アルカは無口だ。
こちらから聞かなければ、何も答えない。込み入った事を聞いても、何も答えない。いつも黙って店先に座り、黙って私を歓待し、背中でモノを語る控え目で芯のあるモスリムボーイだ。
西アフリカ、ニジェールのとある国境の村。数キロ先は隣国ナイジェリアだが、共にハウサ族である上外国人には国境が閉ざされているので、商人が行き交う以外はいたってのんびりしている。
サハラ砂漠の民、ツアレグもたまに見かけるが、ハウサ族が主体の平和な村だ。建物もハウサ式、言葉もハウサ語(外にツアレグやジャルマ語、ナイジェリアのヨルバ語やアラビア語などもあるが少数派)のみである。ハウサの人々は中国人と同じで、一度ハウサ語を挨拶だけでも使うと、ハウサ語以外(外国人に通じるフランス語等)は一切しゃべってくれない。ハウサ語の嵐で私は一日知恵熱が出て寝込んだが、おかげで早い段階でハウサ語に慣れる事ができた。
ここは完全なモスリム社会だ。一日5回の礼拝は集団で行い、町では女性はあまり見かけない。私はこの村で女性の友人は数人しかつくれなかったが、商店街の男性陣とはほぼ顔なじみになれた。彼らの礼拝の時間は空っぽになった店に座り、店番をするのが私の役目になっていた。
この村に着いて泊まる所を探していた時に、道を訊いたのがアルカだった。以後私は何度もアルカと口をきくことになるのだが、なかなか道を覚えられず、同じ格好をしているモスリム男性の人相の区別ができなかった為に、当初アルカにいつも初対面の挨拶をしていた。「すんなん」ハウサ語で名前を訊く度に「アルカ」と素直に答えてくれるアルカ。その都度気付いて、頭を掻いたものだ。
アルカは3秒で水を飲む。半リットルはあろう袋詰めの水をだ。西アフリカでは冷えた水をビニール袋で詰めた物(ハウサ語で、るお・せんにー)があちこちで売られているが、それを買う時、必ずアルカは私の為に、もうひとつ買ってくれた。「なーごーで(ありがとう)」お礼を言っても背中で答えるだけのアルカ。コップ3杯分はあろう大量の水をちびちび飲む私をヨソに、アルカは一瞬で飲み干して、ぺしゃんこになった袋を道の向こうに放り投げた。
路上の物売り姐ちゃんとしゃべっていると、いつの間にかアルカが姐ちゃんから食べ物を買っていて、私に〝食え〟と促す。「俺はもう食ったから」といってまた背中を向け店番をする。売り上げの増えた物売り姐ちゃんが「食いなよ」と場所をあけた。
こんな事が日常となり、数日が経った。
何かお返しをしよう。
私は自分の部屋でカバンをあさり、ヨソの国々から集めてきた物の中からアルカへのプレゼントになるものを選んだ。飾りもの。アクセサリー。腕輪。私の持っているものは大抵が女性用で、男性のアルカが喜びそうなものはない。もし彼が結婚していれば奥さんにあげられるのに・・・。そこまで考えたとき、アルカが結婚しているかどうか、全く知らない自分に気付いた。
アルカに奥さんや子供はいるのだろうか。
結局、外に目ぼしいものがなかったので、飾りものをアルカにプレゼントした。
アルカは軽くお礼を言うとモスリム服のポケットにしまい、また店番をはじめた。
奥さんがいるか訊いてみたが、アルカはどっちともとれる言い方をするし、商店街の親父連中も好き勝手な事を言うので(おそらく私の語学力不足であろう)、アルカが既婚かどうかにこだわるのはやめた。
ただ、いつもの無口な親切に対して、何かアルカが喜ぶようなお返しをしたかった。
そのアルカが一度、笑みを浮かべた。私の冗談につきあって笑うのは幾度か見たが、アルカが自身の胸のうちを語り、嬉しそうな顔を見せたのはその時が初めてだった。
「俺のヒーローはな・・・」アルカは語る。
「・・・リビアのカダフィと、イラクのサダムフセインと、オサマ・ビン・ラデンだ」大事な宝物を打ちあける子供の様に、アルカの目は純粋だった。
私はその手の話を聞くのは初めてではない。
この3人のヒーロー(?)が、世界中のモスリムに人気があるのは知っていた。理由はもちろん、〈アメリカ〉に盾つくからである。この3人のヒーローが正しいかどうかは、ここでは意味がない。モスリムの人々が口では鬼畜米兵(・・)(米英といいたいところだが、イギリスよりはアメリカの方が憎悪の的になっているように思う)を叫びながらも、コカコーラとディカプリオ(映画「タイタニック」は世界中どこでも人気だ)にどっぷり漬かっているのも事実なのだ。
ただ私は、滅多に自己主張をしないアルカが瞳をかがやかせて言ったその様子が、いつまでも忘れられなかった。
アルカの大事なもの・・・それは、イスラム教徒の持つ、モスリム魂だ。
モスリムの価値観が全てのこの世界で、自由にふるまい、覚えたてのモスリム用語を披露する、日本女性の私は、周りから見れば、さぞや特異な存在であろう。
今はアルカ達の目に友好的に映っても、いつ私の化けの皮――日本人の、仏教徒の常識――が剥がれるかわからない。私はただの訪問者であって、この地に永住すれば、きっと彼らの価値観を、ことごとく壊していってしまうだろう。
毎夕、アルカとアルカの仲間達に囲まれて店主の奥さんが作った料理を一緒に食べながら、私は、家にこもりひたすら料理を作る、その奥さんの生活に思いを馳せずにはいられなかった。
最後の日、私達は明るく別れた。
アルカが目元をサッとなでた様な気がしたが、私には特別な言葉をかけるだけの機転がきかなかった。アルカがくれた住所はアルカの両親の住むさらに小さな村で、そこに郵便屋が配達する可能性は、皆無に近い。
「せーわたらーな」・・・ハウサ語で、厳密には「一ヵ月後に会おう」という意味だが「いつかまた会おう」という意味にもなる。
「せーわたらーな、インシャーラー!」私はそういってバスの中から手を振った。アルカの姿が視界から消えていった。
そう、いつか必ず、私はこの村に帰ってくる。もっともっとイスラムについて勉強し、ハウサについて勉強し、彼らの価値観を壊さないままいろいろな技術を披露し、あるかの、この村の人たちの親切に報いたいと思っている。
――インシャーラー・・・。
・・・アラーのお導きのままに・・・。
[余録]
この村を出発して以後、私はサヘルの大地を抜けるのに十七日間を費やし、その間寝食を含めほとんどの時をトラックでの移動で過ごした。結果脳性マラリアにかかり、スーダンの首都カルツームでぐったりしているところを警察の手によって病院に運ばれ、一命をとりとめたのだった。賄賂をとり損ねたお巡りさん達が運んでくれたのは無料のチャリティー病院で、治療には一切料金がかからなかった。これこそみなさんのおかげ、イスラム教でいうところの〝まあしゃーらー(アラーのおかげ)〟という外はない。私が数日間だけだが「ラマダン(丁度、日中の断食をする月だった)」につきあったのは勿論である。
こちらから聞かなければ、何も答えない。込み入った事を聞いても、何も答えない。いつも黙って店先に座り、黙って私を歓待し、背中でモノを語る控え目で芯のあるモスリムボーイだ。
西アフリカ、ニジェールのとある国境の村。数キロ先は隣国ナイジェリアだが、共にハウサ族である上外国人には国境が閉ざされているので、商人が行き交う以外はいたってのんびりしている。
サハラ砂漠の民、ツアレグもたまに見かけるが、ハウサ族が主体の平和な村だ。建物もハウサ式、言葉もハウサ語(外にツアレグやジャルマ語、ナイジェリアのヨルバ語やアラビア語などもあるが少数派)のみである。ハウサの人々は中国人と同じで、一度ハウサ語を挨拶だけでも使うと、ハウサ語以外(外国人に通じるフランス語等)は一切しゃべってくれない。ハウサ語の嵐で私は一日知恵熱が出て寝込んだが、おかげで早い段階でハウサ語に慣れる事ができた。
ここは完全なモスリム社会だ。一日5回の礼拝は集団で行い、町では女性はあまり見かけない。私はこの村で女性の友人は数人しかつくれなかったが、商店街の男性陣とはほぼ顔なじみになれた。彼らの礼拝の時間は空っぽになった店に座り、店番をするのが私の役目になっていた。
この村に着いて泊まる所を探していた時に、道を訊いたのがアルカだった。以後私は何度もアルカと口をきくことになるのだが、なかなか道を覚えられず、同じ格好をしているモスリム男性の人相の区別ができなかった為に、当初アルカにいつも初対面の挨拶をしていた。「すんなん」ハウサ語で名前を訊く度に「アルカ」と素直に答えてくれるアルカ。その都度気付いて、頭を掻いたものだ。
アルカは3秒で水を飲む。半リットルはあろう袋詰めの水をだ。西アフリカでは冷えた水をビニール袋で詰めた物(ハウサ語で、るお・せんにー)があちこちで売られているが、それを買う時、必ずアルカは私の為に、もうひとつ買ってくれた。「なーごーで(ありがとう)」お礼を言っても背中で答えるだけのアルカ。コップ3杯分はあろう大量の水をちびちび飲む私をヨソに、アルカは一瞬で飲み干して、ぺしゃんこになった袋を道の向こうに放り投げた。
路上の物売り姐ちゃんとしゃべっていると、いつの間にかアルカが姐ちゃんから食べ物を買っていて、私に〝食え〟と促す。「俺はもう食ったから」といってまた背中を向け店番をする。売り上げの増えた物売り姐ちゃんが「食いなよ」と場所をあけた。
こんな事が日常となり、数日が経った。
何かお返しをしよう。
私は自分の部屋でカバンをあさり、ヨソの国々から集めてきた物の中からアルカへのプレゼントになるものを選んだ。飾りもの。アクセサリー。腕輪。私の持っているものは大抵が女性用で、男性のアルカが喜びそうなものはない。もし彼が結婚していれば奥さんにあげられるのに・・・。そこまで考えたとき、アルカが結婚しているかどうか、全く知らない自分に気付いた。
アルカに奥さんや子供はいるのだろうか。
結局、外に目ぼしいものがなかったので、飾りものをアルカにプレゼントした。
アルカは軽くお礼を言うとモスリム服のポケットにしまい、また店番をはじめた。
奥さんがいるか訊いてみたが、アルカはどっちともとれる言い方をするし、商店街の親父連中も好き勝手な事を言うので(おそらく私の語学力不足であろう)、アルカが既婚かどうかにこだわるのはやめた。
ただ、いつもの無口な親切に対して、何かアルカが喜ぶようなお返しをしたかった。
そのアルカが一度、笑みを浮かべた。私の冗談につきあって笑うのは幾度か見たが、アルカが自身の胸のうちを語り、嬉しそうな顔を見せたのはその時が初めてだった。
「俺のヒーローはな・・・」アルカは語る。
「・・・リビアのカダフィと、イラクのサダムフセインと、オサマ・ビン・ラデンだ」大事な宝物を打ちあける子供の様に、アルカの目は純粋だった。
私はその手の話を聞くのは初めてではない。
この3人のヒーロー(?)が、世界中のモスリムに人気があるのは知っていた。理由はもちろん、〈アメリカ〉に盾つくからである。この3人のヒーローが正しいかどうかは、ここでは意味がない。モスリムの人々が口では鬼畜米兵(・・)(米英といいたいところだが、イギリスよりはアメリカの方が憎悪の的になっているように思う)を叫びながらも、コカコーラとディカプリオ(映画「タイタニック」は世界中どこでも人気だ)にどっぷり漬かっているのも事実なのだ。
ただ私は、滅多に自己主張をしないアルカが瞳をかがやかせて言ったその様子が、いつまでも忘れられなかった。
アルカの大事なもの・・・それは、イスラム教徒の持つ、モスリム魂だ。
モスリムの価値観が全てのこの世界で、自由にふるまい、覚えたてのモスリム用語を披露する、日本女性の私は、周りから見れば、さぞや特異な存在であろう。
今はアルカ達の目に友好的に映っても、いつ私の化けの皮――日本人の、仏教徒の常識――が剥がれるかわからない。私はただの訪問者であって、この地に永住すれば、きっと彼らの価値観を、ことごとく壊していってしまうだろう。
毎夕、アルカとアルカの仲間達に囲まれて店主の奥さんが作った料理を一緒に食べながら、私は、家にこもりひたすら料理を作る、その奥さんの生活に思いを馳せずにはいられなかった。
最後の日、私達は明るく別れた。
アルカが目元をサッとなでた様な気がしたが、私には特別な言葉をかけるだけの機転がきかなかった。アルカがくれた住所はアルカの両親の住むさらに小さな村で、そこに郵便屋が配達する可能性は、皆無に近い。
「せーわたらーな」・・・ハウサ語で、厳密には「一ヵ月後に会おう」という意味だが「いつかまた会おう」という意味にもなる。
「せーわたらーな、インシャーラー!」私はそういってバスの中から手を振った。アルカの姿が視界から消えていった。
そう、いつか必ず、私はこの村に帰ってくる。もっともっとイスラムについて勉強し、ハウサについて勉強し、彼らの価値観を壊さないままいろいろな技術を披露し、あるかの、この村の人たちの親切に報いたいと思っている。
――インシャーラー・・・。
・・・アラーのお導きのままに・・・。
[余録]
この村を出発して以後、私はサヘルの大地を抜けるのに十七日間を費やし、その間寝食を含めほとんどの時をトラックでの移動で過ごした。結果脳性マラリアにかかり、スーダンの首都カルツームでぐったりしているところを警察の手によって病院に運ばれ、一命をとりとめたのだった。賄賂をとり損ねたお巡りさん達が運んでくれたのは無料のチャリティー病院で、治療には一切料金がかからなかった。これこそみなさんのおかげ、イスラム教でいうところの〝まあしゃーらー(アラーのおかげ)〟という外はない。私が数日間だけだが「ラマダン(丁度、日中の断食をする月だった)」につきあったのは勿論である。