<桜満開の石巻>
月に一度を目標に細く長く、自分の出来ることを。
ボランティアを始めて何時の頃からかそう思い、仕事と家事の合間に続けています。
4月27日~28日、先月に引き続きKSVN・かながわボランティアネットワークの運営するボラバスに参加させていただきました。
今回は、仮設住宅での支援活動と言うことで、これまでに経験をしたことにない支援内容に、事前研修は受けたもののちょっぴり不安を持ちながらの参加です。
出発当日、仕事を終え(と言うか無理やり終了させ)、神奈川県民活動サポートセンターへ滑り込みで着く。
受付、ネームプレートの準備、機材の運び込みなどを済ませ、定刻より早く出発。
バスは、一路目的地の石巻をめざします。
車内では、スタッフさん(この方達ももちろんボランティア)から日程の確認。そして参加者の自己紹介。
遠くは千葉県松戸市や、足柄下郡山北町から参加された5人娘さん(間違い無く私よりかなり年上?)など、様々なところから そして、ガテン系活動班と違い年齢層にも幅がありますが、仮設支援と言うことで、女性が圧倒的に多い構成です。 偶然にも今日がお誕生日の62歳と40歳の二人の方へ、ハッピーバースデーを大合唱、バス車内はとっても和やかです。
出発後約2時間、佐野SA着。かなり遅めの夕飯ではありますが、この際カロリーには目をつぶります。
最近は、夜行での行き来にもすっかり慣れて、再びバスに乗り込むと即効睡魔が。
午前4時、目が覚めると、石巻市北部にある道の駅、上品の郷(じょうぼんのさと)でした。暫し仮眠続行。
午前7時半洗面、朝食を済ませバスは次の地へ。因みに上品の郷は入浴施設もあります。石巻を視察する政府のお偉いさんはここで休憩をしていくらしい。
石巻市内、ひより山公園麓、海岸線に近いところです。
この辺りは、震災当日津波が幾つも違う方向から襲来し、大きな渦が巻き甚大な被害が出た所だそうです。
ここで営業していた方が何も無くなってしまったこの場所に、この大きな看板を立てたことは、地元たけでなくマスコミにより全国に知らされました。
この場所に立たせていただき、犠牲になられた方へ黙とうをさせていただきました。
きょうの石巻は、天候も上々、山沿いに建つ仮設住宅の周りは桜が咲き、春らしい長閑な田園地帯です。
何処の被災地も仮設住宅は、かなり内陸部に入った所に立ち、市街地で生活をしていた方々にとっては、環境の激変は、新たはストレスを生んでいます。
仮設住宅によっては、様々な地区から被災者が集まっているため、もともとコミュニティーが無い。仮設住宅によっては集会所すら無いところもあるそうで。やっと自治会組織ができても、意思の疎通が上手く出来ず、運営上の問題が起きたり“繋がりを作る”ことの難しさを感じ、自治会をまとめる方の疲労感も溜まりつつあるとのことです。
私たちがおじゃました仮設住宅には、100畳ほどの広間と和室にキッチン・トイレの着いた集会所がありました。2か所の住宅に分かれ、オープンの時間までに手分けして荷物の搬入、セッティングを急ぎます。
これって、チャンバラごっこをしている訳ではないんです。 ボランティアの中にバルーンアートが出来る方がいて、急遽講習会を開いているところです。<作って判ったこと>長さの配分が難しい!私は何度作っても胴長のダックスちゃんになってしまいました。(>_<)
で、右が講師の作ったプードルちゃん。可愛い!
いよいよ「お茶っこサロン」開店時間。
「楽しみにしていたんでがす」 と言いながらおばあちゃん達が笑顔で入って来てくれました。
その一言に、緊張していた私たちの気持ちが一気にほぐされて~♪♪
きょうは、お茶っこしながら手芸を楽しんだり、若手の歌手さんの歌を聴いたり歌ったり、山北町のお母さん、あ、いや5人娘さんのスティック体操を楽しんでいただきます。
手芸は、スタッフさんのアイディアで用意された材料で、鯉のぼりの飾りづくり。
完成品を見せると、創作への意欲を見せてくださり、さっそく生地選びに。
みなさん、それぞれ創意工夫されて、リボンで吹き流しまで付けられ、なかなかの出来栄えです。
<鯉のぼり完成>
若手歌手さんとの歌を楽しむコーナーでは、自治会長さんの目にも光るものが。
そして参加された方々も、気持ち良さそうに歌われて♪
歌声に誘われて途中から参加されるかたも♪
午後からは、山北町の5人娘さんのスティック体操です。
スティック体操とは、介護支援に携わる山北町のみなさんが考案した体操です。今日、この日の為に持ち込まれた体操用の紙製のバトンは、地元の平均年齢85歳の方が丹精込めて作って下さったものだそうです。
私も、輪の中に入れて頂き体操に参加させて頂きました。
椅子に座ったまま無理なく身体をほぐして~
和やかに、歓声飛び交い~
時間はあっと言う間に過ぎ終わりの時間に。
「かながわさん、また来月も来るの?待ってっからね~」
みなさんそう言ってくださり、帰って行かれました。
バタバタと後片付け、原状復帰。
石巻に着いて12時間後、ボラバスは横浜へと戻ります。
今、被災地に入るボランティアの活動内容も多様化する中、果たしてそれが被災者の為に約に立っているのだろうかと疑問視することもしばしば耳にします。実際、地元の方から非難される様な団体さえあると聞きます。
今回の仮設住宅への支援は、そこに住む方々に楽しんで、ゆっくりして頂くことが最終目的ではなく、その様な時間を過ごして頂きながら、仮設住宅に暮らす住民同士の繋がりを作るお手伝いをさせていただく、と言う目的が、この1日、いやほんの数時間の活動ではありましたが自分なりに理解できました。
キャンセル待ち7番目、ラッキーにも繰り上げ採用で活動に参加させて頂き、貴重な体験をさせて頂きくことができました。スタッフのみなさんを初め、一緒に活動し、お世話になったボラ仲間のみなさんに心から感謝です。
また、来月 ボラバス乗れますように。
、
先日、かながわ東日本大震災ボランティアステーションの募集する災害支援活動に初めて参加しました。
この活動は、昨年の暮れにTwitterで知り合った方から情報をいただき知ったものです。
これまでの瓦礫撤去や床下の泥だし、掃除、引っ越しなどの作業が一段落し、
何れの地域でも、生活支援へと活動の内容が変わりつつあります。
事前研修で今回の作業は、漁業支援だとスタッフから告げられました。
私たちに漁業の手伝いが出来るのか?
果たしてそれが被災地の方々への支援になるのか?
素朴に疑問が浮かんだものの、兎に角参加して、体験してみようと思い当日を迎えました。
雨の中、県政センターの会議室には大勢の中に、同年代の参加者もかなりいてほっと安心。
私の参加したグループは、気仙沼行きのコース。
他には、石巻、そして山元町へと向かうグループが。山元町グループは、いちご農家への農業支援と
グループによって作業内容もさまざまの様です。
気仙沼市は、唐桑半島。
この写真は、猟師Sさんの自宅跡からの海の眺めです。
湾内には昨年7月に広島から支援を受けて設置された竹の筏が整然と並んでいます。
Sさんの番屋で詳しい説明を受け、さっそく活動開始。
私達の作業は、牡蠣の養殖に使う縄の準備。牡蠣の「耳釣り」の作業。
初めに縄の束から一定の縄を2人一組で切り、
その縄の両端に結び目を作り、
片方の結び目に、違う種類の縄を括りつけ、
着け終わったら撓まない様にきれいに輪にして端を結ぶ。
そうそう、後から思えばそれだけのことなのに・・・
結び方が幾ら聞いても理解できず、 その内、教える方も「あれ、なんか変だな?」
本当に、覚えの悪い私たち、かえってご苦労をお掛けしてしまい本当に恐縮で・・・
次は、一定の長さの所に太いテグスを結びつける作業。
「三日月の形のところに通して」
「どれどれ?どこに三日月があるの???」
「これじゃない?」
「違いますよこっちでしょ?」
もう理解して手が動くまでにどれだけ時間がかかったのか?
そして次は、「牡蠣の耳釣り」作業。
途中まで育った牡蠣は一旦離されて、
もう一度筏につながれます。
この繋ぎ方も、個数も、漁師によって皆違う。それぞれのこだわりがあるようで。
「手を掛ければ掛けただけ牡蠣はよく育ってくれるのしゃ」
そして、牡蠣がどれだけ育っているか、
実際に船で筏の所まで行って見せていただくことができました。
筏には、ずしりと思い縄が豊かな海に何本も着いていました。
船のクレーンで引き上げられた縄には、牡蠣の殻が花が咲いたようにびっりしと着いていました。
「これからもっと大きくなって、秋には食べてもらえるよ」
漁師Sさんの笑顔がとっても素敵でした。
やっと仕事を覚えた頃にはもう帰らなければなりません。
私たちボランティアを受け入れる為の下準備に相当労力を使ったことだろうに。
本当に申し訳ない気持ちでいっぱいの私たちに、
ずっとずっと手を振って見送って下さったSさんご一家やHさん。
「一日も早く生産活動を開始することこそが復興への近道なのっしゃ」
「家内作業で細々と進めるゆとりはない。時間は待ってくれない。
ボラっぺ(地元の方はボランティアをそう呼ぶそうで)さんが来てくれたおかげで捗った。」
そう言って頂きましたが、
本当の作業をするために、この活動を継続させていきたいと思いました。
かなボラのスタッフの方、
そして、現地でずっと活動している栄区の 通称ほっしゃん
いろいろな方の支えがあって初めて
自分たちの活動が成り立っている。
そのことに心から感謝です。
先日、宮城県石巻市へ行って参りました。
昨年定年退職し、翌月から一年近く被災地でボランティアをされているOさん。そして地元の方お二人の案内で、北上川の周辺を見せて頂きました。
きょうは、その中で、河口近くに立つ吉浜小学校の状況を少しご紹介したいと思います。
あの日、東北沿岸部に大きな被害をもたらした津波は、北上川にも溯上し、両岸の町を次々に襲って行きました。
吉浜小学校の校舎は鉄筋の三階建てです。 はじめ、津波は6メートルと予想されました。
けれども、実際の津波は、3階の天井まで達したそうです。
幸い、校内にいた児童と教職員は、屋上に避難し全員無事でした。
みるみる間に津波が階下から迫る中、屋上に出ようとしましたが、屋上出口は、
施錠され扉が開きません。鍵は水没した一階職員室に・・・。
若い事務職員がガラスを蹴破り屋上へと脱出に成功しました。
教室の黒板には、あの日の日付がそのまま残され・・・・。
窓枠がスッポリ抜け、天井もはがれ、
床には教材や教具の残骸、そして砂が分厚く積り、建物の中のように思えません。
音楽室にあったはずのピアノは流されて、
何処にも見当たりません。
ステンレス製の流しは、飴のように折れ曲がり、津波の威力が想像できます。
屋上に避難し難を逃れたものの、水が引くまでは身動きできません。
結局、雪が降りしきり凍てつく中を、救助を待ちながら屋上で一晩を過ごすことに。
職員の中でたまたま一人の方がライターを持ち合わせ、
そして、たまたま屋上に古い机の倉庫があったので、
、
ここで火を焚いて暖を取ることができたそうです。
久しぶりの投稿です。
立春を過ぎても春まだ遠く ですが、
厳しい状況の中
被災地では、少しずつ生活が戻り、
ささやかな仕事も始まっています。
仮設のお母さん達は、集会所にミシンを持ち込み、毎日毎日せっせと筏につける砂袋を作っています。
隣の集落では、エコタワシや帽子・手袋などが次々に作られ、ネット販売も開始されました。
モノづくりを通じてお母さん達に笑顔が出ると、漁師のお父さん達にも元気が戻りつつあると聞いています。
今、全国の家庭に眠る毛糸・編み棒・ミシン・生地などが被災地を支援する「ふんばろう東日本支援プロジェクト」などの団体によって集められ、それらの物資は、ワークショップや生産活動に使われています。
その中で、地元の方々に暖かく過ごしてもらおうと「あったかsmile projekuto」が立ち上がり、ネックウオーマーや帽子・手袋の募集もありました。
冬季に入り、自己完結で参加するボランティアは、今の自分にとっては難しい状況にあります。
そのような中、手作りの作業は、仕事の合間に自宅で出来ること。
短期間でしたが、同僚と二人でせっせと夜鍋仕事に励み、送り届けることができました。
そして先日、次なるお仕事の依頼が届きました。 嬉しいばかりです。
このお宅は、直せば住めるかもしれませんが、津波危険地域と言うことで再び住むことは叶いません。
家族の思い出の詰まったこの家を止むなく解体することになり…
間もなく壊されてしまうこの家に、家主の方の希望で地元の有志の手で花を咲かせたそうです。
Twitterで出会った方に紹介していただき、先日南三陸町へ支援物資を送りました。
中に入っている物は、南三陸町のお母さん達が手仕事に使う毛糸です。
この他にセーターや手袋、コートなどの防寒用品の箱が3つ。
これらは、職場やお稽古仲間と一緒に集めたものです。
今週向かうボラ仲間に荷物を託しました。
被災地は、間もなく厳しい冬を迎えます。
僕は、真鶴から来たマナティーです。
ノラの僕を写真館のおじさんの世話で、母さんの母さんが飼っていましたが、
二年前から浜猫になりました。
僕の本名は「サスケ」。でもこの家にもサスケって言うボスがいるので、
僕は、マナティー、ここのサスケはサティーになりました。
僕は、几帳面なので、皆の食べ残したご飯をきれいに片づけます、なので
僕はこの通りです。
最初はケンカばかりしていたけど、今はみんなと仲良し。
最近お昼寝はここ。二段抜かしに定位置あり。
一番高いところは、もちろんサティー。
母さんは、来週のボランティアの準備が忙しそうで、あまりかまってくれません。
仮説住宅に届けるストーブを探しているみたい。
きょうは、久しぶりにお刺身だって。僕、魚好きだけど
刺身しか駄目なんだよ。楽しみだにゃ~。
それにしても、あ・づ・い~!!
先日、一か月ぶりのボランティアに参加して来ました。
PC教室(コンサポート港南台)で教えていただいて最近twitterをよく活用し、様々な情報を得ます。ボランティア参加にも、twitterを通じて現地の方からもらえる情報がとても貴重です。 twitterから入る情報は本当に早く、他のマスメディアとの時差をしばしば感じます。この差は、早さだけではないようにも思います。
東松島市は、twitterで仙石線・石巻~矢本間が開通したと聞いていました。踏切に差し掛かると、折よく2両編成の列車が通過。地元の人間ではないのにただただ嬉しい。思わず列車に向かって子供のように手を振る人も。人々が帰り、街は確実に活気を取り戻してきています。
45号線からいつものように石巻市内に入り渡波(わたのは)地区を通過。家屋の周囲の瓦礫はずいぶん片付けられていましたが、窓もなく、ガランとした家が並び、もちろん人影もありません。この地区の人たちが家に戻れる日は一体何時になるのだろうか。
先月物資を運んだ牡鹿半島の侍浜を更に進み、今回は大原浜へ。ここも被害が甚大な所で、石巻の市街地に比べて復旧作業も遅れ、通れる道路が辛うじて確保されているのみ、家屋も手つかずの状態です。
物資も十分に届かないので、嗜好品などは皆無。「炭酸飲料が欲しい!」に応えて仲間と必死に買い集めた飲料を届けました。大原浜には船は辛うじて数隻あるが、地盤沈下で岸壁が下がってしまい使うことができないとのこと。漁師をされている区長さんが話してくれました。
今回も通行証を東松島市で発行(自治体により発行状況に差があり)してもらったので、作業はそちらで。
ボランティアセンターは、一か月ぶりの参加なのにスタッフさんが覚えていてくれた。運動公園の中は芝生の上にテントが張られ、ワンちゃんを連れて来ている人も。顔見知りとのんびり立ち話をしたり、さながらキャンプ場だ。トイレも気付いた人が掃除をして何時も清潔。センターテント内には、備品の他に皮手袋、長靴、雨具などの貸出品や経口補水液用の粉末やコーヒーなどが常時整えられ、ボランティアへの心使いを感じる。
さあ、昼食を食べたら作業開始。
国道45号線山側の側溝泥出しです。この辺は水は上がらなかったようですが、低い側溝にはかなり泥が入り込んでいます。土袋と人数分のスコップ、そして変な工具二本をマイクロバスに積み出発。先ほどの変な工具(名前不明)は、側溝の蓋を持ち上げる物と判明。「これ、上手に使えるようになると側溝専門になるっちゃ」と利府市から参加の青年。若い女の子の無駄のない動きを観察させてもらい、いざ作業。それでも要領を得るまでにしばし時間がかかる。解った頃には疲れて足腰が・・・。曇り空で気温はそれほど高くないが、30分に1回の休憩。配られた塩飴を頬張る。8人、いえ私を除く7人の機動力で、午後の作業は予定より早く終了。折角なので残った時間を使い市内を歩く。5月、6月の時と比べ街中は泥の汚れも無くなり、お店を開き始めたところも増えて。先月伺ったお寿司屋さんは、入口に資材が積まれ工事中の様だ。ご主人の握ったお寿司が食べたい。翌日は、雲ひとつない青空の下、7人のグループで庭の泥だし。3月11日、1メートル近く津波が押し寄せ、つい先日室内の泥だしが終わり、床の張替をしたばかりとのこと。もうこれ以上お願いできないからと、100坪からの広い庭をご夫婦でやろうとしていました。4か月が経過し、ヘドロはすっかり乾燥し、5~10センチほどの固層が庭一面を覆い、7人のボランティアが入っても、結局一日掛けても庭の半分ほどで時間がきてしまいました。リーダーが「継続しますから安心してください」と告げ作業を終わりました。台風が来る前に片付けが終わりますように。