一つ前に読んだ本「平城京を歩く」では、奈良に本拠を置く現天皇家のその日本で王権となる歴史を刻むに、一歩となるその始まりが書かれている。どうして奈良の地に現天皇家のものたちがその本拠を置くのか?と言う事に関しては、簡単に方位と言う面での東西と言う感覚がものを言う場面が多いだろうが、その天皇家がある入り口として奈良の台地、時代があるわけだ。その玄関口である奈良に都があった時代、藤原と言う氏が、天皇家に近付き日本で舵取りをしようとする。どうも、710年に始まるとされる奈良時代は、この天皇家に近付く他の組み合いのものたち、これがあれやこれやと策を練って、まあ僕的に言えば天下取りに躍起となったその幕開けが、奈良時代であったと言える。藤原氏は、当時いた一組み合いであるが、天皇家と言うものがよく分からず、やはり律令制もそうだが、直ぐにその日本の舵を取って行こうとする策は終わりを向かえ、やはり天下を獲る!と言う野望からは、離れた結果を持つ。
僕は、昨日借りて来たもう一冊の歴史の本で、
:京都の闇(関裕二)
と言う著書の中、始めに’はじめに’と言う本の最初の小書きを見る。関裕二君は、こう言っていて、
:京都には、雅なイメージがあって、富と教養の国風文化取り分け、紫式部「源氏物語」がこの時代のおんなのこの恋物語の様子を映し、京都平安時代の景色となっているが、この京都は日本一の観光都市ともなって、多くの外国人も日本文化のシンボルとしてやって来る。但し、その裏にはもう一つの顔が京都にあって、夕暮れ時にふと迷い込む路地裏にただならぬ妖気を感じるのである。百鬼夜行し魑魅魍魎とする裏の顔を見せる。京都と言うものはこの時代からも、表の華やかな顔と裏の行燈とした顔の両面を持つ。
京都は長い年月に刻まれたこの二つの顔があり、それは勝者と敗者、繁栄と没落、恨みと鎮魂等々、、、こうやって京都はその二面性を映し出す。
そうして、この京都が映す二面性これを浮き彫りにしていけば、日本人とは何か?そして(やはり!)天皇家とはどう言う王権か?(天皇って何だろう?)これに辿り着けるのではないか?この為、僕はこの平安京都の歴史を知ろうとする!
としている!!
やはりなぁ~~!この僕が借りて来る図書、京都の闇の作者関裕二君は、自分と言う存在を追っかける為と言うのは勿論あるだろうが、その一方で(とある念から)日本みたいなものが知りたくなり、行くと天皇なるものが見える。更に追うと、日本国で天皇が頂点におわっしゃる日本の独特の構造が、自分に解けない謎となってぶつかるので、これを追い掛けようと天皇制を追うのである。要は、僕が歴史の本でいつも立ち会う個々の歴史家のその史観とも言うべき、結局は’天皇って何?’ここが、分からないわけだ!
いやぁ~、この関裕二君もこの本のはしりにあるように、京都の顔である表と裏を指し、意気揚々とその天皇家の謎を探る為、平安の地(時代)に降り立ち、天皇とは?について探ろうとするが、いやはや僕からすると、こんな些細な問題が、一向に解決できないでいるこの関君は、いやはや勉強家としての関君の限界を必ず見る。いや~、世間と言うのは関君が思うような勉学の上に成り立った世間ではない!と言うのを僕ながら、如実に思い知るわけだ!
いやはや、見当違いなのだ!関君が自分を知る、あるいは世の中を知る!と言うのに、一切の自分のエネルギーを惜しまず、勉学系に勤しむと言うことは!!
関君は、庶民なのである。行けば昔の言葉で官人となる身分に付けるが、これもまた庶民であり、庶民が天皇の名の下行き付く最終点官人と言う地点からは脱せない。
いやー、どうすれば良いか?いやはや、向かう方向が間違っているのは言うまでもない。天皇って何?の答えは、天皇家(のルーツ)を探ると言う事なのだろうか?いやはや、かぐや姫が出した難問に関君ももはやタジタジ!この辺、人間が見せる限界が見えるわけだ。
僕は、昨日借りて来たもう一冊の歴史の本で、
:京都の闇(関裕二)
と言う著書の中、始めに’はじめに’と言う本の最初の小書きを見る。関裕二君は、こう言っていて、
:京都には、雅なイメージがあって、富と教養の国風文化取り分け、紫式部「源氏物語」がこの時代のおんなのこの恋物語の様子を映し、京都平安時代の景色となっているが、この京都は日本一の観光都市ともなって、多くの外国人も日本文化のシンボルとしてやって来る。但し、その裏にはもう一つの顔が京都にあって、夕暮れ時にふと迷い込む路地裏にただならぬ妖気を感じるのである。百鬼夜行し魑魅魍魎とする裏の顔を見せる。京都と言うものはこの時代からも、表の華やかな顔と裏の行燈とした顔の両面を持つ。
京都は長い年月に刻まれたこの二つの顔があり、それは勝者と敗者、繁栄と没落、恨みと鎮魂等々、、、こうやって京都はその二面性を映し出す。
そうして、この京都が映す二面性これを浮き彫りにしていけば、日本人とは何か?そして(やはり!)天皇家とはどう言う王権か?(天皇って何だろう?)これに辿り着けるのではないか?この為、僕はこの平安京都の歴史を知ろうとする!
としている!!
やはりなぁ~~!この僕が借りて来る図書、京都の闇の作者関裕二君は、自分と言う存在を追っかける為と言うのは勿論あるだろうが、その一方で(とある念から)日本みたいなものが知りたくなり、行くと天皇なるものが見える。更に追うと、日本国で天皇が頂点におわっしゃる日本の独特の構造が、自分に解けない謎となってぶつかるので、これを追い掛けようと天皇制を追うのである。要は、僕が歴史の本でいつも立ち会う個々の歴史家のその史観とも言うべき、結局は’天皇って何?’ここが、分からないわけだ!
いやぁ~、この関裕二君もこの本のはしりにあるように、京都の顔である表と裏を指し、意気揚々とその天皇家の謎を探る為、平安の地(時代)に降り立ち、天皇とは?について探ろうとするが、いやはや僕からすると、こんな些細な問題が、一向に解決できないでいるこの関君は、いやはや勉強家としての関君の限界を必ず見る。いや~、世間と言うのは関君が思うような勉学の上に成り立った世間ではない!と言うのを僕ながら、如実に思い知るわけだ!
いやはや、見当違いなのだ!関君が自分を知る、あるいは世の中を知る!と言うのに、一切の自分のエネルギーを惜しまず、勉学系に勤しむと言うことは!!
関君は、庶民なのである。行けば昔の言葉で官人となる身分に付けるが、これもまた庶民であり、庶民が天皇の名の下行き付く最終点官人と言う地点からは脱せない。
いやー、どうすれば良いか?いやはや、向かう方向が間違っているのは言うまでもない。天皇って何?の答えは、天皇家(のルーツ)を探ると言う事なのだろうか?いやはや、かぐや姫が出した難問に関君ももはやタジタジ!この辺、人間が見せる限界が見えるわけだ。