パク・シフ贔屓ぱくのしふ道

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ロコレさんの記事より~シフちゃんの記事ではありません~~

2016-09-22 12:57:42 | 韓国について

絶対に知っておきたい「韓国人の本貫」

いわゆる韓国人の3大姓氏である金(キム)、李(イ)、朴(パク)は、

全国民の50%近くを占めている。

中でも金氏が21%以上で断然多い。

世界のどの国でも特定の姓氏が人口の20%を越えることがないだろうから、

韓国があまりに特殊だといえる。

一つの姓氏がそんなに多かったら、それぞれの家門をどう見分けるのか。

何を見て、その人が名家の出身だとわかるのだろうか

本貫は一族の結束を示す重要なキーワード。墓碑にもよく記されている

本貫は一族の結束を示す重要なキーワード。墓碑にもよく記されている

本貫はその姓氏が誕生した土地

実は、同じ姓氏といっても、みんな同じではない。

なぜなら、韓国人の姓氏には本貫(ポングァン)というものが隠されているからだ。

普通、韓国人は自分の姓氏を詳しく言うときにはこの本貫をつけて、

「私は○○金氏です「僕は○○李氏です」という。この○○に本貫が入るのだが、

これはその姓氏が誕生、または定着した地名のことだ。

つまり、同じ金氏といってもその一族の始祖が家門を立てた地域によって異なる。

金氏だけでも金海(キメ)、慶州(キョンジュ)、江陵(カンヌン)、光州(クァンジュ)、安東(アンドン)など数えきれないほどの本貫がある。

実務的な調査によると、

韓国人の姓氏は290あまりだが、本貫は4300余もあるという。

正確には、4300余の姓氏が存在するということと同じなのである。

また、同じ姓氏と本貫を持っていても、派が違う場合がある。

ここでいう派は、同じ本貫の中でも系統を分けるために付けるもので、

子孫たちが自分たちの先祖を誇るためにその爵位や官職を基に作るのである。

姓氏は血統の単位

朝鮮王朝の王家である全州(チョンジュ)李氏では、

518年間の統治時代に多くの王子が生まれたが、皆が王になったわけではない。

そこで、その王子たちの子孫が後に自分たちの先祖の爵位を元に派を作った。

今も全州李氏たちは同じ本貫の子孫が多いため、

本貫が一緒でもまずどの派なのかを尋ねる。

派が同じということは、その分だけ血縁関係が近いことを表しており、同じルーツをもった親戚同士になる。

以上のことを整理すると、

韓国人の出身は、姓氏と本貫と派の三つの条件で分けられる。

姓氏が同じでも本貫が違えば同族ではない。

必ず姓氏と本貫が一緒な人だけが同族であり、さらに派も同じだったら家族のように近い血族なのだ。

韓国ではこれらの条件は大変厳しく守られていて、

実際、2005年の法律の改正前までは、

同姓同本(同じ姓氏で同じ本貫)同士の男女は法的に結婚できなかった。

韓国ではなぜこのように複雑な姓氏を受け継いでいるのか。

それは、韓国人にとって姓氏は家族の単位ではなく血統の単位だからだ。

結婚しても女性の姓は変わらない

多くの国では姓氏は集団の名称であり、

外部から新しい人が入ってくれば、

それまでの姓氏を捨てて、新しく入る家族の姓氏に変える。

しかし、

韓国では父系を中心として続く血統の定義が姓氏であり、

結婚しても女性の姓氏は変わらない。

日本を初め多くの文化圏では、

結婚をすると女性の姓氏が夫の姓氏と同じになるが、

韓国ではまったく変わらない。

それは、

結婚したとしても、その女性の血統が変わるわけではないからだ。

つまり、

その人の血統を現すために複雑な姓氏制度を守っているのだ。

先祖を尊重し、家門を重んじ、

孝を最高の徳とする韓国人にとって、

血統というのは何よりも大切な価値を持っている。

それだけに、

韓国では今でも誰もが自分の本貫と派を知っており、

同じ姓氏に会うと本貫がどこなのか、派は何なのかを聞く。

それによって、

相手がどんな血統を持っているのか……

すなわち、どんな家柄の出身なのかがわかるのである。

文=「ロコレ」編集部


ロコレさんの歴史記事より~~シフちゃんの記事ではありません~~

2016-09-22 12:36:37 | 韓国について

康熙奉(カン・ヒボン)の「簡潔に読む!韓国の歴史7」

第7回/高句麗の滅亡(前編)

高句麗(コグリョ)は、百済(ペクチェ)や新羅(シルラ)と並ぶ古代の大国として知られている。

特に、伝統的に騎馬軍団が強く、

ドラマ『太王四神記』の主人公だった広開土大王(クァンゲトデワン)が

統治した時代(391~412年)には朝鮮半島の歴史の中で最大の領土を誇った。

それゆえに、今でも韓国で広開土大王は圧倒的な尊敬を受けてる。

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高句麗最後の英雄

広開土大王の全盛期から約200年後、

高句麗の名将として活躍したのが淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)だった。

彼はドラマ『淵蓋蘇文』で描かれたように、高句麗最後の英雄として有名だ。

生まれた年は定かではないが、幼い頃から勇敢で聡明だった。

淵蓋蘇文は、莫離支(マンニジ)という高句麗最高の官職についた祖父と父を持ち、

自身もわずか15歳で後を継いだ。

若くして権力を手に入れた淵蓋蘇文の名は広く知られていくが、

同時に彼に嫉妬して反発する者も増えていった。

そのため、用心深かった彼は常に5本の刀を身につけて万事に備えた。

631年、高句麗王である栄留王(ヨンニュワン)は、

大陸からの侵攻に備えて、西側の国境地帯に「千里の長城」と呼ばれる城の建築を始めた。

しかし、遅々として進まない工事に業を煮やした栄留王は、淵蓋蘇文を責任者として派遣した。

大役を与えられた淵蓋蘇文は、工事現場に直接出向き自ら陣頭指揮を取った。

すると、今までの遅れが嘘のように工事は順調に進んでいった。

王権を操った傑物

642年、淵蓋蘇文が工事のため都を離れている隙を狙って、

彼の強大な権力を恐れた者たちは栄留王をたぶらかし、クーデターを画策していった。

しかし、そうした謀略は権力者として宮中での根回しを終えていた淵蓋蘇文の耳にすぐに届いた。

彼は熟考の末に、要人たちを1カ所に集めて宴会を開いた。

その宴会が自分たちを亡き者にするためのものと知らない要人たちは、

なんの疑いもなく酒席を楽しんだ。

淵蓋蘇文は、油断しきった要人たちの前に姿を現して、一気に反対派の要人たちを一掃した。

さらに、自分を失脚させるためのクーデターに手を貸した栄留王を決して許さず、王宮に馬を走らせた。

そして、淵蓋蘇文は有無を言わさぬまま王を殺害し、

名実ともに高句麗の最高権力者になった。

しかし、淵蓋蘇文は自ら王位に就くことはせず栄留王の甥を玉座に座らせた。

その甥こそが高句麗最後の王であった28代目の宝蔵王(ポジャンワン)である。

宝蔵王は、王でありながら目立った功績を残せず、

淵蓋蘇文の名声の陰に埋もれていった。

それというのも淵蓋蘇文が自ら大莫離支(テマンニジ)という役職を作り、

実質的な王権を彼が握っていたからだ。

敵は新羅・唐の連合軍

高句麗は敵国であった百済と同盟を結び、

国力を増大させていった。そのことをもっとも恐れたのが新羅だ。

2つの敵国に囲まれるように位置する新羅は、

このままでは自国の滅亡が避けられないと思い、

高句麗の背後にある大国の唐に助力を求めるようになった。

こうして「高句麗・百済」対「新羅・唐」という対立構造が出来上がった。

唐の太宗は使者を送り、“新羅との和睦”を勧めたが、高句麗はそれを拒否した。

その結果、戦争は避けられないものとなった。

644年、唐は3回にわたって高句麗に大軍を送ったが、

そのすべてを淵蓋蘇文は撃退し、逃走する唐の軍勢を追撃して多大な被害を与えた。

勢いを得た高句麗は655年、

百済と連携して新羅に攻め入り、多くの城を手中に収めた。

淵蓋蘇文の統治のもとで優勢となった高句麗。

しかし、それは大国である唐を本気にさせてしまった。

660年、新羅・唐連合軍は「先百済、後高句麗」という攻撃方針を定め、最初に百済を猛然と攻めた。

百済も奮戦して敵を苦しめたが、最後には力尽きて滅びた。

同盟国の滅亡で孤立した高句麗。新羅・唐連合軍の激しい攻撃を受けたが、

淵蓋蘇文の圧倒的な指導力の下で善戦を続けた。

(後編に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)


 

康熙奉(カン・ヒボン)の「簡潔に読む!韓国の歴史8」

第8回/高句麗の滅亡(後編)

666年、高句麗(コグリョ)に衝撃が走った。

なんと、救国の英雄だった淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)が、

惜しまれながら息を引き取ったのである。

その瞬間が、高句麗の滅亡の始まりだった。

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一枚岩になれなかった高句麗

高句麗にとって致命傷だったのは、後継者が育っていなかったこと。

淵蓋蘇文の能力はあまりにも抜きんでていたが、

彼のおかした唯一の失敗は、後を継げる人材を見つけられなかったことであった。

偉大なる指導者を失った後の高句麗は、一枚岩になれなかった。

実際、淵蓋蘇文の息子たちの間で莫離支の座を巡る内紛が起こり、

戦意を失って亡命する者まで出始める始末だった。

多くの戦いを勝ち続けた高句麗だが、

それは英雄の下で一致団結した結果であり、まとまりを欠いた時点で国の行く末は決まっていた。

668年、新羅・唐連合軍の前に宝蔵王は降伏。

淵蓋蘇文が死んでわずか2年で高句麗は滅亡した。

共通の敵を倒した連合軍だが、

唐が高句麗や百済の領地を支配下に置こうとしたために、両者の仲は険悪になった。

その中で、新羅は高句麗や百済の遺民たちをうまく取り込んで力を強め、

なんとか唐を朝鮮半島から追い出して、朝鮮半島初の統一国家となった。

新たな英雄「大祚栄」

宝蔵王や淵蓋蘇文の息子たちは、その後は一体どうなったであろうか。

実は、唐に連行されて、形だけの役職を与えられた。

また、唐は高句麗の要人たちの中から従順な人物を選抜し、

その者たちを官職に就けた。

こうすることで唐は、高句麗を再興しようとする気概を奪ったのだ。

在位中も力をふるえず、

高句麗滅亡後に他国に囚われてそこで一生を終えた宝蔵王。

まさに悲劇の王と言える。

結局、高句麗が滅亡した後、多くの民は唐へ強制的に連れて行かれた。

しかし、旧高句麗の地に残された人たちは唐への抵抗運動を続けた。

このことに危機感を感じた唐は、旧高句麗の地に住む人たちをバラバラに地方へと移住させた。

その中には、高句麗の将軍だった大祚栄(テジョヨン)の姿もあった。

大祚栄は旧高句麗の民たちを率いてはるか東の地へと移動すると、698年にそこで新たな国を興した。

大祚栄自らが高王(コワン)と名乗ったその国が震(チン)である。

海東の盛国

大祚栄が初代王となった震は、建国当時から高句麗の後継国を自認していた。

それほど高句麗への愛情が深かったのである。

高王の出生には多くの伝説が残されている。

高王の母は彼を妊娠時に北斗七星が輝く夢を見たし、

出産のときには部屋から溢れんばかりの光が放たれたという。

それだけに、当時の領民から高王は、神秘の力に守られた人間だと思われた。

そんな高王は在位中に国力の増加に力を注ぎ、領土を拡大していった。

唐は、震の力が大きくなると和睦の道を選び、

高王に渤海(パレ)郡の王という職を進呈した。

それを好意的に受けた震は国の名前を渤海に変えて、

過去のわだかまりを捨てて、唐と友好的な関係を築いていった。

渤海は200年以上、「海東の盛国」と呼ばれるほどの繁栄を遂げた。

高句麗の魂はしっかりと渤海に受け継がれたのである。

文=康 熙奉(カン ヒボン)


へっぽこ的「ガンソクの栄光」#95

2016-09-22 07:00:02 | へっぽこレビューもどきガンソク

さてさて、有言実行ガンソク

ぬいぐるみgetなるか~

しばし見守っておくれやす~爆~

何回投げても当たらず~で

終いにはイチャモンでっせ~~爆~

ちょっと悲し気なお顔が~爆~~

よーけ着てまんな~爆~

真っ直ぐピーン右手人差し指萌ツボ~爆~

あはははは~~爆~~~可笑しい~~~爆~~~

へっぽこgif~

袖まくるのもキチンとまくる几帳面な

有言実行ガンソク

あはははは~~爆~~~

ダナはんの表情が心なしか遠慮なくて自然な感じやね~

あはははは~~爆~~~

舌がチロッと可愛い~~

へっぽこgif~

(何故か大きく出来ない ↑ のでやり方を変えて~↓ )

足長さん~~

うりゃっ

おりゃっ

ポーズは決まってまっせーーー

あはははは~~爆~~~

おおっ

ダナは~ん

ぽっか~~ん

あはははは~~爆~~~可笑しい~~~爆~~~

どやさどやさ

ダナはんどや顔

有言実行ガンソクとほほ顔

勝負あった~~爆~~

負けず嫌い有言実行ガンソク

敗れたり~~

ご苦労はん~~~爆~~

有言実行ガンソクの挑戦は

こーして あっさりと幕を閉じるのであった~~

爆~~

次回に続く~~


当SHR分室へっぽこ的「ガンソクの栄光」は

ガンソク贔屓で御座います~~

ドラマ「家門の栄光」はDVD「家門の栄光」等でお楽しみ下さいませ~~


もち子巨匠の正倉院蔵出し~~

2016-09-22 07:00:01 | hyororin分室

もち子社長の『王子』記事return~~

2012年12月29日HR掲載記事

暮れの元気なご挨拶~

 

みなさ~んsign01

今年最後の最後に、王子の歌が聞けて良かったですね~heart04

それでは発表しますsign03

本年度レコード大賞

最優秀新人賞はsign03

ちゃららら~ちゃらら~らnotenote

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おめでとうございますsign03

「最初から今まで」sign03ペ・ヨンジュンさんですsign03

というところで、、、

皆さん、今年もご訪問、本当にありがとうございました

来年も宜しくお願い致します

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どうぞ良いお年をーーsign03