もう時効だろう・・・
小学6年生の時に富士山に登った。1962年、ボーイスカウトの日本ジャンボリー御殿場大会に出席したからだ。夜SLに乗って朝着く。もちろん寝台はないので通路にゴザを敷いての雑魚寝。友人と一緒だった。さて8合で一泊して早朝登った富士の頂上は快晴でご来光が綺麗だった。富士五湖もよく見えた。この友人とは現在も連絡がある。
1969年東大紛争で東大の入試がなかったためやむなく京大工学部とその後京大大学院に行った超秀才だが、卒業しても何もず、家業を未だに細々と一人で営んでいる。40-50年赤字らしいが趣味だからとやめない。家にあんなものがあると考える力がなくなると現在でもテレビとパソコンを拒絶している。もちろん独身。だがマンションやアパート、土地がある超金持ち。東大より難しいS44度入学の京大の学士、修士号は全く生かされていない。
変人だ。自分の友人はとにかくこの手の変人が多い。ユニークと言うのかもしれない。
もう一人高校からの友人がいる。高校の同じ新聞部だった。自分が言うのも変だか当時のいわゆる「赤」だった。体育教師が昼間から酒を飲んで教官室で寝ていたのを学校新聞に素っ破抜いた。主な部員は部長の自分も含めて学校停止処分と始末書。それでも折からの学生運動の波。自分たちもキャンペーンを張った。その時の一番の論客が私の一番の友人だった。彼はいわゆる背むしで小柄だが驚くほど頭が良かった。いつも先生と論戦しても負けなかった。新聞を止められたらガリ版で書いた。不屈の闘志。彼は偏差値は国立一期校クラスだったが、ブルジョワだと言い高卒で地元の新聞社に行った。僕がそれこそがブルジョワとか言ったようで彼はしばらくして下記の新聞社に行った。今思うと悪いことを言ったがそこで現在の奥さんと知り合って結婚し、子供も東京の超有名大学に行くことになる。
その彼は1972年の日中友好正常化の1年前に中国共産党に招かれて訪中している。恐らく日本民間人では早い方だと思う。彼は日本共産党左派山口県委員会の党員で党の機関紙「長州新聞」を奥さんと書いていた。その後アルバニアも行っている。
毎晩彼と朝まで議論した。
その彼が山口で4年前に亡くなった。最後に彼と話したことをよく覚えている。
自分「将来奥さんと中国で暮らすよ」
彼「あんな修正主義、裏切り者の国は住む価値がない」
いつも彼には妥協がなかった。自分の信念は死んでも曲げない。生きていたら再度議論したかった。
また別の友人には後に〇協の理事になったが、若い所長時代にお気に入りの行員を強姦未遂して鼻をかじられたのがいる。長い間マスクをしていた。もし今ならセクハラで首だろう。皆、秀才ではあったが、一方バカだ。
高校時代、こういう仲間と海や山にキャンプに行って酒を交わし日本の将来を議論したのものだ。当然16-17歳で未成年。
山口県人には日本を作ったと言う自負がある。総理が多いのはこの負けず嫌いの県民性。血の気が多いだけかも知れない。
自分もこの頃は大学も行かずにデモやオルグの毎日。労働運動をしていた。日本共産党革命左派。その後、党神奈川県委員会と赤軍派が一緒になって連合赤軍を作り、様々な事件を起こした。革命を急ぎ過ぎた。失敗だと思った。
それから運動をやめて、森永ヒ素ミルク中毒を糾弾する市民運動に参加した。その後様々な運動から徐々に足を洗った。