日本のコリアをゆく(百済寺跡・鬼室神社編3)
百済(ペクチェ)の復興をめざした軍の中で、
トップ2の豊璋と福信が内紛を起こした。
結局、
福信を殺した豊璋はすべての権力を自分のものにしたのだが、
軍事的な指導者を失った百済復興軍の痛手は大きかった。
そのことが如実に現れたのが、白村江の戦いだった。
日本の水軍が大敗

百済寺の跡地は公園になっている
豊璋の要請によって、
日本の朝廷はさらに2万7千の兵と船400隻を派遣し、
百済復興軍を援護した。
663年、白村江で新羅・唐の連合軍と百済・日本の連合軍が争った。
けれど、日本はまだ海戦に慣れておらず、船400隻も唐の船に比べると小さかった。
しかも、作戦の失敗があり、日本の水軍は大敗。
新羅・唐の連合軍の圧倒的な勝利となった。
豊璋はあっさりと逃亡。
百済復興軍も総崩れとなり、百済は完全に命脈を絶たれた。
豊璋は福信を殺すことによって、自らの命綱も断ち切ってしまったのである。
百済が完全に滅んだあと、多くの遺民が日本を頼って渡ってきた。
本国の百済では、
義慈(ウィジャ)王の直系の子孫は絶えてしまったが、
まだ日本には義慈王の息子である勇がいた。
豊璋が百済へ行ったとき、
勇が同行したのかどうかは定かではない。
同行して戻ってきたのか、あるいは、そのまま日本に住んでいたのか。
いずれにしても、664年の時点で勇は畿内に住んでいた。
こうして、百済王の直系の血は、日本に残された。
勇の曾孫の敬福は富を蓄積し、
東大寺を建立するときに黄金を寄贈して王朝から称賛された。
その功によって中宮と呼ばれる地域を拝領した。
それが、今の枚方(ひらかた)市に当たる。
750年頃、
敬福は朝廷の許しを得て、先祖を祀る寺として百済寺を建立した。
敬福は、この百済寺に歴代の百済王の位牌を丁重に祀って、
先祖の霊を慰め続けた。
百済寺は、
それから約400年間続いたのだが、いつのまにかつぶれてしまった。
風水にかなった地理

枚方市を流れる天野川
百済寺は、今はもう建物の礎石以外は何も残っていない。
その跡地に立ち、丘の上から枚方市の住宅地をながめた。
枚方市は戦前、砲弾の製造工場が多く、
日本の砲弾のほぼ半分を製造する軍需産業の町だったという。
戦後は交通の便が良いことから、
大阪と京都の間の住宅地として発展した。
歴史的な文化財も多いので、大人の遠足にちょうどいい町である。
私は、百済王神社の拝殿を見たあと、帰路についた。
よく見ると、京阪電車の線路に平行して天野川が流れていた。
川幅は狭いが川岸に道が整備されていて、ランニングをしてる人の姿も見える。
天野川にかかる橋の上から、百済寺の跡地の方向を望む。
地形のうえでは、丘があって、その前を川が通っている。
朝鮮半島の風水で言うと、
山を背にして前に川という「背山臨水」に当たり、
地理的に優れた場所ということになる。
それほど、天野川の存在が大きい。
近江の鬼室神社

ここが鬼室神社

この石祠の中に鬼室集斯の墓碑があるという
意外にも、豊璋に殺された福信も日本にその血を残している。
百済が完全に滅んだあと、
福信の息子の鬼室集斯は一族郎党と一緒に日本に逃れてきた。
王族の血筋だけに朝廷は鬼室集斯を優遇し、
かなりの位階を与えて学識頭に任じた。
この学識頭とは、今でいえば教育を司る役所の長官をさす。
本当に重要な役職を与えられるほど、
鬼室集斯は朝廷から大きな期待をかけられていた。
鬼室集斯はその職務を全うし、
晩年は近江の小野(この)に住んだ。
その頃、近辺には百済系の渡来人が多く住んでおり、
鬼室集斯は大きな尊敬を集めた。
そして、688年に没し、彼を慕う人々によって近江の地に埋葬された。
その墓が、今も鬼室神社として残っているという。
私は近江鉄道の日野駅で降り、タクシーに乗って、小野の鬼室神社をめざした。
若い運転手さんが
「小野のほうに行くには、いい道ができたので便利になりましたよ」と親しげに言った。
「前はかなり時間が掛かったんですか」
「そうなんですよ。道を迂回しながら、山のほうに入っていかなければならなかったですからね」
そんな話をしている間にトンネルをくぐった。
仮にこのトンネルがなかったら、かなり迂回せざるを得ないだろうと思えた。
トンネルを抜けると山並みが迫っていた。
その最後の平野部の真ん中に木々で囲まれた場所があり、
そこが鬼室神社だった。
古びた本殿の裏に石祠があった。
高さは1メートルほどで、石の扉の中に鬼室集斯の墓碑が納められているという。
扉を開けることはできず、
実際に墓碑を見ることはできなかった。
しかし、横の掲示板に墓碑の写真が載っている。
それを見るかぎりは、高さ70センチほどで、コケシのようにくびれがある形をしていた。
私は石祠に向かって合掌したあと、そのそばでしばらく休んだ。
枚方の百済寺跡から鬼室神社までは、距離にしてどのくらいだろうか。
百済の再興を期した鬼室福信と豊璋。
最後は仲間割れした2人だが、
その血を受け継ぐ者がそれぞれ日本で重職に就いていたとは……。
百済は亡国となったが、その魂は日本に残ったということだろうか。
(終わり)
文=康 熙奉(カン ヒボン)