ベランダに面したガラス戸の向こうに、いちょうの木が見える。
私の与太話にはいちょうがたびたび登場するが、身近に現実にあるからだ。
今住んでいる場所は、都会と呼ぶにはほど遠く、田舎と呼べるほどの緑も不便もなく、駅前だから騒々しくもある。
私の与太話にはいちょうがたびたび登場するが、身近に現実にあるからだ。
今住んでいる場所は、都会と呼ぶにはほど遠く、田舎と呼べるほどの緑も不便もなく、駅前だから騒々しくもある。
いちょうの向こうに視線を移せば沿線の高架があり、電車が行くのが見え、振動は茶飯事だ。
電車に乗れば車窓から見える自分の部屋を時々見る。
流れていく景色の一部のその小さな建物の一画の小さな部屋のガラス戸の向こうに、そこにはいないはずの自分の残像を感じることがたまにある。
そういうとき、日々の気配や息遣い、流れていく日常の所作の残り香とも言うべきものこそが、物質として与えられた肉体よりもずっと確かなのではないか、なんて考える。
さて、歯磨きしながら部屋の入口あたりからベランダの方へ目をやると、二枚のガラス戸一杯にひろがるいちょうの木が青々と風に揺れているのが見える。ベランダの方へ近づくと雑多なものが目に入るので、窓いっぱいに木が映るよう距離をとる。
そしてある一点に立つと、不思議と山の中にいるような錯覚が訪れる。なんせ窓いっぱいの緑だから。今ならもれなく『蝉の謳歌』フルサウンド付きだ。
そしてほんの一瞬のその錯覚が、大切なリフレッシュとなる。
部屋の空気がしんと清らかになり、時間や場所や常識や、自分を取り巻く、自分を自分として固定させ成立させていると思わせる様々なものから解放され、びゅーんと意識は空へ昇りもうひとつの視点が自分だけをフォーカスしている。
錯覚の中でそれを錯覚と知りながら、遠くからいちょうと自分だけが見えるその瞬間は、時間という概念を超え、永遠と呼ばれるもののほんの切れっ端に触れたような、風もないのに脹らんだレースのカーテンが肩に優しく触れるような、そんな曖昧な心地良さがある。
雨の降る日は湿った葉の匂いが、風の吹く日は少し寂しげな囁きが、晴れた日には晴れやかな朝の日差しが、錯覚の風景に色を添える。
なんだか「もしもピアノが弾けたなら」みたいだけど。
十分錯覚を楽しんだら、不確かな現実に戻って私の一日を始める。
自分が存在した香をこの空間に刻むために。
※ ※ ※
これは2012年7月29日に書いたものに加筆修正しました。当時とあまり変わっていない感覚が殆どですが、今ではびゅーんと意識が空に昇ることはなくなってしまった気がしますね。
電車に乗れば車窓から見える自分の部屋を時々見る。
流れていく景色の一部のその小さな建物の一画の小さな部屋のガラス戸の向こうに、そこにはいないはずの自分の残像を感じることがたまにある。
そういうとき、日々の気配や息遣い、流れていく日常の所作の残り香とも言うべきものこそが、物質として与えられた肉体よりもずっと確かなのではないか、なんて考える。
さて、歯磨きしながら部屋の入口あたりからベランダの方へ目をやると、二枚のガラス戸一杯にひろがるいちょうの木が青々と風に揺れているのが見える。ベランダの方へ近づくと雑多なものが目に入るので、窓いっぱいに木が映るよう距離をとる。
そしてある一点に立つと、不思議と山の中にいるような錯覚が訪れる。なんせ窓いっぱいの緑だから。今ならもれなく『蝉の謳歌』フルサウンド付きだ。
そしてほんの一瞬のその錯覚が、大切なリフレッシュとなる。
部屋の空気がしんと清らかになり、時間や場所や常識や、自分を取り巻く、自分を自分として固定させ成立させていると思わせる様々なものから解放され、びゅーんと意識は空へ昇りもうひとつの視点が自分だけをフォーカスしている。
錯覚の中でそれを錯覚と知りながら、遠くからいちょうと自分だけが見えるその瞬間は、時間という概念を超え、永遠と呼ばれるもののほんの切れっ端に触れたような、風もないのに脹らんだレースのカーテンが肩に優しく触れるような、そんな曖昧な心地良さがある。
雨の降る日は湿った葉の匂いが、風の吹く日は少し寂しげな囁きが、晴れた日には晴れやかな朝の日差しが、錯覚の風景に色を添える。
なんだか「もしもピアノが弾けたなら」みたいだけど。
十分錯覚を楽しんだら、不確かな現実に戻って私の一日を始める。
自分が存在した香をこの空間に刻むために。
※ ※ ※
これは2012年7月29日に書いたものに加筆修正しました。当時とあまり変わっていない感覚が殆どですが、今ではびゅーんと意識が空に昇ることはなくなってしまった気がしますね。