着ても寒いので布団にもぐってテレビを見ている。今晩から電気毛布を使う。

理由は床暖房は3月中旬に終わって10月中旬に始まる。3月は以後暖かくなるのでそれほどでもないが、今は日々寒くなっていくので辛い。夜の温度は4-5度。

ビール買いも大変になったので白酒に変更するかな。明日は血糖値検査で病院に行く予定なので朝は飲み食いできないので寝るまでに飲み食いしておこうと思う。

さて69のバーコードとはしばらく会っていない。いつか鞄から1000円が出てきたのでしばらく使う予定がないので元に交換してと頼んだところなんと拒否された。1000円は現在56元なので40元で良いからと言ったにも関わらずだ。以前から彼とは金のトラブルも多いしこちらから彼に寄って行ったのでもないのでこの際切ることにした。まあ気にはしているが・・・着信拒否(黒客)リストに入れた。

久々のハルビンビール。やはり雪花ビールよりシャープで美味しい。

 


年金

2014年09月28日 | 日記

25-30年掛けてきた1000万以上を一括で返して欲しいと言えば国は応じるか?全国の厚生年金センターや投資の失敗で金がない国ができるはずもない。渋る若い国民を脅して徴収するしかない。だから若い人は老人は重荷としか思わない。しかも返さないばかりか経産省の東大出の官僚は無駄飯だからとじじい、ばばあはお国のため早く死ねまがいのことを言っても停職2ケ月の軽い処分。これは国もそう思っている証拠だ。日本はいつから詐欺国家になったのだろう。豊田商事とどこが違うのか?老人は早く死ねと言う前に預けた金返せと言いたい。間違っていますか?年金は税金と言う議論がある。それは徴収方法が税金と似ているからの誤解。本当に税金と国が公表したら暴動が起きるでしょう。そもそも税金とは完全に国のもので1円たりとも返却義務はない。年金は税金です、だから返却しません、従わない国民は税金と同じように強制執行や逮捕しますよと国がはっきりと国民に言えばよい。もう貰ってる立場なので言いたくないけど、年金は国家ぐるみのねずみ講。

さて今日はうなぎの巻き寿司を持ち帰りで買ってみた。拿走了可以吗?と言った。18元。

見て驚いた。まさかの黄色いたくあんが入っていたので食べなかった。

中学の時弁当のおかずがないので母が連日弁当箱の1/3たくあんを入れた。昼に開けると臭くて食べられなかった。それ以来食べたこともないし大嫌い。但し白いたくあんは大丈夫。あの黄色いのがダメ。失敗した。次回からは巻き寿司は買わない。餃子が嫌いなのと理由は同じ。中身が分からないからだ。方正県は餃子の中身は客がいないと節約で漬物が多い。

これがスーパー。スパマケツトとかの表示は当たり前なのでもう書かない。しかし・・・

これはないだろう。ここは百貨店らしい。

久保田農業機械方正サービスセンターとある。日本企業も頑張っているようだ。

最後に綺麗な花。

 

 

 

 


冬の準備が始まる

2014年09月28日 | 日記

奥さんが早朝、市場から大量のカブを買ってきた。1袋5KG以上はあるカブを3袋。1袋持ってみたが自分には1袋も無理だった。先日も1袋買っていた。聞けばまだ買うと言う。市場まで数百mそれから階段で6階まで、自分にはまねができない、女は強い。たぶん自分が老いただけだろうが。

カブを切り分けている。手前の野菜は日本にはない。触ると固い。やはり漬物にするらしい。冬は野菜がないからどの家庭も保存食を作ると言う。塩、からし、こんぶだけなら自分も食べれるが中国味の漬物なら食べない。何を入れるか聞いたけど いぇん(塩)と らじょー(唐辛子)としか聞き取れない・・・だめだこりゃ・・・

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それはそうと日課の一日分のビール4本を買いに行こうとしたら、奥さんが一階の店ではもう買うなと言う。理由は空瓶を持ってこないと叱られたらしい。1瓶3元のところをよく知ってる人には店は2.5元で売ってる。0.5元の空瓶を持ってくることを前提で売っていた。私はこれはトラブルの元だなと以前から思っていた。41歳、36歳の友人の近くの商店もどこも1本3元だ。実は昨日私は8本空瓶だけを返しに行ったのに店には女店主の兄?しかいなく伝わっていなかったと思もわれた。

そこに奥さんが買物に行ってこういう騒動になった。ハルビンビールの空瓶には価値がないので誰も回収しないので階段とかに回収せずにほってある。雪花ビールには当たりの王冠の5毛とかもあり空瓶の回収には力を入れている。だからハルビンビールは売れない。

さて、困るのは自分で毎朝遠い商店まで買いに行くことになった。今はまだ良いが路が凍ると歩くのも危険だしマイナス20-30度の外に長く居たくない。それまでに一階の店とは仲良くしないといけない。


櫻櫻寿司@方正県

2014年09月26日 | 日記

南に下った同安路から路地に少し入ったところを散歩していたら櫻櫻寿司(たぶん いんいんしょーすー)なる看板を発見。

早速中に入ってみて菜単(メニュー)を見た。たくさんありそうだ。そこで店の人に方正県の寿司は酢が入っていないのでおいしくない。ここのはどうかと聞いたら入っていると返事。で一端バイバイと外に出て店の写真を撮って、今度はメニューの写真を撮りにまた店内に入った。そこで6個18元のエビの寿司を3個で10元で売ってくれと頼んでみた。試し食い(試吃 しーちー こういう中国語があるかないか知らないが)OKか?と聞いたら行(しゅん)とのことなので3個だけ食べた。

ここはしょっちゅう通るのに全く気付かなかった。不覚である。たぶん犬肉の店を見たくないので見ていなかった。

若い夫婦が運営していた。

右端上の虾寿司を半分だけ頼んだ。10元払った。9元でも良いのだが日本人としてせこいことはしない。本音は恥ずかしいからである。

上はメニュー

例によって少し食べて撮影。安いし、お茶とガリがあれば言うことなし。

全く期待していなかったがうまかった。わさびもネタ、しゃり、酢の加減、醤油・・・合格。店の人に方正県に来て初めて日本と同じ寿司を食べた。ありがとうと言うと謝謝ととても喜んでいた。また近いうちに行く予定。今度はうなぎを食べよう。


人生

2014年09月26日 | 日記

64年のことを駆け足で書いた。

でも降り帰ってみて、あれだけ無茶なことをしたり親や兄弟、友人にも多大な迷惑をかけた人生だったが、不思議と後悔はない。自分で好きなことをしてきた。人生の岐路に来た時、自分はその都度瞬時に舵取りしてきた。これはサルトル、カミュ、カフカ、安倍公房とかの実存主義者の影響だと思う。

想ったことを実行に移す。簡単そうで簡単ではない。例えが悪いが将来中国でラーメン屋の社長がしたいと思えば、何月までに中国語4級を取ると目標きめたら何が何でも実現させる。次にラーメン店で修業する、お金を貯める。前後はどちらでも良いが要は自分の目標を置いたら何が何でも実行に移すことではないかと思う、でないと一生何もできないと思う。一生サラリーマンでも良いが、面白みもないし成功もない(但し大きな失敗もないが)。

自分が日本での老後を考えていないのは、日本人の底にある冷たさにある。老人はホームでもぶち込んでおけ!それがいかに残酷なものか自分達がその年代になった時初めて分かるだろう。現在の若者は家族愛、兄弟愛よりも恋人と自分の子供への愛だけだ。

それもやっと成人して社会人になれば、その子も同じことをするだろう。

その点中国は違う。一度親戚になれば家族一族で支える。とても心強い。 


母とオーストラリアへ

2014年09月25日 | 日記

事業が順調だった頃、ちょうど子供たちが進学を迎えた。長男には高校を出てすぐにオーストラリアのシドニー工科大学短期大学に行かせた。入学は易し卒業が難しいコンピュータ学科を見事卒業した。その後韓国の延世大学の語学院に2年行く。長女は東京のアニメの専門学校に行き卒業した。

で自分は当時天文(彗星探索)にはまり何百万もするフジノンのでかい双眼鏡とタカハシの望遠鏡で毎日夜空を見ていた。当時カナダフォートマックマレーでオーロラを見たり、タイのナコンサワンであった皆既日食を見たり(ちなみに金環日食とは全く別物)、オーストラリアの南天銀河のことを地元紙に連載してたのが目に留まり某市の教育委員会から天文学の講師を委託された。そこで姉妹都市のオーストラリアの某市に派遣交流の依頼で向こうの大学教授宅へホームステイして交流した。最初は公費だったが2回目以降は自腹だ。息子も当時現地にいたので都合6回は渡豪した。

この国には後に別れた奥さんと家族全員でエアーズロック等に連れて行った。一番下の息子以外は頂上まで登った。

その後、長男は英語と韓国語の能力を買われてか日本の大手企業(東証一部上場)に入った。30代で年収700万円オーバーらしい。

娘は漫画の道に行った。末の次男は別れた奥さんと彼の奥さんと三人暮らしらしい。

ある日この機会にと自分は母をオーストラリアに連れて行った。二人旅。旅費は殆ど自分が出した。兄も少し負担してくれた。弟は東証一部の社員でありながらケチなので1円も負担しない。母は足が悪くて私が杖替わりでシドニーやその他の街を観光した。宿は友人の天文学者の家に泊まった。彼に頼んで老人ホーム見学に行った。母は得意のYou Are My Sunshineを何度も老人たちと合唱した。兄の長男も現在は東証一部の大会社の上海支店長らしい。うちの家系が国際的なのは母の影響かもしれない。

あの時の喜んでいた母の姿が忘れられない。若いとき母に多大の迷惑をかけたせめてもの恩返し。最初で最後の親孝行だった。しかも間に合った。それから数年後、母は85年の幕を閉じた。

 

 

 


開業そして30年後廃業

2014年09月24日 | 日記

それから少し時代が下がり、26歳で結婚した。すぐ写真店を開業した。その後順調に推移し携帯電話の代理店になり店を10店舗に増やした。社員は20人いた。毎月電話会社から1000万円以上の振り込みがありベンツに乗ったりしていた。でも写真業はデジタル化に押されすでに限界だった。携帯電話も無料ではなく有料に変化していった。無料で売って1台2-3万円稼げる時代は終わった。

自己破産をしたあとレトリバーのブリーダーを始めた。30年連れ添った奥さんとはギクシャクし始めた。ホームページを自分で作って子犬の販売というよりは犬と一緒の楽しさとかを日記形式で綴った。また毎日自分の夢を描いた。そしてついに自分の面倒を見ない奥さんと離婚した。実は一番下の子供が20歳になったし、親としての責任は果たしたのが大きい理由だった。金の切れ目は縁の切れ目というのを体感した。

そうこうしていると自分の犬のホームページのファンの数人の方から、金銭の提供の申し出があった。一人は富山県のモモさん、一人は神戸市のMさん。特にMさんは無担保低利子で500万円の申し出があった。ありがたくお借りして国道沿いに競売物件の大きな敷地と3階建ての古ビルを買い改装工事もした。全部でちょうど500万円かかった。モモさんは気持ちだけありがたく受け取った。犬舎と自分の部屋の区別がつかない状況で13匹の大型犬と暮らすことになった。中国の奥さんが山口県来てから生活スペースと犬舎を分離した。

離婚してネットを見ているとハルビンの女性が出ていた。それから連絡が始まった。当時はまだQQやスカイプもなく手紙が多かった。福岡空港から大連を経由してハルビン行の切符を買った。しかし雪のため大連ー哈爾浜は欠航となった。そこで大連駅に行きハルビン駅行の寝台で行った。自分はこういう判断は早いが、後で考えると払い戻しの請求を忘れた。翌朝彼女が駅のホームに待っていた。映画のシーンのように泣きながら抱き合った。その後結婚して二人で犬の面倒見たり、子犬の販売を始めた。

このハルビンの奥さんとは7年近く一緒に暮らしたが、その後東京で自分の判断ミスで離婚した。離婚は失敗だった。(この失敗で何度も中国人と離婚再婚を繰り返すはめになった。というのは昔から自分の夢は毛主席と同じ大地で暮らしたいと言うのがあり、そのためにはどうしても親族訪問ビザが必要だった。

その後、奥さんの希望でこの敷地を売って東京に行くことになった。そこで不動産屋に聞くと1200万円の価値があると言う。

しかし早く売りたいので900万円で売り出したら1週間で売れた。そのお金を持って東京に出た。途中神戸に寄って500万円と利息も返却した。手元に400万円残った。

この400万円がその後、方正県に2つ目の大楼に化けた。

 

 

 

 


休憩

2014年09月24日 | 日記

文章ばかりで疲れたところ、36歳の女友達から電話があった。台湾から帰国したので会いたいと言うので会いに行った。

台湾料理はどうかと聞いたら甘いので好きでないとのこと。日本の中華料理が甘いのでなんとなく理解できる。韓国風の焼肉店に行った。

味は悪くないけど特に美味しいと言うほどでもなかった。おごってもらってすまん。4人で160元。安かった。中国では割り勘は殆どない。その時一番お金がある人がおごる。清客 ちんくー と言う

彼女はまだ日本人と結婚したいと言っていたが、仕事のビザで日本に来て日本男性を探すのが楽とアドバイスしたがその方法は費用がかかるみたい。美人なのでなんとかなれば良いが・・・

久々西市場に行ったのでゴールデンの毛毛mao mao に会いに行ったらもう閉店になっていた。

この靴屋にいた。以前行ったとき毛毛いますかと店主に聞いたら今日は自宅にいると言われた。確かに客は多くなかった。

まあ、対面に大きな靴屋があるし・・・

自転車販売 歩道を占領してるので人は車道を歩く。

これは献血車。多くの人が採血していた。感心した。

 

 


高校から大学時代

2014年09月24日 | 日記

そうはいっても所詮高校生。羽目も外した。

一番の思い出は文化祭にグループサウンズを結成して出たこと。もちろんエレキなんて前代未聞。当時軽音楽部もあったが真面目な音楽ばかりで退屈だったので、生徒会主催と言うことで出た。花の首飾りや キサナドゥ-の伝説を歌った。背むしと鼻かじられ男はボーカル。自分はエレキベースだった。当然また始末書。この学校は比較的生徒の自主性を尊重したが、やらせたあと始末書で教育委員会から逃げていた。今思うと理解があった。校門でビラ配りもした。先生方は問題児がいなくなり喜んだと想う。山口県にはこういう風土があった。

1969年。卒業したら東京の大学に行った。毎日新宿西口のフォークゲリラを見に行った。熱気に圧倒された。当然反戦歌ばかりだった。

自宅が中野坂上だったので新宿西口から遠くないのでいつも歩いて帰った。途中当時盛んに東京副都心新宿と言われていて、都庁予定地の空き地を見ながら帰宅した。

写真が趣味なので新宿西口駅から相当路地にあったのヨドバシという小さなカメラ店で外国製の三脚やレリーズを買った。小さいけど外国製が多いので有名だった。当時はコイデカメラのほうがはるかに大きかった。

アルバイトは中野の日本発色系の中央発色現像所でカラーフィルムの現像をした。中野坂上は新宿区、中野区、渋谷区に近い。でも港区、渋谷区は何故か好きになれなかった。やはり東京は下町だと思った。好きなところは上野、浅草、葛飾・・・北区は住みやすいけど何もない。

当時ランボーが好きでフランス語が勉強したくて親に別の大学に行くと駄々をこねた。親はOKというので1年で東京の大学をやめて翌年仏語学科のある大学に行った。でも時代が悪く学生運動の最中だった。ここでランボーの地獄の季節を翻訳したり、文芸部で芝居の台本を書いた。数度上演された。

しかし自分には大学より労働運動が大事だった。親不孝な息子だっだと思う。遅いけど亡くなった両親に謝りたい。

 

 

 

 

 

 


富士登山と友人

2014年09月23日 | 日記

もう時効だろう・・・

 

小学6年生の時に富士山に登った。1962年、ボーイスカウトの日本ジャンボリー御殿場大会に出席したからだ。夜SLに乗って朝着く。もちろん寝台はないので通路にゴザを敷いての雑魚寝。友人と一緒だった。さて8合で一泊して早朝登った富士の頂上は快晴でご来光が綺麗だった。富士五湖もよく見えた。この友人とは現在も連絡がある。

1969年東大紛争で東大の入試がなかったためやむなく京大工学部とその後京大大学院に行った超秀才だが、卒業しても何もず、家業を未だに細々と一人で営んでいる。40-50年赤字らしいが趣味だからとやめない。家にあんなものがあると考える力がなくなると現在でもテレビとパソコンを拒絶している。もちろん独身。だがマンションやアパート、土地がある超金持ち。東大より難しいS44度入学の京大の学士、修士号は全く生かされていない。

変人だ。自分の友人はとにかくこの手の変人が多い。ユニークと言うのかもしれない。

もう一人高校からの友人がいる。高校の同じ新聞部だった。自分が言うのも変だか当時のいわゆる「赤」だった。体育教師が昼間から酒を飲んで教官室で寝ていたのを学校新聞に素っ破抜いた。主な部員は部長の自分も含めて学校停止処分と始末書。それでも折からの学生運動の波。自分たちもキャンペーンを張った。その時の一番の論客が私の一番の友人だった。彼はいわゆる背むしで小柄だが驚くほど頭が良かった。いつも先生と論戦しても負けなかった。新聞を止められたらガリ版で書いた。不屈の闘志。彼は偏差値は国立一期校クラスだったが、ブルジョワだと言い高卒で地元の新聞社に行った。僕がそれこそがブルジョワとか言ったようで彼はしばらくして下記の新聞社に行った。今思うと悪いことを言ったがそこで現在の奥さんと知り合って結婚し、子供も東京の超有名大学に行くことになる。

その彼は1972年の日中友好正常化の1年前に中国共産党に招かれて訪中している。恐らく日本民間人では早い方だと思う。彼は日本共産党左派山口県委員会の党員で党の機関紙「長州新聞」を奥さんと書いていた。その後アルバニアも行っている。

毎晩彼と朝まで議論した。

その彼が山口で4年前に亡くなった。最後に彼と話したことをよく覚えている。

自分「将来奥さんと中国で暮らすよ」

彼「あんな修正主義、裏切り者の国は住む価値がない」

いつも彼には妥協がなかった。自分の信念は死んでも曲げない。生きていたら再度議論したかった。

また別の友人には後に〇協の理事になったが、若い所長時代にお気に入りの行員を強姦未遂して鼻をかじられたのがいる。長い間マスクをしていたもし今ならセクハラで首だろう。皆、秀才ではあったが、一方バカだ。

高校時代、こういう仲間と海や山にキャンプに行って酒を交わし日本の将来を議論したのものだ。当然16-17歳で未成年。

山口県人には日本を作ったと言う自負がある。総理が多いのはこの負けず嫌いの県民性。血の気が多いだけかも知れない。

自分もこの頃は大学も行かずにデモやオルグの毎日。労働運動をしていた。日本共産党革命左派。その後、党神奈川県委員会と赤軍派が一緒になって連合赤軍を作り、様々な事件を起こした。革命を急ぎ過ぎた。失敗だと思った。

それから運動をやめて、森永ヒ素ミルク中毒を糾弾する市民運動に参加した。その後様々な運動から徐々に足を洗った。

 

 

 

 


子供の思い出

2014年09月22日 | 日記

子供の時ジープの兵隊さんに兄と二人でチョコやガムをよく貰った。m&mの製品だった。子供ながら強烈な印象で忘れない。今思うと山口県の進駐軍はオーストラリア軍だった。だからm&mだった。東京のコンビニでm&mのチョコを見た。とても懐かしくて涙が出そうだった。私が小学1年か幼稚園の頃だと思うので昭和30年頃、終戦10年経っていたのではないか?

両親は国道沿いの山口で写真館を営んでいた。そこに進駐軍が店に突っ込んできて店が壊れた。市役所と県庁に陳情に行ったが、戦勝国だから弁償等は無理だと相手にされない。そこで両親は直接進駐軍に文句を言いに行ったそうだ。自分の反骨精神のルーツはここにあった。

結果、全額弁償になった。県も進駐軍が日本人を殺しても何のおとがめがない時によく弁償させましたねと驚いたらしい。

しかしこれで済む両親ではなかった。父はその後進駐軍に行ってコダックフィルムを持って(もらって)きて写真館の商売を再開した。母は得意の英語の歌でYou Are My Sunshineとかを歌い子供たちのお菓子を貰って来た。

そのお蔭で家庭は裕福だった。

小学生の時毎日のように兄と近くの干潮の川(海)にバケツとガンゼキを持って、自転車でシャコ取りに行った。砂浜をガンゼキではけばシャコがピョンピョンと出てきてすぐにバケツ一杯になった。

持って帰ると母は喜んですぐに鍋一杯湯がいてくれた。。もう両親も一緒に遊んだ兄もいない。その後兄は写真館、写真店を継ぐもデジカメの台頭で店を閉じしばらくして糖尿病で亡くなった。60歳の若い人生だった。

両親は4人いた兄弟全員4年生大学に進学させたが、弟達そういう苦労をしらないと思う。 

 

 


一年経過

2014年09月18日 | 日記

ブログを始めて1年経ったとgooからメールが来た。早いものだ。

一区切りなので中国での年活について再度書いておこう。

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※ビザについて。 仕事のビザでは先が読めない(退職すれば終わり)。中国で新規でビザを取るのは私がやったようにとても大変なので日本でできるだけ長い親族訪問ビザを取るのがベスト。一度切りか数次可能かの確認も。あと外国人居住許可書を取れば仮に中国人の奥さんと離婚しても一人で暮らせると聞いた。私はハルビンの入管で聞いたがダメだった・・・語学不足か?

何があっても一人でも暮らせるように中国語(日常会話で可)を覚えること。何でも奥さん任せにすると大変。日本で永住取っていても1-3年毎在留カードの更新があり、奥さんは日本の入管に戻って申請する必要がある。しかも大抵の場合奥さんは若いので中国ではなく日本で暮らしたいはず。方正県に住む68歳の友人の奥さんはもうすぐ日本に帰るが、1-2週間の間一人暮らしだ。停電、断水も多い。実は料金未払いで止められてることも多い。自分で応対可能か?ぼんやりと先は中国にでも暮らそうかというのはいつ離婚するか分からないしまずいと思う。ではいつ中国で年金生活するのか?いまでしょう!

※最大の問題は中国の猛烈な物価上昇。理屈で言うと年8%の経済成長率だと給料も物価も年8%上がることになる。実際はそうでもないが徐々に上昇するのは事実。あと10年もすれば中国に暮らすメリットがないということ。すでに日本の企業も中国から東南アジアへ移転している。要は日本の年金では日本でも中国でも無理と言うこと。現在65歳前後の方は中国田舎部での最後の年金生活者になるのだろうか。逆に言うと中国人の奥さんにとっても日本にいるメリットが少なくなってきている現実。

少し前までは1万円が830元以上だったが、現在は560元の価値だ。もう感覚では半減している。

※日本の年金で暮らすには若い子は諦めて、自分と同じ年くらいの日本人と結婚すること。そうすれば二人の年金を合わせれば日本でもなんとか生活ができる。

※2014年の方正報告はこれでだいたい終わったかな?一応役目を果たしたということで今回で終了・・・謝謝您。再見。

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方正県でおそらく一番大きな写真館。建物も立派。宣伝の量も凄い。

バー。

 

風呂屋。方正はこういう風呂屋がたくさんある。うらをかえせば自宅にシャワーがある家庭は少ないということ。

フィットネスクラブ ここもたぶん先はない。ガラガラ。

 

もうみかんが出始めた。買ったら味は悪くない。

 


もう寒い

2014年09月17日 | 日記

方正はもう寒くなった。ユニクロで買った上下の長袖にポロシャツに薄手のジャンパーでちょうど良い気候。来月から3月中旬まで暖房が始まる。暖房費、広さにもよるが半年で3000元。月に250元くらい。

散歩してると市内にこういうロシア風の建物が2個ある。

バイク(モートーチゥア)は中国製が多いがたまに日本製(スズキ)を見る。ホンダはない。元CB750K4のオーナーとしては寂しい。GT38で大型車の免許を取ったことも最近のようだ。40年は早い。そう言えば陸王(もどき?)を見た。もどきにしてもまだ走っているというのはすごい。バイクは趣味(日本では)なのでOHCではない、OHVツイン最高。

射的をしていた。的の風船に当たると手を叩いたり歓声をあげたり。

これは第三小学校(三小)の下校(放校 ふぁんしゃお)風景。毎日親がこうして送迎に来る。この通りは朝と夕方は車や人で歩けない。日本ではここまでしない。一人っ子政策の弊害かマザコンが多い。母も何でも息子第一。

昔は馬やロバのこういう風景を見たが、最近は珍しい。

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日本からスカイプで中〇は〇産国だから大変でしょうとか言われたりする。どこがそうなのかと逆に聞きたい。多くの日本人はどこやらの国は〇国共〇党と名前を詐称しているので誤解しているようだ。早く金〇党、汚〇党とかに名前を変更してもらいたい。迷惑だ。

私には余程EU28ヶ国が共産国と思う。パスポート、ビザの廃止、共通の通貨、富める国が貧しい国を援助、EU諸国内は人民の自由な移動。これに私有財産を廃止すればまぎれもない共産主義国だ。だから富める国のフランスやドイツ国民から不満が多い。社会主義の理想はことごとく人間の欲望と一国蜂起でダメになってる歴史がある。そういう意味でEUの頑張りを見たい。 

もし中国、南北朝鮮、日本がEUと同じようになったらたぶん日本は消滅だろうなと思う。これはヨーロッパだから可能だった。


五金

2014年09月16日 | 日記

五金(うーじん)は金物店のこと。

店先にはバーベキューセットの販売。もう方正は寒くなるのでシーズン終わりだと思う。

ここは鍋とか・・・

五金もいろいろあり家庭用品に強い店、ペンキ専門店、工業品とかある。

路地を歩いていると何だろう?ディスコかなと思ったので覗いてみた。ローラースケート場だった。

うーん。子供は皆公園でスケートしてるし、お金を払ってスケートする人はいないと思う。まだアイススケートなら・・・

この店はもうすぐなくなるなと思った。