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からのメモ。。
──農業で稼いでいる農家はごく少数にすぎない。しかし、壁を突き破った「ファーマー」はいる。違いは何なのか。各地の「突破者たち」を訪ねた。いずれの現場も、叡智と情熱にあふれていた。──
農業を始めて3年目、2002年のことだった。訪ねてきた人から、ふいにこう言われた。
「まだ働き盛りですよね」
胸に刺さった。
松木一浩さん(47)は00年、東京・恵比寿の三ツ星レストラン「タイユヴァン・ロブション」(現ジョエル・ロブション)の総給仕長の座を捨て、富士山麓の静岡県芝川町で農業を始めた。
借地でつくった野菜のセット(野菜7~9種入り、2310円)をネット販売し、初めは週に1セットだったのが徐々に売れ始めた。一般的な作物のほかにフランス料理の食材となるズッキーニ、ロメーヌ、トレヴィス、ポロネギなどの西洋野菜も栽培し、珍しさもあって、都内のレストランが買ってくれるようになった。都会暮らしと人間関係に疲れて、世捨て人みたいだったのに、また忙しくなり始めた。
「このまま自給自足の延長でいいのか」
冒頭の一言で「ギアチェンジ」した。有機野菜の魅力や食べ方を伝えるレシピ本を出し、07年に、「ビオファームまつき」を株式会社にし、富士宮市内の店舗街で、イートインもできる有機野菜の惣菜店を構えた。週末、店先には東京や神奈川のナンバーを付けた車が列をつくる。
ネット販売していた野菜セットは、旬の野菜に合うレシピを添えたら、週に150セット売れるヒット商品になった。
点在する農地を次々に借り受け、いまや20カ所計30ヘクタールに達した。
■「7割はサービス業」
農林水産省の「農業経営統計調査」によれば、水田農家の9割が農業所得100万円未満。農家は農業で儲けていない。全国新規就農相談センターの調べでは、就農1~2年目で生計が成り立つのは約2割にすぎない。しかし、松木さんは農業で儲けた。違いは何か。
「私の意識としては、農業3割、7割はサービス業です」
そう言えるのは、レストランに17年間勤めた経験からかもしれない。
そんな松木さんに07年、一大チャンスが舞い込んだ。
10年以上も遊休農地だった畑近くの1000坪の土地が競売に出たのだ。即座に450万円で買い、この土地を、有機農業の「ファーミング・エンターテインメント」の拠点に生まれ変わらせようと考えた。いわば、「農業遊園地」だ。
■月20人の若者が殺到
しかし、施設を建てるには建設資金がかかる。山間地だから造成費も安くない。融資先を探そうと、農家仲間に聞くと、「農協系の金融機関は審査に1年ぐらいかかる」と言われた。地元の静岡銀行に「遊園地計画」を説明したら、7000万円の融資話が決まった。450万円で手に入れた土地が、7000万円の価値に変わった。
融資が決まった話を証券会社に勤める友人に話したら、
「ほんと? 石橋をたたいても渡らない手堅さで、地元からは『シブ銀』と言われる静銀が?」
と驚かれた。
静岡銀行の担当者は言う。
「ネット宅配や惣菜店の実績に加えて、一流の飲食店で培ったサービスマンとしての松木さんのホスピタリティーが掛け合わされば、ビジネスとして成り立つ。儲かる農業だと判断した」
昨年度の売り上げは4600万円。新事業が加わり、今年度は1億円を見込む。
「細切れで傾斜地が多い中山間地でもちゃんとビジネスになることを証明して、若い人が後に続くような農業モデルに変えていきたい」
1000坪の土地は開墾され、更地になった。秋には、フランスの美しい田舎に点在する農村レストラン「オーベルジュ」風の建屋が完成する。
従来の農業にはサービス精神が欠けていたのかもしれない。金融マンから転じた田中進さん(37)は、儲かる農業は人材と「集約化」だと感じていた。
田中さんが経営する株式会社「サラダボウル」(山梨県中央市)の従業員は、平均年齢25・7歳。農水省の08年の統計では農業従事者の平均年齢は65・2歳だから、別世界だ。
年間100人を超える若者が、田中さんのもとに集まる。大学の新卒者、カメラマン、アパレル経営者、製薬会社勤務など、ほとんどが農業の未経験者だ。今年3月以降は、例年の2倍近い月20人が田中さんのもとにやってきた。「仕事がなくなった」と言う人もいる。
■朝5時から勉強会
そもそも田中さんは、大手銀行の法人向け営業で億円単位の融資を手がけ、外資系生命保険会社からヘッドハンティングされたこともあり、30代で年収は7000万円あった。
だが突然、04年、名古屋から実家のある山梨に戻り、家賃4万円の家と60アールの農地を借り、トマトのハウス栽培をするところから始めた。平均年収400万円台と言われる農業の世界に飛び込んだのは、
「とてつもなく大きなビジネスチャンスだと感じたから」
だ。全国200軒の農家を訪ね歩き、独自に栽培ノウハウを習得した。作付け前には、「小ぶりのパプリカ赤・黄のセットで198円ならば、一度に使いきれて手ごろ」などと、店の棚に置かれる場面を想定した。店と直接契約した分だけつくれば無駄もないから利益率が上がる。
やっぱり、ニーズに対応するサービス精神、だ。
ただ、頭脳だけで農業はできない。農業の集約化にはまず、人の確保が必要だった。
そんな田中さんにとって、大きな転機になったのは、04年に会社を設立して間もなく、パートの募集をしたときのことだった。地方紙の求人欄に出した3行広告で、初日だけで60人の問い合わせがあった。
「こんなにもやりたい人がいる。農業ほど『人財』に恵まれた業界はない」
と確信した。
「人財」をどう生かすか。希望者が農業研修の受け入れ先を見つけられるように、05年にNPO法人「農業の学校」をつくった。サラダボウルを中心に、提携する全国の農業法人が研修生を受け入れる。朝の勉強会は5時に始まる。ノートをとり、生物の教科書を広げて知識を深める。化学記号も飛び交う。厳しさのため、就農を希望する年間100人のうち、農業に定着するのは10人ほどだという。
農業を「3K職場」から脱皮させたい。だから、社員には週に1度の休みと月に1度の連休を与え、月給15万円を保証する。「農業はカッコイイ」となれば、さらに人材は増える。
■4段棚に野菜17種類
人材を広く活用することで、田中さんの現在の耕作地面積は10ヘクタールに。売上高は1年目の8倍になった。
だが、話はそう簡単ではない。農水省の07年の調査では、新規就農者の56%が農地の確保に苦しんでいた。次いで多かったのが、資金の確保だ。
同様に金融出身の五唐秀昭さん(49)は、ワイシャツにネクタイ姿で取材を待っていた。
「ここは町工場みたいなもんですから」
大阪府岸和田市の株式会社「みらくるグリーン」がつくる野菜は、かつて鉄や縫製工場だった小さな倉庫でつくられている。遮蔽された部屋に4段の棚を設け、サラダミズナ、ルッコラ、グリーンマスタードなど小ぶりな野菜17種類を水耕栽培する。蛍光灯が「太陽」。はりめぐらせたパイプを通して流れる培養液が「土」。工場部分の広さはわずか21・5坪だが、収穫量は畑10アール分になる。
多品種小規模栽培の「ミニ植物工場」は珍しい。電機、自動車、精密機械の大手メーカー子会社などの見学が絶えない。
「売上高が30億~50億円規模の会社が訪ねてくるので驚いた」
03年、25年間勤めた信用金庫を退職した。合併を繰り返す金融界は不安定だと感じた。腕ひとつで稼ぎたいと思った。信金時代の人脈をたどって「植物工場」にたどり着いた。
しかし、困り果てたのが「資金の確保」だった。
設備などの初期投資が2000万円かかる。しかし、実績もない農業の新規事業に銀行は貸してくれない。農業系の公的金融でも、栽培するのが「農地」ではないことがネックだった。
そこで地場産業を支援する大阪産業振興機構を頼った。だが、ベンチャー向けの200万円はすぐ認められたものの、設備投資の800万円が認められるまでに1年かかった。農業の前例がなかったためだ。退職金でしのぎ、「見切り発車」した。
産業振興機構の審査を待つ間に、ホームセンターで買った材料で「工場」を手作り。温度や光の照射時間、培養液の調合を少しずつ変え、設定数値を毎日細かく記録した。
08年春、大阪の自然食レストランのオーナーシェフがもぎとった葉っぱを食べて言った。
「想像以上にパンチがきいてる。一回食べたら忘れられへん味や」
商売としてやっていけると確信した瞬間だった。
■青りんご味の葉っぱ
昨年5月から、幼葉をミックスするサラダ用の「ベビーリーフ」を出荷し始めた。業務用として、100グラム換算で700円。牛肉並みの高値だ。
理由は、食べてみてわかった。
親指ほどの小さな葉っぱなのに、ひと噛みでつんとくる辛さがしたり、青りんごみたいな味がしたり、キャベツの風味がひろがったり。「浪人時代」の試行錯誤で、肥料を限界まで減らす微妙なさじ加減を習得し、どこにもない味が生まれていた。
現在の売り上げは1カ月約50万円。栽培種類を集約化して生産性を上げれば、倍に増やせると五唐さんは考えている。
3人を見ればわかる。農業は甘くない。でも、確かな熱意と創意工夫、知識があれば、儲けることが不可能なわけじゃない。サービス精神、集約化、付加価値化を率先して先導してきた農業のパイオニア的存在は、木内博一さん(41)。千葉県香取市の和郷園グループで、年間約50億円を稼ぎ出す。そのうち本部だけで、野菜販売約20億円、加工が約11億円を占める。
「新規参入で、じゃがいも、にんじん、タマネギといった主要10品目で大規模展開できているところはほとんどない。いまでも農業は、ものすごい経験産業、そしてインフラ産業であることに変わりがないからです」
91軒の契約農家を抱え、主要10品目を含む43品目をつくっている。毎日食卓に並ぶあらゆる野菜を安定的に供給するための「普通の製造業」を目指す。
産地直送を始めたのは18年前。24歳で仲間5人とトラックに野菜を積み、横浜のスーパーや都内の八百屋へでかけた。いまのように産直ショップやネット直販がない時代だけに、鮮度のよさと珍しさも手伝い、大盛況だった。その後、大手生協、スーパーなどに取引先を広げ、5年目には野菜の売上高だけで5億円、10年で10億円を達成した。
ヒントになったのが、高級スーパーの仕入れ担当者のこんな一言だった。
「木内さん、最近のごぼうは風味がないね」
香りや鮮度が大事な野菜は、売り先と事前に契約して、掘って1週間以内にマーケットに出せば売れる。そう考えた。
生産品目が増えるのに伴って、契約農家が増え、集約化は進んだ。だが、課題はあった。作物の品質が農家ごとに微妙に違っていたのだ。
そこで、栽培管理を統一するマニュアルをつくった。質・量ともに要望を完璧にこなせるプロ集団をつくった。この10年間、契約農家を新たに増やさず、1軒ごとの質を高めた。91軒中42軒は、売上高が年率110%で成長し続けている。
■雇用力1500人
経営が軌道に乗り始めた木内さんも災難に巻き込まれた。96年、出荷した野菜から申告外の農薬が検出されたのだ。検査機関の誤認とわかるまで、生協との取引は1カ月間停止された。
1年間かけて契約農家と議論し、農薬の使用基準マニュアルをつくった。さらに、作物の生産から流通、販売までの経路(トレーサビリティー)が、10分以内に引き出せる仕組みも作り上げた。
木内さんはどうして、そこまで農業にのめりこみ、新たな可能性を際限なく見いだそうとするのか。こう理由を話した。
「本気でやれば、農業は、地域の人に継続的に仕事を供給できるんです」
和郷園は東京から車で1時間圏内にある。近くの下請け工場は不況期をくぐるうちに、次々と操業をやめていった。その度に、地域に根ざして暮らす人の職がぐらつき、転居していった。
和郷園はいま、グループ全体で1500人規模の雇用を生み出しているという。
編集部 古川雅子
(5月18日号)