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横田の里の常連さんが綴る里のネタ特集

信州更科蕎麦処 布屋太兵衛

2014年02月12日 | 冬ネタ

「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」という看板を掲げたのは、1789(寛政元)年のことである。この年は、天明の大飢饉(ききん)の失政で失脚した田沼意次に代わり、老中となった松平定信が江戸の三大改革の一つといわれた寛政の改革の最中であった。

 そば打ち上手で知られた信州更級出身の反物商・布屋太兵衛が上総国飯野藩(千葉県)の江戸麻布上屋敷に出入りしていたことで、3代藩主・保科兵部少輔の助言のもとに店を構え、出身地更級の更と保科家の科を組み合わせて「更科蕎麦」とした。

 「そばは必須アミノ酸を含むタンパク質を摂取できる食べ物で、飢饉の影響が残る時代にあっての開業だったのでしょう」と9代目の堀井良教(よしのり)さん(52)はいう。この頃「江戸患い(脚気)」がはやり、ビタミンB1の豊富なそばが一層もてはやされるようになった。江戸末期には、市中だけで「そば屋が4000軒もあった」そうである。

 1875(明治8)年の平民苗字必称義務令により、5代目から「堀井太兵衛」となる。

 1941(昭和16)年、戦争という時代の波もあっていったん廃業することになったが、戦後の49(昭和24)年に「布袋さん」と親しまれていた祖父の7代目松之助が「永坂更科 布屋太兵衛」を再建。その後、屋号の商標権をめぐる問題もあり、8代目となった父良造から布屋太兵衛直系である「堀井の名を再興したい」と相談されたのは、良教さんが大学3年の時である。

 84(昭和59)年12月に「総本家 更科堀井」として復興する。

 江戸城への出入りを許されていた「御前そば」の「更科そば」は、そばの実の芯の部分だけを挽いて打つ真っ白なそばで、ほんのりとした甘さと喉越しのよさが特長。

 代々「(そばを練る)木鉢とたんぽ(そば汁を仕上げる道具)を大事にしろ」と言われたという良教さんは、2年後に開催される「食」がテーマのミラノ万博でそば部門を担当する。

 「食は、はかない一瞬の文化。その日本文化を代表するのが、和食です」と、9代目として224年続く「更科蕎麦」を次代につなぐ重責を担う。
 (谷口和巳)

 ■たにぐち・かずみ 団塊世代の編集者。4つの出版社を転籍、19の雑誌に携わり、編集長として4誌を創刊。団塊世代向け月刊誌『ゴーギャン』元編集長。『女優森光子 大正・昭和・平成-八十八年激動の軌跡-』『帝国ホテルの流儀』(共に集英社)などの書籍も手掛ける。

 ◆総本家更科堀井 東京都港区元麻布3の11の4 (電)03・3403・3401