三蟠鉄道研究会

今はなき岡山の三蟠軽便鉄道の歴史を探り、後世に伝承していくための活動をしています。

三蟠鉄道記録集出版が、朝日新聞社の 人ひと ワイドに掲載されました

2022-12-15 10:47:44 | 書籍発行

 三蟠鉄道記録集出版が、日新聞社の、人ひとワイドに掲載

 

16年間だけ走った「幻の鉄道」 生まれる前の記録を今に伝える大著:朝日新聞デジタル

16年間だけ走った「幻の鉄道」 生まれる前の記録を今に伝える大著:朝日新聞デジタル

 岡山市中区の旭川沿いで、内田武宏さんは大正から昭和の始めにかけて運行していた「三蟠(さんばん)軽便鉄道」の調査研究を続けている。わずか16年間、わが町を走ってい...

朝日新聞デジタル

 

 


三蟠鉄道から目の前に見えた筈の砲台跡

2022-12-15 10:04:41 | 三蟠軽便鉄道沿線案内

当時の面影をとどめている砲台跡の石積み

 

 

 

私の地元平井には六丁目に小字で「杦下(すぎした)」⦅杉下とも⦆と呼ばれる土地が残っている。名前の由来を調べていくと、杉林があったと云う事では無く、辺たり一面杉菜が生い茂っていた場所だった。現在ワールドオプティカルカレッジの裏側に位置している。杉土手の部分は、少し盛り上がっていて、現在車の通る道の一部で、その法面が約50メートルほど石垣に覆われている。古老に聞くと、江戸末期に造成されたものたが、現在は大型車も頻繁に通り拡幅されていて、往時の姿を見る事は出来ない。しかし当時の国際情勢と大きく関わっている。池田家文庫の御後園諸書留帳(以下「留帳」(俗に後楽園日誌とも)によると、この位置は大砲での射撃訓練場である。石垣の上は隠れて見えないものの砲台跡であった。留帳に「殿様、杉土手大筒御覧」の記事が残されていて、天保14年(1843)7月26日には藩主池田慶政が大筒の実写訓練を御覧になるとき、御後園奉行が殿様の昼食と茶菓を届けることとなっていたためである。留帳では杉土手が何処にあるか、弁当が陸送されたのか舟送されたのかは分からない。

天保13年に、清国が英国に香港を割譲していて、日本も植民地になるかもとの危機感があった。弘化4年(1947)7月1日幕府は関東沿岸の防備強化を命令している。嘉永2年(1849)7月1日には米艦が長崎へ、英艦が浦賀へ来航している。嘉永6年6月にはペリー率いる米艦隊4隻が来航、同11月岡山藩は幕府より房総半島の沿岸警備を命じられ、千五百人を派遣している。この年には危機感が高まり、6月13日、6月23日、6月24日、7月21日と4回視察した。安政2年(1855)9月2日、同9月10日、そして安政3年(0856)6月27日と合計10回の視察歴が記録されている。この留帳の記載は大筒の稽古を殿様が現地で御覧になられた回数であり、杉土手での実射訓練はこの何倍にも実施されていたと思われる。次ぎの池田茂政の時代には、大筒御覧の記事は無い。

 この時世は1840年にアヘン戦争が始まり、我が国周辺に西欧諸国の艦船が次々と来航の緊迫した時代だった。

大筒は平井村の小高い山の中腹に向かって砲撃していたことから、太平洋戦争後にも、砲弾が多数見つかり、着弾した地元の古老は昔、農作業の合間に回収したと語っている。着弾地は山陽学園大学の正門北付近に集中して居る。

岡山藩が実射訓練したのはもちろん実戦に備えてのことだ。当時は旭川を遡上してきた場合を想定してのことで、西に向かっての砲撃を意識しているはずだ。そちらにも石垣があったはずだが、道路は何度も改修されていて確認はできない。

 尚、すぐ目の前には平成27年の三蟠軽便鉄道開通100周年記念事業の一環として鉄道のアバット跡と共に紹介する記念看板も三蟠鉄道研究会によって設置されている。

 

 一つ羅は霧の絶ゑ間に見え初めて平井の濱に落つる雁金

                    作者 岡山藩主池田綱政公

 岡山のお台場今や苔むすも当時の名残を残す石積み

 最新鋭の砲弾田畑着弾も地雷ではなく農夫拾ひし

 後の世に三蟠鉄道乗客は史跡眺めて列車の窓から合掌したり