玄関先の、郵便受け皿に、チラシで
日蓮大聖人の仏法
なるチラシ(日蓮宗系、顕彰会
の、チラシが入る。まあ寄って笑い話しのタネにしかならないわけだけれど、この顕彰会の執行者浅井君に寄れば、、(まあ日蓮大聖人はどう言う方かと言う方っで、
日蓮ちん:日蓮はこの汚れた世界を、根底から塗り白く帰らせるちょーの付くお台役さまっで、あらせられる(用は、お救い下さる
と、こうある。まあお人間さまの頭では、まあこの腐れた世の中を根底から洗いざらして綺麗に掃除してみせる!なんて芸当は、できっ子なく、いわば日蓮大聖人は、道横にあるお地蔵さん、本おっしょさんである!
と言う、当然の周知の事実これを殊更ここに始め記し、この顕彰っのチラシを言えば、この代表浅井君っは、まあここいら辺っが妥当の恥たる性分もの、ここいらが見える。それは、日蓮(だから)言う、生きる上での性分っとは、仏と為るためだっ!っと言う一連の仏教思想を言い、それは、人間さまでは到達不可能な領分、
人間から仏さまへ
と言う、これは犯してはならぬ人間の過ちを正すべき、これは花から仏さまのお身分である日蓮さまであるから問うお自分のご所存これであり、この日蓮さま意外には到達できやしないので、多分に人間さまはこの日蓮教に足を深入りさせてはならぬ!と言う掟がある。(まあ仏教を深入り、足を踏み入れていると近所の番張りもの(雷おやじ等)に、怒られることあり。まあ、はっきり言い、この日蓮のもの言いは日蓮と言うお釈迦さまだから案ずれるもので、お人は深入りしてはならぬとは先入(言)った。それで、深入り禁物のこの日蓮さまのお言い分に、あほ立ち入りあほ立ち進めば、必ずこうなり、
:仏法は、空理・空論ではない!必ず、証拠を持ち合わせている!
と、こうなる・。日蓮が、(本おっしょさん(釈迦))知っているから仏法はあるのであって、本おっしょさん(釈迦)ではない入っこの人さまが論ずれば、それは日蓮さまでは決してないわけだから、この言葉(まあ禁句
・証拠
こうなって、現れ出るは致し方のないことだ!(真実を語る日蓮さまのお言い分に、人さまが証拠あり!っと、本末転倒のたまうは滑稽なり~、だが、ここいら辺っが、人さまの限界
それで、本末転倒なお自体と休する顕彰の浅井君っは、(もはやぶち壊れる辻褄を合わせようと!、さすれば”人間が仏になるのだ!”っと言う、お人が辺路の脇地蔵になるかのようなもの言いに陥り、あるまじき
人間さまから仏の身分へ
なる、人さまにはあるまじきご法度を犯してしまう。これではもはやダメなのだ。
日蓮教の一派顕彰っは、この一大大過ちを犯してしまい、どうも僕が先に言う、
証拠
と言う言葉を用いてしまい、何でも事わらに’証拠’を持ち合わせねばならない丸で天地が逆さまになってしまった科のような自体に陥る。万事は休しているわけだけれど、この全ての事象に
;証拠
を、用いなければならなくなった顕彰っは、もはや物事の辻褄っは当然合わなくなり、先も言う’辻褄合わせ’な、あほう道先を辿ることになってしまう。本心、人が
’生きるには?’
を、論じたいに、本文は何やら末法的な、’死に際をどうするか’であるとか、どうも死と言うものに直結するもの言いが合って始終するお自分のあり用になり果ててしまう。この、果て筋が通らなくなった自分のあり様に苦悩するだろうが、自業自得のゆえ、この顕彰会は、破滅の道を進むわけである・・。
日蓮さまのお言いは、正しいのである。それは、仏さまである日蓮さまであるから正しいのであり、そうではないお人と言う身分者には、あろうご法度の立ち入っては本来ならない道なのである。自分の過ちか、この日蓮さまに救いの手を求めるか、浅井君のこのチラシのもの言いはある。けれど、日蓮さまが地に根を張るが有り用の人さまに無論手を差し伸べると言うは、矛盾であり、日蓮さまは日蓮さま本人のあり用をこの日蓮お台紙(立正安国論か)に述べてあるのであり、過ちを犯す本人の正す方向は、無論人としての常識で
罪を償う
これなのである。
行くとこまで入って、この日蓮教(顕彰)は自分の馬鹿下たあり様っが丸でこの列島全てに巣くう病巣のようにもの言い錯覚し、大きなおお崩れが全てに起っているような面持ちで、’全ての人が救われるは、日蓮大聖人さまのご慈悲が必要’っと、馬鹿おっしゃる。(未だ、他人のふんどし)このお人(浅い)の用は世も末で、列島(あるいはあろぅ全世界のお人々は!)この日蓮教に帰依する、全国民顕彰化!などと言う愚痴をいいしゃる!(んなわけあるかー!
と言うで、こんなあほぅもわらわの遥か遠くか(いないか)、あろうとするこちらのまあ高名な)おっしょさんとなる北さなちんに対すれば、まあ遥か後方にはこんな出鱈目級のでくの坊さんもいたるわけで、流石にここいら万全、言う天地の差(開き)っは、いい他所ではない(当たり)わけだ。