禁制!)北花園さな競馬ブログ

競馬日記です!!難易度高いかも知れません!

歴史(日本)を正しく読み解くには??

2019-06-21 16:16:21 | 歴史
僕が借りて来た図書「京都の闇(関裕二)」の中で、僕は4章(現代に残る平安京の裏事情!)ここを読む。みなが、歴史を読むのに聊か苦労しているのは明白、僕なりに助言をして上げるのである。この歴史書を書く関君もそうだが、歴史的に登場している人物らも、正に分からないことが多い。いやいや、この章のとあるタイトル’秦河勝は祟る鬼だった’と言う項で(あるいはそれ以降)、筆者は内実はよくは分からないなりに、こう申している。
いや、秦河勝は風に任せ、西に行くと播磨の国に辿り着き、その地の人から神と崇められると国は豊になったと言う。聖徳太子が物部氏を平したときも、この秦氏の神通力が功を奏しているのだと言う。
いやいや、現実は実はこうなってはいない。昔から’ズル’と言うのはあって、世を惑わす。当に呪符なる魔法攻撃がこの世にあり、この秦河勝も、呪符系の魔法攻撃を得意としていたとすると(あるいは・・)、特にズルを極め、無敵を誇る呪符(魔法)攻撃を手に入れているとするなら、この物がいちいち日本の初期頃当然世間を賑わす、聖徳太子や蘇我氏、これらのものからすれば小さい虫っけら!程度の輩、こう思われているのである。無論、この本の著者は関君と言う一般青年で、この日本と言う地のものから考えればまるで隅っこに入るような人物目線が精一杯だ!関君から見ると、秦氏の方が聖徳太子や蘇我氏、物部氏より大きく見える!

一方で、このように秦氏が聖徳太子等より一枚上手とする論述をする中で、次に村上天皇が聖徳太子の「申楽延年の記」から、仏法を称えると、国は穏やかに、民は静かに、寿命は伸びていくことを知った!とある・・・。


いやいや、今の日本で歴史を明かし、日本の有様を言うとするなら、この関君が言うような目線で考える日本と言うのは実は間違えだ。何が本当か?と言うと、この次の項に出ているが、歴代天皇が広隆寺の聖徳太子像に、即位儀礼の服を送り続けている、と言う関君がまともに解けない謎を解き明かす、あるいは信じて進む道を選択する方が正しい!のである!それは、日本書紀の読み間違えか、秦氏の言い分(あるいは優先に秦氏を称える)を先に取るか、それとも天皇が取る行動を先に(当然)信じるか?と言う二択である!当然、普通は天皇の言動を真っ先に信じるが当たり前で、この場合天皇家が聖徳太子に、即位の服を送っている!と言う事実を認識する方が得なのだ!

いやいや、物事はどこに自らの主眼(まあ自己修行の成果なのだが・・)を置くか?でまるで違う結論が用意される!古史に出て来る有名な集団で、蘇我氏とそれに対しては虚ろな藤原氏と言うのがある。関君の言い分では、蘇我氏よりも、藤原氏が優勢にことを運ぶ、歴史の勝者!と言い張るだろうが、本源的に歴史の始まりの方に出て来る蘇我氏が後追いする藤原氏より、力が上だ!とするのは、いつも当たり前の話しなのだ!僕は、藤原は歴史的にもそうだが、中間君と僕が称するように、途中参加で歴史に参加している新米君だ!要するに、それまで歴史があって、僕が特に言う、

1、卑弥呼史
2、ヤマト史
3、飛鳥史

この辺の歴史の中身が分からず、途中参加で我一番!と大はしゃぎするまあそれまでの赤ちゃん集団だ!
いやいや、この本の著者関君が飛鳥史程度に言う秦氏と言う氏族が、藤原よりも前に合ってより(何も知らず)出しゃばる単なる一族と言う事もよく知らず、この手のものが例えば蘇我氏よりも一枚上手!とする論調は、僕にはお笑いなのである・・・。

歴史的に(ちょ~う細かいが!)、大生部多が世間に邪教を広め、秦河勝が成敗した!と言う逸話があり、’常世の神を祀れば、貧しいものは富を得、老いたものは若返る!’と言う、このものの詐欺的な邪法は、まあ聖徳太子や蘇我氏と言った日本を代表する民からすると、この辺の輩が底辺で蠢いている程度の揺れ、日本の僕が言う
:天皇って何?
と、言うが精一杯の身分のものは、大生部多が齎す邪教(詐欺)とそれを懲らしめる秦氏と言う構図がまあぴったりの、まあ余程小さい身分のものが起こし果てている小さな動乱いつもこれなのである。


いや、歴史(日本)を読むにどうすればより良く日本史を読み解けるか?と言うことに関しては、小さい大生部多と秦氏の混乱を見ているのではなく、一方にある聖徳太子や蘇我氏と言う古来からの有力豪族を基準に見るのである!大生部多や秦氏、はたは藤原氏を先に追っかける歴史の読み方では浅瀬に乗っかる船のように全く動かない自分に出会う!

ではでは、またまた日本史と言う代物が言う、ここではその日本史の(正しい)読み方を伝授する!と言うことで!!
また次の機会にさようなら~!

日本史とは一体何なのだろうか?

2019-06-20 17:32:05 | 歴史
いや、日本の内実を彩った日本史、これには深い理由があるはずである。
相変わらず、僕は借りて来る図書「京都の闇」を読むが、その第3章(呪い呪われた平安京の悲劇)と言う中に、この人物
:藤原道真
が登場する。今で言う学問の神呼ばわりされる道真はその名の通り’学問’と言うものを通じ、天皇家が引っ張る日本国家の中枢に入り込み、日本の舵取り・運営を目論んだ!

いや、小さいわけだ!僕からでも良いが世の中のとある集団と言うか、あるものたちにとってこの道真が取る行動、これは小さいわけである。何と言ったら良いか、僕から言わせると相も変わらず’天皇って?(何だろう)’と言う疑問を持ち、言えば暗躍する藤原氏と言うのは、天皇以下の小さい集団の取り巻きで小騒動を起こしているに過ぎない輩なのだ!
いやいや、この本の著者関君はこの章の最初で、JR線と私鉄を(わざわざ)取り出して、京付近ではJR線は私鉄に比べ、不人気だと説く。いや、京都駅と言う駅に私鉄である阪急、京阪が通らず、人気(ぷ!)と言う三条・四条当たりから鉄道網を伸ばし、大阪ー京都を結んでいる!とは、僕からすればちょ~う大笑いの大馬鹿矛盾君が言う、何も知ることのない’まだまだこれから~ズ!’が言う、アホな屁理屈が世の中心!と言っている間抜けなのである!京都の大中心となる京都(JR)があって、それよりは繁華街となろう三条・四条と言う土地、ここから伸びる私鉄の方が格は上だろう!っと!!(ぷぷ)

いやー、目も当てられない間抜けだが、藤原氏が中心!であった!と言う奈良あるいは平安の都は、これくらいの雑魚が幅を利かせていたと言う一般者以下の身分が勘違いでものを言っていたそう言う時代なのだ!
まあ天皇家があって(当然正当)、その権力の座を横から浚おうと企む藤原氏と言うのは、まあ富(=金)を手に横から入り込もうとするような愚策をいちいち考えている雑魚なのだ!金とは、いちいちガリ勉を要して手に入るこれもちょ~うの付く大馬鹿アイテムで、殊更に言うが矛盾の種なのである。藤原氏は、自身の行う自らの正当性と不当性を絡めて政権を取ろうとする矛盾を軸にする悪党だ!!(悪って、いつもこんなもん!)

いやはや、間抜けが過ぎてこちとら腰が抜けそうになるが、そんな時代にこれは正当となる阿倍晴明なる人物がいたと言う。なんとも優良な陰陽師で、この時代悪呪符が蔓延る時代に、そのトップにいた陰陽師らしい。呪符(呪い)が蔓延ると、当然それに対抗せざるを得ないから、清明のような有力な陰陽師は必要になるわけだ!まあ安倍氏は「古事記」を紐解くと崇神天皇の代にある大彦命に辿り着いて祖とする事実があるらしいが、この歴史が言う安倍晴明の出所は、それはそのままの理だ!いやいや、「古事記」が言う通り、安倍晴明と言う人物は天皇家が祖となっている人物だ!(大彦命は天皇(8代)孝元天皇の長子))いちいち、安倍晴明はこの時代、天皇や貴族があちらこちらから飛んで来る呪符の脅威から身を守らせる盾の役割を担っていたのは、明白だが、ただ安倍晴明に頼み、呪符の敵藤原等を逆攻勢を掛けると言う事は、これは当然しないのであろう!(安倍氏強すぎのハンデキャップ!)

いや、この時代下から藤原がその権力の座を獲ろうと画策、呪い攻撃(呪符)していたのは言うまでもない。天皇家と安倍氏は繋がりが当然あり、この何も知らない藤原氏に晴明は逆に式神攻撃を取る!いや、藤原氏以下の下身分のものが同等に持つ’天皇って何?’の疑問が解けるまで藤原氏は同じことを続けるので、晴明もアホながら見てられないのは承知の上、悪を退散させるわけだ!
いや、藤原から見ると、この安倍氏(晴明)はちょっとした立役者程度に見え(ぷ)直ぐに歴史から葬り去られる運命の氏族と思っているらしいが、安倍氏はハナから藤原など相手にしてなく、自ら(いつも)退散しているだけだ!

いやいや、例えば歴史上にいつもある安倍氏(晴明)のような人物、これさえもその手掛かりを録に掴めず、天皇家を打ち滅ぼそうと躍起になって天下を狙う藤原氏のような輩は、まあ晴明そして天皇家からすると、いや小雑把な身分だ!
日本と言うのは、東北に蝦夷がいてどうもこのようなアホな豪族(藤原)を牽制するようである。東北に日本の在処の一つが隠れているのはとある筋には明白なわけだが、このような事実、これも一切構わず天下を獲ろうと躍起になる種族は、まだまだ何も知らない今の齷齪働くアホな身分のガリ勉等に代表される平民以下と同文だ!
この世の’春(あは)’を贅を凝らして謳歌した!とする身分の藤原は、いやー本来存在あるものが経験する大事な’青春’これさえ知らない野暮な一族だ!


日本史とは一体何だろうか?過去から遡っても見えるが、藤原氏はその日本史の一部分を拵えるように天下獲りに躍起になる!
もっと勉強が必要だ!(それ以前に・・)そして、それよりこの頃僕が口に酸っぱく出し言う
:天皇って何?
この問いに挑戦せねばなるまい!!

ではでは、”日本史とは一体何だろうか?”と言う日本が歴史を彩っていた意味を考察するが如く今追っかける平安朝を元に解説、いやまだまだ日本史の歴史の一ページを綴ることは一切不可能!の三文字が言い渡されるここでの藤原以下のものたちにエールを送るように。


それではまたまたまた!!

(平城と)平安時代に見る北花園さな!が指示する1000年記を号令に見せる粛清とは??

2019-06-18 14:58:08 | 歴史
相も変わらず関裕二君著書となる「京都の闇」この図書を見る。
平安と言う時、藤原と言う氏が日本を牛耳っていると一般には思われているようだが、まあそれは良いと所謂1000年頃に、末法思想と言うのがあって、世がこの世の終わりを向かえるのではないか?と言う一部のものの不安が増大した時代、その背景には当然(まあ歴史を振り返るが)

1、邪馬台国時代!
2、ヤマト時代
~~
3、奈良・京都時代

と、時代は下って世間は割と下に転がるように進んで行く。まあ、聖徳太子(と蘇我氏)が中心となって大陸仏教を入れた時から日本は、混沌とするのは仕方がないが、まあこの関君の著書を拝見すると、藤原氏等に何だか暗雲’お金’の匂いが非常に立ち込めるようになっているわけである・・。粛清と言うのはあって、この時代はまあ1000年の西暦が言うように時代性に相応しい粛清が、一斉に行われようとしていた!
いや、お金と言うのは人間が持つ根源的な悪なわけだ!持つと、自分はさぞ(己惚れるように)お偉い方に属したように錯覚し、持たないものに対しアホな優越感を持つのは人間である以上仕方がないことだ!
人間、このお金と言う悪と縁が出来てしまう浅いものが必ずいるもので、最初にこの罠に引っ掛かるのが日本の代表を務めるかのように見える藤原氏である。平安時に栄華を極めた!とし、
:この世をば我が世とぞ思う、望月の欠けたることもなしと思えば
と言う句に表されるように、僕からは中間君!と揶揄されるに正にぴったんこ!となる(またもや!の)現状、これをご披露してしまう(ぷ
いやいや、お笑いなのである!藤原と言う日本に居座る集団は、元来が’お笑い!’気質が本となる集団なのである!いや、何が?と言っても藤原が持った自分の宿命としてある立ち位置、これと自身相応の身分に絡め、錯覚をする!と言う一族身分がこの藤原なのに、まあ結構気が付かず、呑気に胡坐をかく様に世間に’いちば~ん!’と、高らかにアホな言い分を披露する!これが、平安時にも出で、やはり藤原氏は元来持つ最低級の身分を表す’アイドル級’の身分の素性も知らず、撃沈する!

まあ藤原君も人間だから、失敗は付きものだ!横からこの時代(1000年頃)、粛清が入るように大掃除が行われる様相で、それを末法と読んで人々は世間に蔓延ったお金を中心と(また)する悪の大粛清に入った!
この時代、聖徳太子を祭るような太子思想と言うのがあったそうだ。これは、かなりの高級な理論で僕だけが唱えるだろうが、時代が

:平城時代
:平安時代

と、続いて行く中、細かく常識的に中身を見て行けば辿り着くある世の基準、これが垣間見える。いや、平安にあったと言う末法の世に出た太子思想は、1000年区切りの世とは言え、この関君しかりの世の人々にとっては、平安朝にあるまあ重要人物を出せば、

紫式部
清少納言

この二方が、その有り余る実力を持ってこう世を動かしたと言う。末法の世にある通り、世は、関君の著によれば風紀が乱れ、治安が悪化、犯罪が日常化し、無政府状態になったと言う。
何だろうか?
いや、傍らで天皇家を頭にし、その間を藤原氏が行き交う世間の見え方がある。これは、藤原氏を中心に見た場合、世の動きに見えるわけだ!一方に朝廷と言う天皇家があって、藤原氏も周知の通りだが、末法の世と言う世間の一人歩きをし出す言葉があって、実際に世が(藤原的に)乱れている!と、こう映るようになる。
風紀が乱れるとある。
これは致し方のないことだ!藤原氏がことを発するように、奈良時代か律令制と言う決まり事を設け、アホな中間感覚が罷り通るような時代を向かえて行くが、通用しない。1000年紀があって、粛清とし、世の風紀は乱れていく。時代を、流石に事外れな眼力を用いれば見えるとある流れ、これがやはりいつでも生きるわけだ!藤原氏が世の中心を取ったように見え、上の語句’この世をば我が世とぞ~~’歌うころ、横からに見えるいや本物の世間と言うのは1000年紀を向かえた様相も序に、捕まえに行く。

いや、世の中とは何だろう?天皇家がいて、藤原がいるような日常風景がせいぜいの世の中だろうか?1000年記と言う号令と共に、動く得体のしれないような気配はこの時代に巣食った第一の病巣を打ち砕く!
一般のものから沸き上がった(だろう)太子思想がある。
当然である!
人々は知っているわけだ!人々がその命を脅かされたとき、正義の使者ウルトラマンが現れて、悪を一掃してくれると言う事を!1000年記と言う粛清は、正にそれでここに蔓延った第一の悪藤原氏を中心とする悪の集団を意図もなく封じ込める。

太古の昔のように見える平安と言う世は(あはは)、粛清と言う断罪があったとする様相だが、時代と言う変遷を辿れば、奈良(平城)と京都(平安)と言う二方で、必ず訪れる太子思想を前面に出す、聖徳太子の影をも踏ませぬ完全勝利!が、駆け抜けるのだ!
いやはや、これが世の中だ!天皇の名のもとに生きる人民はいるが、絶対!を主張する太子思想を上に、聖徳太子が世を必然牛耳る!!

紫式部が「源氏物語」を書いたのは一体何だろうか?同様、清少納言がいて、「枕草子」が世の中を席巻する事情とは何か?この辺の世の理が分からぬまま突っ走るこのこの時代、天皇家の下(やはり)突っ走る藤原氏と言う先手のおっちょこちょい(中間君)、これがいたのは言うまでもない!

人間の限界!不可能の三文字をこれは特と拝見出来た関裕二君の著書(京都の闇)

2019-06-17 16:25:31 | 歴史
「京都の闇」(関裕二)の中で、最初この本のタイトル通り筆者が(自分に)言う、京都の闇を探ろうとするとき、第一章では’雅な京都は以下にして誕生したか?’とし、関君なりの持論を展開する。僕が言うのだが、ヤマトが王座を取り、それで日本を運営していくとき、この関君も言う
’何故、ヤマト(奈良)そして山城(京都)の地が選ばれるのか?’
と言う、(これは)難題に対し、まああまり突っ込んでこの問いには答えていないかもしれないが、東西日本の中心的な意味合いで、ヤマト政権がまずはその皮切りに、奈良の大地を選んだのだ!とする言い方が当たっているのだろう。もしかすると、もう一歩踏み込んだ見方も持っているかもしれないが、ここでは(答えは出せず)東西日本の要(中心)的な意味合いで奈良の地にヤマト王権が誕生しているとする見方が有力なのであろう。

ヤマト王権が、ヤマト(奈良)の大地に王権を築くのは些か難しく、もっと前にその天皇家としてのルーツまで遡るような作業が必要かもしれない。流石に、そんな天皇家のルーツ(古事記等以前)を探るのはほとほと難しく、僕はとある自らが持っている知見から、まあ先は京の地にあるけれども、その京の地(ここがわからない。天皇家が自身の地盤を京の地に築く所以だ!)が、この天皇家にゆかりを持っていると言う理屈である。
流石に書かないが、どうしても天皇家が最初に決する土地と言うのは、正に京都の地の下に位置する奈良の地、ここが始まりになるのは否めないわけだ!(こんなのは一般のものには当然分かりっこない)

まあ最初に、奈良の地が選ばれる訳と言うのは流石に常識外となり、うーん上の最初の設問はちょっとオーバーな設問をしたと度外視すると、この関君が言う一章のタイトル通り’雅な京都は以下にして誕生したか?’と言う問いは、僕からすれば、奈良から京都への都の遷都は、これもまあ普段一般民が考えるに常用外の語句を使用しているようなものであり、やはりここも、その奈良から京都の遷都に関してはその理解はほとほと見送った方が賢明とも言える・・。流石に、キーワードらしきものも含まれているが奈良時代と平安時代を見比べ、その相違を明らかにするような極意は持たない方が良いとも言えるかも知れない・・。(人間離れ)

とある一事象によって、都は奈良から京都の地へと移されるわけだが、この物事の本質を抉るような僕が掲げる奈良から京都への遷都が理解不能なとき、あるいはその理解不能の常識が、見ることも出来得ないとき、この関君はその遷都の理由として、(桓武天皇が都を京都に移すのは)

理由:人の恨み

と、こう合って来るわけである・・・。(やはり!)

いやー、流石に勉強家の関君と言えどこの(日本史実での)奈良から京都への本質を抉るような’常識’は、得てして解けない難問にぶつかっていて、世にある例えば人がジャンプしておおよそお空に高く見えているお月様に手の平タッチ!と、触って笑い転げるようなもので、いや人間様にとっては’出来ないこともあるよー!’と匙を投げる、根も葉もない話しにぶつかるものと同じである!(わかるか?)まあ、ここまでとするが、関君はいや実は決して解けない問い(あはは)これに実は挑戦しているも同じなわけだ!

関君は、まあ奈良の治世に藤原氏が権力を握り、他族から恨まれ地位を築いていたと言うことに要点をぶつけ、その恨みの地(祟り)を一刻も早く捨てたいと言う思いから、平城の地を離れ平安の地へと都を移したのだ!と言う。まあくどくど言っても仕方がないが、ただ物事には限界があってやはり関君もこれにはほとほと参り、降参の一手を上げるべく、ここはさっさと退散が要なのだ!(藤原への怨念くらいの理解が精一杯)桓武天皇が、東国に怯え、ヤマトの地に要塞を築くとき、同時に西側からの侵攻もうまく撥ね付けられる、と言うヤマトの地建国論も、僕からすると関君の頭の理解をフル回転しても出せない難問に挑戦していて、諦めも肝心!と、そう言いたくなる。あはは、くどくど言っても仕方がないと、書いたのに、また書いてしまっているので、これくらいにしておくが、いやはや、関君(ら)が言う
:天皇って何?
この問いを解くために、関君がまず捻り出そうとする難問’雅な京都は以下にして誕生したか?’と言う難問は、ここいらで店仕舞いだ!

いやー、人間には出来兼ねることもある。間違って入り込んでしまうといや危ない目にあうこともしばしばだろう!いやはや、歴史家がそれは多重に言う’天皇って何?’この答えは、大多数の人々にとって御蔵入り!とする案件なのだ!!

いや~、皆には難問の歴史史実!確かに解けるだろうか?

2019-06-16 06:19:48 | 歴史
いや、今朝も起きしがら図書館から借りて来ている図書で関裕二君の’京都の闇’これを読む。大抵の歴史家は、歴史の捉え方(整理)もよくできず、あやふやな認識で歴史を語り、自分なりの図書として世に送り出している節もあるが、この関君の図書はそれを少し越え、なかなか自分なりの答えは出せずとも、歴史に対し、何故?のような疑問を自らもって解こうとするまあ最初の取っ掛かりとなる歴史認識に対する数々の課題は、自分なりに設けていると言うそんな段階の一書に見える。まあよって、自分なりの疑問が詰まった書と言う事で(答えは出ない)、見るに面白い感じを受ける。

最初の項に、

:何故、古墳時代は京都から始まらなかったのだろう??

と言う自分なりの問い掛けがある。
ん~、僕が当たり前のように知るまあこの日本の歴史史観からすると、関君は(厳しい言い方をするが)未だこの問い掛けもクリアできかねる一青年と言う事になるが、確かに、関君が本文の中にその心情を吐露しているように、

関君:いつも不思議に思っていたことがある。何故、古墳時代は京都から始まらなかったのか?

この、最初の出だしの一文である。そう、関君は、世にある全ての事象物が不思議でならないわけだ!(逆に、弥生時代の終焉とその後の建国事業が何故京都の地ではなく、奈良の地で始まったのか?とも言う)
関君は、始めの取っ掛かりの段階で、水陸の要(要所)となる京都の地が初めに選ばれず、単なる盆地と言う奈良の地が選ばれているか?として、僕が関君が疑問に思っている、古墳国家の時に京の地が何故選ばれないか?に答えようとしている。世の中の大旗と言うのはあって、関君等、歴史家はそこが掴み辛いわけだ!まあどうしても逆転的な目線になるだろうが、小さい目線的にこの問題を解いてゆこうとし、関君はそれを奈良と京都の土地柄として考えてみるも、やはりそれでは上に言うように、
’どうして水陸両用に長ける京の地を始めから使っていれば良かったではないか?
と言う矛盾する結論に至ってしまう。
流石に、これではダメなので、意図も関君はこの難問に見える問いにもう一度やり直し、結論を出さねばならないが、無論今の段階でその答えが出る事はなかなかないのだろう。(いやいや、勉強ばかりしていてもダメだ!)


いやいや、極端に僕がこの著書関裕二君が辿り着けない問題に口を挟むとすれば、やはりこう言うことが言える。関君が次の項に口を出し、問いを解こうと苦闘する中に「古事記」等に連ねられる神話とその天皇と言うものから見る神武東征、この言葉が出て来る箇所がある。普段一般のものからすれば、「古事記」に乗っかる神武東征と言う歴史(神話)はおぼろげな何だか空想っぽい史実で、実際にそんなことがあるのだろうか?と眉を潜めたくなるような案件かもしれない。実は、ほぼ多くの学者が思っているようにこの「古事記」等が見せる神話に見える話しが一つ厄介なのだろう。実際、僕が言うには「古事記」等に厳然と語られる神話と言う話し、これについてのしっかりとした結論が出せないと(認識ができないと)、関君が自分の思考力も導く結論もうろ覚えなもの、そこから意図も脱せず、歴史史観において、全くの自信を持って語ることの出来ない一輩、これで終わってしまうと言う関君の無念は晴らせないであろう。
いや、太安万侶が書いた「古事記」と言う文献は確かにあって僕らの前に立ち出でるが、太安万侶が言うように’神話’と言うのは、あるわけだ!(理解できる人がいるとすれば良いだろうか?)もはや、日本の歴史(平安期)で超の付く天才児太安万侶級の天才でなければ、絵空事にも見える「古事記」等の神話は理解できないかもしれないが、それでも歴史を持って自らの存在を架けようとするのであれば、意図も挑戦せねばならないだろう。

いや、当然歴史家は思っていて、
’神話とは何だろう?’
この問い掛け(謎)は持っている!いや、解決の糸口となる常識的な手法はあって、教える事は出来ず自分で探らねばならないが、いや歴史家は、単なる知的欲求を満たす歴史の史観を持っているだけではダメで、そのほぼ多くの人々が陥る’単なる知的欲求と言う上辺だけに見える好奇心を脱するには、やはり自らに煩悩として支配しているだろうお金あるいは逆○○からやって来る一切自分のことは考え見ない、その生活態度を改めることから始めねばならないのだろう。今で分かり易く言うには、ガリ勉・ガリ仕事だけやって、自分は何でもできた!と、己惚れる自分を止めると言う事だ!

さて、人間にはやることがある。それに向かうとこのような問題から脱することが出来るのだが、いやまだまだ人間自らが持つ根源の生きる道これに真っ向進もうとしない輩は多い。よって、歴史一つ学ぼうとも、簡単には答えを出すことはできないであろう。(浅知恵を披露しているだけだろう)

では、少し前進し、自分の問い掛けは持って文章を書く関君の一書「京都の闇」に対するここでの一感想はここまで!
さようなら~!