皆様、おはようございます。
朝早くから、こんな私のお話を聞いてくださるなんて、申し訳ございません。
こんなに偉い人達の前で、話すなんてお恥かしいことなんですけど、聞いてください。
始めに、自己紹介させていただきます。
私は67才の大井俊子です。焼肉千山閣のママです。
私の3年前を知る人は、なんかママ変わったの!と、思ってくれるでしょう。
口の手術をしても、まだ空気がもれて、言葉が聞きづらいと思いますが、我慢して聞いてください。
つらいことが多くて「なんで私がこんな目にあわなければいけないのか」苦しみました。
私は、昭和20年終戦の年の5月に、中国の満州で6人姉妹の5女として生まれました。
生後3ヶ月の時、ロシアの最後の空襲にあって、左の耳が聞こえなくなりました。
そのため言葉が聞きとりにくく、小さい頃は、うまく話せませんでした。
小学校の入学も、ろうあ学校から入学通知がきました。
母が市役所に何度も頼んで、やっと鶴岡第3小学校に入学することが出来ました。
しかし入学してからも耳もよく聞こえず、言葉がうまく話せないため、いつも「アッタッター!アッタッター!つんぼ!」と、
いじめられ、泣きながら帰って来る私に母は「勉強で勝て!負けるな!勉強で勝て!」と言われ、
私は勉強はもちろんの事、スポーツもがんばりました。
貧乏な家庭に育ったため、お姉さん達は、誰も高校に入ることが出来ませんでした。
それでも私は「どうしても高校に入りたい!アルバイトするからお願い!」そして鶴岡北高等学校に入学しました。
好きなバレーボールと陸上の部活もやめました。
毎日、学校が終わるとすぐ、昭和通りにあった「キッチンナカムラ」に、夜の8時まで皿洗いで働き、
そのあとすぐに、川端通りにあった「都寿司」に深夜12じまでアルバイトしました。
雨の日もカッパを着て、重いおかもちを片手にぶら下げて、自転車に乗って、よく出前もしました。
1日に2ヵ所アルバイトをして、3年間やり通しました。
授業料、生活費なども自分で出して、卒業することが出来ました。
テスト勉強も朝4時に起きて、よく自分でもがんばったと思います。
高校を卒業して、羽田空港に就職することができました。
3年たった12月のことです。急に頭と耳が痛み、救急車を呼べば良かったのに、夜の汽車に乗って8時間かかって
鶴岡に帰ってきました。
荘内病院に行くと、すぐ裸にされ、背骨から太い注射器で水を取りました。その水がにごっていたのです。
脳膜炎寸前だったのです。
すぐ長ーい長ーい手術をしました。そして診断は「急性中耳炎」でした。
小学生の頃から、いつも左の耳から露がたれていました。
貧乏で医者に行けなかったので、毎日母のヒザに寝て、オキシフルで治療してもらっていたのです。
それが奥の方まで、長い間に悪化してたのです。
手術が終わってみた顔は、みにくい顔になっていました。
目と口と耳の神経の束を切られていまったのです。
左の目は開けっ放しで、左のみみの神経を切られ、左の顔が全部たれ下がって、口は曲がったままで、
あまりにもみにくい顔になってしまいました。その日から毎日毎日泣いていました。
笑うとギューと曲がるので、笑うことも出来ません。
食べたものがダラダラこぼれるから、恥ずかしくて人の前で食べることも出来ませんでした。
退院してから「日本航空」の会社には、辞表を出しました。
治療を続けるために、仕事は毎日注射ができる、荘内病院の売店に務めました。
忘れもしません、23才の5月に、荘内病院に来ていた、若いインターンの先生が、新潟大学病院に帰る前、売店に来て私に言いました。
「あなたのは神経がマヒしたんじゃなくて、神経が切れたんだから、いくら毎日注射してたって無駄だよ!」と言われて、
目の前が真っ暗になりました。
家に帰ってから私は、一生この顔なんていやだー!いやだー!と、自分の首を両手でギューっと絞めました。
そのまま目が見えなくなり、意識もなくなりました。
次の朝、「どうして死ぬなー!なんで死ぬなー!死んでダメー!」と、助けられた母に抱かれながら、ワーワー泣きました。
首の内出血の跡は、しばらく取れませんでした。
はれぼったい目をしたまま、仕事をつづけ、ある日新潟大学に行った若い先生から、電話がきたのです。
「あなたのことを博士に話したら、診てあげよう!と、言ってくれたから、明日すぐ新潟に来なさい!」
次の日ボストンバック一つ持って入院しました。
一回の手術、二回の手術、三回の手術を受けました。
5カ月間毎日注射したために、神経が腐ってしまっていたのです。
腐った神経を引っ張るとポッキンポッキン切れてしまい、間が14センチも空いてしまいました。
私は研究材料になったらしく、車イスに乗せられ、先生たちがいっぱいいる講堂に連れていかれました。
「身体のどこかのケンを取って、14センチ離れたところに結ぼう!それを足首のケンにしょう!」
「先生!そしたら足はどうなりますか?」 「それは、ちょっとビッコになるけど」
「それだったら私、曲がったままでいい!手術しないで鶴岡に帰るー!」と、言いました。
次の日、「首のケンを取ることにしたよ!」先生が言いました。
4回目の手術が終わって病室に帰ると、ベットに手と足も体もベルトで縛られ、痛い痛いの毎日でした。
退院の時に「左の目は失明するかもしれないけど、がんばるんだよ!」と言われ、3ヶ月で退院することが出来ました。
それからは毎月1回、新潟大学に行っては、麻酔もしないで、6センチの長い針を7本顔にさし、何人もの先生達がいる前で、
「ほら!目を閉じて!ほら!目を上げて!ほら!口を上げて!」ほらほら言われても、神経がないのに動くはずありません。
新潟から鶴岡に帰るときは、いつも顔中が青むらさき色になりました。
3年たったある日でした。自転車に乗りながら、口を動かしてみました。かすかに動くではありませんか。
急いで帰って母に「これー!見てー!動くー!これー!」
母と二人で抱きながら泣きました。「よかった!よかった!」
次の月にいつもどおりに、新潟大学に行き、いつもどおり先生達の前で、7本の針がをさされました。
「はい!もっと力入れて!」いつもどおり動きません。
「はい!今度は口だよ!がんばって思いっきり動かしてごらん!」
私は手をギューっと握り、口を動かしました。いきなり機械の針が、動き出したではありませんか。
「すごーいすごーい」と手を取って喜んでくれました。
「奇跡だー!14センチも離れているのに、すごい生命力だ!でも、あせってはダメだよ!
普通に動かせるまで、何十年もかかるんだからね!」と言われ、毎月の検査は行かなくてよくなりました。
「あなたのカルテは、一生大学に残ってるからね」と言われました。
それから私は努力しました。 首のケンがないから、左の手は上がりません。
プールを歩きながら、両手を上げるリハビリを自分で考えました。
1回、2回、3回もしたら、涙は出るし、脂汗は出る。苦しい苦しい訓練です。
そして左の口に筋肉をつけようと、車に乗った時は、ガムをかむことも考えました。
そのたびいつも口の中の肉をかんでは血だらけになりました。
こんな醜い顔だもの、結婚できないと思っていました。
でもお見合いして25才の時、結婚できたのです。
「東京で生活しないか? オレ将来、自分の店を出したいんだ!」その言葉にOKしました。
彼は三川の横山の人で、高校卒業してすぐ、新宿の千山閣に修行していたのです。
私が25才で、夫は27才で結婚生活が始まりました。二人の男の子と女の子が生まれました。
私の姉妹は嫁に行ってしまい、鶴岡では収入のない両親二人が、細々と暮らしていました。
私は夫に「おじいちゃんとおばあちゃんが、養老院さ入るって言ってるけど、私の親をみてくいねー!
私たちも鶴岡さ行って、お店を出さねー!」
「よし、そうしょうか!」と、夫は快く引き受けてくれました。
結婚して5年目で、鶴岡に帰ってきました。
5年間で400万貯めて、銀行から200万借りて、600万で、昭和50年、私が30才の時に、市役所の近くの、
赤いみゆき橋の近くに、千山閣をオープンすることが出来ました。
当時は夜中まで営業してる所が少なくて、昼から夜中2時まで営業していました。
有りがたいことに、お店は大繁盛でした。
ところが、駐車場がわりに使用していた川沿いが、駐車禁止区域になってしまいました。
これではダメだと思い、銀行から4000万借りて、昭和54年、私が34才の時、城南町にお店をオープンすることが出来たのです。
おかげさまで3年位は順調で、月に64万の返済ができたのですが、
オープンから4年後、鶴岡に2軒の「焼肉食べ放題」ができました。やはり売上が下がりました。
返済が大変になりました。銀行に返済を伸ばしてもらえるように頼みましたが、すぐに断られました。
仕入れの支払いも1カ月遅れになるし、従業員の給料は、3軒のサラ金から借りては支払い、苦しくなるばかりでした。
31才の時に新築したその家も売ろうとしました。
どうにか立て直したものの、今度は世界中の「狂牛病」のニュースで騒がれました。
日本では千葉県で死者も出ました。
全国の焼肉屋さんは、和牛をやめて輸入肉に変えていきました。売り上げが半分になりました。
一緒に働く長男は「お父さん!千山閣も輸入肉に変えよう!」と言っても、
「絶対オレは、輸入肉は使わね!」と、夫はガンコでした。待っても待ってもお客様は来ません。
そんな時、今でも焼肉屋をやってる人から、飲み屋さんに誘われました。
「マスター!オレさ千山閣やらせろ! マスターに給料払うからどげだ! 千山閣をオレさ売れ!
借金もオレが払うからどげだ! いい話だろ!」
私はいい話だと思いました。借金から離れられれば、どんなに楽になるでしょう。 住んでる家も売らなくても済むし。
それなのに夫は、はっきり断ったのです。
「オレは絶対売らね! どげ苦しってもオレの店だ! 売らね!」と断りました。
その後、どうしょうもならない時です。救いの手が差し伸べられたのです。
今まで1度も取引のなかった銀行の「梅津」さんと言う人が、千山閣に来てくれて
「ママ!千山閣の借金全部を貸してやるよ! 経営というものは、無理をしちゃダメだよ!無理をしないで返すもんだよ!
楽しみもなきゃダメだよ! 商いって、長ーくやることなんだよ!」その言葉は、神様のようでした。
「梅津」さんの力添えで、残りの借金と、サラ金全部のお金を、貸していただくことが出来ました。
月64万の返済だったのが、利息も減り、月々の返済が28万に減りました。
営業時間が昼から夜中2時までしてたけど、その時から、土・日・祝日以外の平日は、夕方4時から10時までの営業に変えました。
営業時間14時間やってたのが、6時間に減りました。営業時間が減っても、ムダを少し省く努力をしたので、利益は変わりませんでした。
そのおかげで返済もでき、仕入れも給料もスムーズに払えるようになりました。
ゴルフを楽しむ余裕もできました。
経営が上向きになると、不動産からも、2店舗目の話をいただけるようになりました。
でも、ガンコな夫も息子も迷うことなく断りました。
お店が今は順調でも、どん底の期間が長かったから、夢のような話にはのりませんでした。
それよりも、今のお店の中に目を向け、大切にすることを選びました。
話は変わりますが、アルバイトの話をさせていただきます。
30年も前には、高校の先生たちが、「うちの生徒が学校に来なくなって、千山閣で働かしてきれませんか?」
あるときは、「シンナー吸っていて、退学になった生徒だけど、千山閣で働かしてくれないかなぁ」と、訪ねてくることがありました。
何十人来たでしょう。
いざお店で働いてみると、トイレから出てこなくて、後から見に行くと、トイレのタンクに、シンナーの入った袋が、
プカプカ浮いているではありませんか。
別の子は、お店を無断欠勤で休んだので、私が迎えに行くと、玄関に靴が7つあり、「2回に上がりまーす!」と、
声をかけて戸を明けました。するとたまり場になっていて、洗面器にはゲーゲー吐いたのがいくつもあり、
4人が雪の中2階の窓から飛び降りて逃げました。
残った3人に名前と住所を書かせても、全部嘘っぱちという事もありました。
それでも1人1人、面倒をみました。
歩き方、身なり、大きい声を出すこと、人の目を見て話すこと、ウソをつかないこと、汗を流して鉄板も磨いてくれました。
1年、2年、3年と働き、社会に出ていきました。
千山閣から巣立って、いろいろな子がいました。自衛隊の幹部になった子、中学校の先生になった子もいます。
いいパパになってお正月やお盆に、奥さんや子供をつれて「ママと逢ってなかったら、オレやくざになってたやー!」と、合いに来てくれます。
その度に、「あぁー、私は幸せだー!何十人もの子たちが立派になって」と感じます。
こういう子もいます。3年間アルバイトした後、青森に行き、そして鶴岡に帰って来て自分で会社を作り、何年前か長者番付にのりました。
その子に合って「うれしいのー!すごいのー!」と伝えたら、
「ママがオレさ言った言葉を、苦しいとき思い出してたんだ!」 「私、なんて言ってたっけー!」
「オメは大丈夫だ!オメは大丈夫だ!と、何回も何回も言ってくれたっけー!だから、落ち込んだ時も、
オレ、大丈夫かも!と思って次々大きいこと出来たんだ!ママのおかげだ!」と、うれしいこと言ってくれました。
こんな事もありました。ズボンからパンツをベローと出して、髪を茶色に染めて、ピアスをぶら下げて、
その子が2年で素直になり社会に出て行ってからの事です。
ある日、東北でも大きい会社が、40人以上の宴会をしてくれました。その会社の社長さんが、お店に来てすぐ正坐をして手を畳につけ
「ありがとうございました!」と、私に頭を深々下げてくれました。
「どうしたの?社長!」
「オレの息子を更生してもらって、ありがとうございました!」 「エ!知らなかった!」
「ママのおかげだ!みんな聞いてくれ!このママから息子更生してもらったんだ!」と、握手してくれました。
今では、年に何度も宴会してくれます。みんな立派になって、今がとっても幸せです。
今、私がやってることは、うつ病で苦しんでいる方、12人とお話をする機会があります。
「ママー!」と電話が来ます。精一杯の声でかかってきます。
迎えに行くと暗い部屋のすみに座っています。気分転換に外出して、二人っきりになると、誰にも話せないことを全部はきだしてくれます。
4時間も5時間も、泣きながら話してくれます。それを泣きながら、ただ聞きます。 会う度によくなっていきます。
私は大学も出ていません。資格もありません。どうしてそんな余計なことをするのかと、思うかもしれませんが、
私の母が、一人住まいの人や、病気で悩んでいる人に、おやつを作って一緒に食べたりしていました。
貧乏だったのに、学校から帰るといつも「ワッハッハー、わっはっはー」と、いつも楽しくみんなが集まっていた家です。
私がそれを見て育ったからだと思います。
私の妹が3才の時、姉の自転車の後ろに乗って、倒れた時、運悪く石にぶつかって、
それっきり8年間寝たっきりの脳小児麻痺になりました。
でも母の明るさで乗り越え、困ってる人に手を差し伸べていました。
私は小さいときから、母親みたいな人になりたいと思っていました。
その気持ちが、今のわたしの行動につながっていると思います。
今、私が困っている人に手助けができるようになったのも、子供たち3人のおかげです。
おばあちゃんが先に亡くなり、おじいちゃんは93才でなくなりました。
お店の仕事をやっている長男は、夜中外に徘徊したり、夜中夢をみたのでしょうか?包丁を振り回すおじいちゃんを、
やさしく寝かせてくれました。
娘は当時、大型トラックに乗って、大阪まで米や肥料や材木を一人で運ぶ仕事をしていました。
私たちが店から帰る前に、オムツをいやがるおじいちゃんだったので、
下着を取り換えてくれ、洗濯して、干しておいてくれる、やさしい22才の娘でした。
下の息子が16才で、いつもおじいちゃんと一緒に留守番をしていて、お風呂に入れたり、話し相手をしてくれる、やさしい子でした。
3番目の16才の息子が、ある日店から帰ってきた私たちに「お父さんはどうしておじいちゃんを、やさしくしてやんねなやー!」と、
不満をぶつけた時がありました。
「おとうさん、やさしくしてやってるっちゃやー!おじいちゃんが垂れ流しでも、臭せー!臭せー!って言わねし、
釣りもよく連れて行ったし、なんでそんなこと言うなやー!」
「だってお母さんばっかり、おじいちゃんのことさせてー!」
「お父さんが一生懸命仕事してくいてっちゃやー!」 「生意気なー!」と、夫が16才の息子に向かっていきました。
身体の大きい息子からステーンと倒されてしまいました。
私は争ってる二人を見ていられず、外に飛び出しました。
帰ってきた長男が「お母さんは?」と、聞いたそうです。「二人取っ組み合いしてたら、外さ出て行った!」と話すと、
泣きながら歩いていた私を探し、抱っこして私を連れて行こうとしました。
「なにすんなー、おろしてー!もういいー!もういいー!もうどうなってもいいー!」私は息子の腕の中であばれました。
長男は「お母さんどうしてやー!なんでやー!お母さんせっかく今まで頑張ってきたなさー!これからいいくなんなさー!」
それでも玄関まで下しませんでした。
私は2階に上がって、布団の中で泣いていました。
下の息子が上がってきて「お母さんごめんなさーい!お母さんごめんなさーい!生意気なこと言ってごめんなさーい!」
それから部屋に降りて、みんなで今まで通り、力を合わせてやっていこう!と話し合いました。
次の日おじいちゃんをいつも通り抱っこして、プリンを口に入れてやると「俊子ありがとのー!」と、おじいちゃんの目に涙があふれていまし
た。 「どうしたなー!」と、私も涙があふれました。 「おじいちゃん店さ行ってくっからのー!」
2月12日祭日のことでした。夕方、下の息子からお店に電話で「お母さん!おじいちゃんの目、閉じていくー!」
ハッと思って、救急車を呼んで、おじいちゃんは救急車の中で、静かに目を閉じました。
「オレ、おじいちゃんが寂しいと思って、オレ布団から抱っこしてきたんだ!おじいちゃんと二人で、ソファーで笑ってテレビ見てたんだ!
オレ抱っこしなきゃよかったんだ!寝かしとけば、おじいちゃん死なねかったかもー!」と下の息子は泣き出しました。
「違うよ!おじいちゃん喜んでるよ!とおるありがとよ!って言ってるよ!
おばあちゃんがソロソロ天国さおいで!って言って呼んだんだよ!」
本当に3人ともやさしい子に育ちました。おじいちゃん、おばあちゃんのおかげです。
こんどは、息子の話を聞いてください。 東京新宿の千山閣で修行してきた息子も、和牛のA5ランクの肉を半身仕入れて、
バリバリ仕込みもできるようになりました。
「息子から食器洗い機を入れよう!」と言われると「もったいない!アルバイトの仕事なくなるー!」と反対するけど、
入れたら1人の人件費が浮くことがわかりました。
又、息子から「社会保険にしょう!」と言われたけど「今までどおりでいいじゃん!払っていかれんろかー!」と反対したけど、
社会保険にしたら、スタッフの意識が変わり、自分たちの店のようにすごく成長することがわかりました。
そして3年前に夫婦で相談して、社長を38才の息子にゆずり、世代交代をしました。
今度は「無煙ロースターにかえよう!」と、社長になった息子が言いました。
「今のままでもお客様が来てくれるんだものいいじゃん!」と私は反対しました。
しかし社長は「オレみんなが帰ってから、鉄板を何十枚も磨いてんな、わかってんなだー!それが終わってから、肉の仕込みしてんな
わかってんなだー!夜中までかかって、店さ寝泊りしてんなわかってんなだかー? 無煙ロースターしねあんだば、
オレはこの店やめる! のたれ死にしてもいい!オレは1からやって、自分で店出す!」と言って、ゆずらず3日間お店に来ませんでした。
私たちも反省しました。「店を息子にまかせたのに、自分のやりたいようにさせればいい!失敗したっていいじゃないか!」と考えました。
4日目に「オレたちは口を出さないから、自分のやりたいようにやっていいから」と謝りました。
お金に困った時に育った子だもの、無茶なことはしないだろう、信用しょう。いつまでも出しゃばらないようにしょう!と、
私たちは気が付きました。今年で店も37年になりました。
今度は私のことをお話します。少し前から左の目が、ボヤンとしてきました。
45年前に、左の目は失明するよ!の言葉が忘れられずにいたので、思い切って、荘内病院の形成外科に行きました。
先生に、目を閉じらしてください!とお願いしました。
22才から45年間、左の目は閉じたことがありません。寝ててもパッチリ開けっぱなしで、起きると乾燥して目が痛いです。
手術をしてくれました。少しはすきまがあるけど、45年ぶりに目を閉じて寝ることが出来ました。
先生が「どうして45年間も、うったえなかったんですか?」と聞きました。「私、それ以上のものもらったもの」
「何をもらったんですか?」 「痛みがわかったもの!」先生はしばらく声を出しませんでした。
「大井さん!口もなおしてあげましょう!」
死ぬまでこの顔のままだと思っていたのに、信じられませんでした。
「先生!私のカルテ、新潟大学病院に一生残ってるんだって!」
次の診察の時、先生は「大井さんのカルテが、大学病院にあったよ!大井さん!ぼくも頑張るから、大井さんもがんばろうね!」
それから4回手術をしました。今はみんなの前で食べても、こぼれなくなりました。
笑えば少し曲がるけど、これくらい平気です。「先生ありがとう!死ぬ前に自分の顔にもどれて幸せだー!
先生に合えてよかっった!」と言うと、先生が「大井さんよくがんばったね!」と言ってくれました。
荘内病院で手術が2回、新潟大学で4回、今の手術が4回、全部で10回の手術をしました。
形成外科の「工藤」先生に出会わなかったら、醜い顔のままでした。
普通にいられることが、こんなに幸せな事だと感じています。夢みたいです。
今度は最近の私の事をお話します。3年前に「大井さん、このパソコン使ったもんだけど、1万でゆずるよ!」と、
うどん市の「工藤」さんから譲っていただいた事がきっかけで、パソコンを初めて見ようと思いました。
それまで触ったこともありませんでした。
娘に言ったら「どうせやるんだったら、ちゃんと覚えた方がいいよ!エスモールのアスプで聞いたらいいよ!」と教えてくれました。
それから週に1回通い始めました。
ホームページや、ブログや、ハガキや、ポップやメニューや、いっぱい、いっぱい教えてもらいました。
フェイスブックもやって1年になります。
多くの若い方たちと出会い、多くの事を覚え、毎日が楽しいです。
これからも風評被害にあうかもしれません。
45年前は、私に今日のような幸せが来るとは、夢にも思いませんでした。
これからもすべての人に感謝することを忘れません。
そして一人でも多くの人に、勇気を与えていきたいと思います。
皆様、長い時間、ご清聴ありがとうございました。