写真作家、映像監督、その他得体の知れない(幅広い)活動をされている。
ぼくが初めてお目にかかったのは2007年頃、ふと寄った豊橋朝鮮学校に生徒さんと遊んでいる安さんの姿があった。関係者に聞くと、朝鮮学校をテーマに写真を取り出して半年以上たっている、と話す。先生・父兄・学生とも、近しい存在として全幅の信頼の下で写真を撮り続けていたのだ。
つぎに会ったのは、ぼくが2008年度の6.15記念集会を準備しながら、映像作家としてのアドバイスをお願いするために。当初「豊橋・統一マダン祭」を企画し、地元在日の生きざまを映像と語りに収録し、5.17の鉄道連結とその後の未来を予見させるものを制作する手はずであった。ある喫茶店で地域の先輩の紹介であった安監督は、ほぼトレードマークのような無精ひげのまま現れ、(趣旨を知っていたのか)一冊の写真集を出し参考にして下さい、と言った。タイトルは「分断の境界を崩すー二人の在日望郷歌」とあった。※この年から三千里鐡道の事務所に関わるようになり、最初の大仕事と気合は入っていたのだが、トラブルが重なり企画はとん挫した。営々と続けて来た6.15行事が2008年だけそっくり抜けた。
次の出会いは、確かその年の秋と記憶しているが、写真を撮り続けた豊橋の朝鮮学校を支援するために、韓国から俳優クオンへヨを呼んでチャリティーコンサートを!
翌日学校を訪れたクオンは幼稚園児を一人づつ抱き、何か話しては笑っていた。それを安監督は小さなカメラで撮り続けていた。このチャリティー企画の仕掛け人も安監督。
そんな経緯で東京にある監督の連絡事務所には、わがニュースレターを送り続けている。不在通知が無いので、多分届いているのでしょう。
最近彼の処女作長編ドキュメンタリー「オレの心は負けない」を観た。日本と韓国で自主上映され始めて久しい。たまたま東日本大震災時、原発のある女川で被災、支える会が宋神道さんを救出、記念写真に収まった底抜けに明るい笑顔が、西村さんから届いた。
ネット検索したら、安さんは今沖縄で仕事しているようだ。1961年生まれ。
続きー「二人の望郷歌」、「オレの心は負けない」は後日紹介!
ぼくが初めてお目にかかったのは2007年頃、ふと寄った豊橋朝鮮学校に生徒さんと遊んでいる安さんの姿があった。関係者に聞くと、朝鮮学校をテーマに写真を取り出して半年以上たっている、と話す。先生・父兄・学生とも、近しい存在として全幅の信頼の下で写真を撮り続けていたのだ。
つぎに会ったのは、ぼくが2008年度の6.15記念集会を準備しながら、映像作家としてのアドバイスをお願いするために。当初「豊橋・統一マダン祭」を企画し、地元在日の生きざまを映像と語りに収録し、5.17の鉄道連結とその後の未来を予見させるものを制作する手はずであった。ある喫茶店で地域の先輩の紹介であった安監督は、ほぼトレードマークのような無精ひげのまま現れ、(趣旨を知っていたのか)一冊の写真集を出し参考にして下さい、と言った。タイトルは「分断の境界を崩すー二人の在日望郷歌」とあった。※この年から三千里鐡道の事務所に関わるようになり、最初の大仕事と気合は入っていたのだが、トラブルが重なり企画はとん挫した。営々と続けて来た6.15行事が2008年だけそっくり抜けた。
次の出会いは、確かその年の秋と記憶しているが、写真を撮り続けた豊橋の朝鮮学校を支援するために、韓国から俳優クオンへヨを呼んでチャリティーコンサートを!
翌日学校を訪れたクオンは幼稚園児を一人づつ抱き、何か話しては笑っていた。それを安監督は小さなカメラで撮り続けていた。このチャリティー企画の仕掛け人も安監督。
そんな経緯で東京にある監督の連絡事務所には、わがニュースレターを送り続けている。不在通知が無いので、多分届いているのでしょう。
最近彼の処女作長編ドキュメンタリー「オレの心は負けない」を観た。日本と韓国で自主上映され始めて久しい。たまたま東日本大震災時、原発のある女川で被災、支える会が宋神道さんを救出、記念写真に収まった底抜けに明るい笑顔が、西村さんから届いた。
ネット検索したら、安さんは今沖縄で仕事しているようだ。1961年生まれ。
続きー「二人の望郷歌」、「オレの心は負けない」は後日紹介!