バングラデシュは小さな国だ。大国印度に隠れ、あまり目立たない。目立たないから旅行者も少なく、よって非常に珍しがられる。
道を歩こうものならワッと見物人が押しよせ、百メートル歩くのに2時間かかる事もよくある(あちらこちらで捕まる為)。
日本への出稼ぎ帰りも多く(中国人の様にカネの為一心不乱に働くのでなく、十年以上かけてゆっくり貯めたカネを持って、故郷で起業する人が多い)、親日が多い。当然の如く、日本帰りは日本語がうまい。日本人がバングラデシュを旅すると、あちこちで地元の人に歓待され、この国のファンになってしまう。
そんな〝ベンガル人の国〟バングラ・デスに、日本人と同じ黄色い肌で平たい顔つきの少数民族がいる。チャクマだ。
もとは隣国ビルマのアラカン半島から来たという説のある、仏教徒の民だ。チャクマの人々はこのイスラム教徒の、ベンガル人の狭間で、いろいろな差別を受けながら暮らしている。ランガマティという山の町で知り合ったお坊さんの縁がもとで、首都ダッカでも、私はチャクマの仏教寺院にしばらくの間泊まっていた。
この寺院の門番には娘が二人いて、共に寺院に住んでいた。
じょし・きしゃ・ちゃくま、それが長女の名前だった。後でわかったのだが、全てのチャクマの人々は、名字が〝チャクマ〟になっている。名字でカーストがわかる印度と同じ様に。
妹の名前は、たぱし。真ん中の弟は、大学に通っていて、寺院には住んでいなかった。もう一人、寺院の守衛さんの娘、、みんぎが加わって三人娘はいつも行動を共にしていた。
私は、この三人娘とすぐに仲良くなった。
(一番左がじょし)
特に私より五才年下のじょしは、以前韓国料理レストラン(ダッカの高級地には、そんなものが幾つかある)に勤めていたとかで、私と話をする事が楽しい様だった。
じょしは、ともかく私の行動にびっくりしていた。私が何をしたかというと・・・
―自分達チャクマと同じ顔をしているのにベンガル人を怖がらない。
―用があれば、用がなくても、バンバン外に出る。
―少々の距離なら歩く。時間がないときはバスに乗る。リキシャやオートリキシャ(日本人がタクシーを使う感覚だろうか)を使うなど、まずない。
―ベンガル人を相手によくしゃべる。ベンガル語が下手クソでも気にしない。
―大声で笑う。
―当時の女性国家元首、チェカジノの物真似をする(もともと眼鏡をかけた私は、頭から布をかぶり細い目をより細めると、地元の人に爆笑される。似ているという事だろう)。
―印度の映画俳優、サルマン・カンの大ファンである、等々・・・。
じょしにとって、私との共通点はサルマン・カンのファンである、この一点だけだ。あとの事項は全て正反対である。じょしは、決して寺院の表を歩かない。
年頃のチャクマ娘は一歩外に出るとベンガル人に襲われる。悪い奴らはチャクマの娘、異教徒の女には何をしてもいいと思っている。
人の集まる所に行くのは自殺行為だ。じょしは毎日料理をしているのに、お寺のすぐ横にあるバザール(市場)まで大根一本買いに行く事はなかった。ここでは、買い物は父親の役目なのだ。
それならば護身術を覚えればよいではないか。私は寺院の屋上で(三人娘は誰からも覗かれる心配のないこの場所が好きで、日没前決まって屋上に登っていた)、まず体操ごっこを試みた。じょし、たぱし、みんぎは腕立て伏せも腹筋運動も、空手ごっこも経験がなかった。
「あみ・こるてぱりな(できないよ)」腹筋で上体を起こせなかったじょしは、護身用のホイッスルをぶら下げて遊ぶ私に、親しげなほほえみを見せた。
チャクマの童謡を聴いたことがある。
チャクマ語はベンガル語が東北訛りになった様な素朴な発音で、私にはよくわからなかったが、ベンガル語に訳してもらった歌詞を聞いて目が点になった。
♪・・・ある日道を歩いていると、向こうから素敵な男の人がやって来た。
――[略]――声をかけたいけれども・・・
恥ずかしくって声をかけられない、
ああ、かけられない・・・♪
そんな内容だった。
こんな可愛らしい歌詞が現実にまかり通るチャクマ社会。
そのチャクマ社会に転がり込み、彼らの敵である(内戦はしていないものの、チャクマの人たちは政府に対してよくデモ活動をしている)ベンガル人に「ボンドゥー(友達)」呼ばわりされる私は、さぞかし異様に映ったろう。
バングラデシュに対し愛国心を持たないチャクマの人々は、常に外国移住の機会を狙っている。それなのにこの日本人は何の不自由もない(と彼らは思っている)日本から、はるばるバングラデシュにやって来たのだ(正確には、隣国からの通り道なのだが)。そして、ベンガル陣と交流しているのだ。
じょし一家は、そんな私を胡散臭く思う事もなく、いつも温かく迎えてくれた。そして食事に招待したがった。
「今日は、誰の家で晩御飯を食べるの?」
「せんぱら(世話になっていた坊さんの家族が住んでいる所)?じゃあ、いつ、うちで御飯を食べてくれるの?」
「今日、私の弟(あまる・ちょっとばい)がうちに泊まるのよ。是非会って。」
ベンガル料理と違って、チャクマ料理は、強烈に塩辛い。どこの家庭でいただいても、塩味が強すぎて素材の味がしない程だ。それでも、彼らの気持ちがうれしくておいしくて、私はいつもおかわりを断れなかった。きっとバングラデシュ滞在中は血圧が上がっていただろう。余談だがチャクマの家庭で日中食事をした私は、日没時には道端でベンガル人の仲間達と共にファトル(日没後の断食明けの軽食)を摂るのが日課だった。おかげでラマダン期間というのに、私はすっかり太ってしまった。
これほど親切にしてくれるチャクマの人たち。この人たちに、一体、私は何ができるだろう。按摩とおしゃべり以外、私がじょし一家に何が残せるだろう。
いろいろ考えても時間が過ぎるだけで、結局大した事は何もできないまま、私はダッカを、バングラデシュを離れてしまった。
それから二年近く経ったであろうか、西アフリカにいた私は、一通のEメールを受け取った。
差出人の名字はチャクマだが、名前には覚えはない。が、内容を見て驚いた。
差出人はじょしの、弟の、同級生からだったのだ。しかし文面は、女子の弟の手に依って書かれていた。
―友人のメールから挨拶します。姉のじょしをはじめみんな元気です。みわこはいかがお過ごしですか・・・。
このことを伝える為に、じょしはあらゆる手段を試みたに違いない。日本人みわこと連絡をとりたいが住所もわからない、Eメールというものが何なのかもわからない、ただ大学に通っている弟からEメールとやらができる友人がいるという話を聞き、すかさず棚にしまった私のメモを取り出し、伝言を頼んだのだろう(これはあくまで私の憶測であるが)。
涙が出そうになった。
こんな私でも、じょしにとっては希望だったのだ。イチ日本人旅行者にすぎない私と連絡をとることが、外の世界に触れる事のないチャクマのイチ女性ができる、唯一の自己主張だったのだ。ホイッスルと腕立て伏せを武器に(?)国境を越える私に、じょしは何か夢を見ていたのかもしれない。
じょしに会いたくて、いてもたってもいられなかった。
それからさらに三年が経とうとしている。
じょしの弟、パリトンとは、今でも時折、「JuJu・・・」というチャクマの挨拶から始まる簡単なメールのやり取りを続けている。伝言はいつも頼んでいるが、じょしとは、直接コンタクトをとっていない。じょしと直接通じあうためには、そう、やはり会いに行くしかない。
次に会ったとき、もしかしたら、じょしは結婚しているかもしれない。もう、俳優サルマン・カンの取り合いをすることもないかもしれない。それでもいいや。
今度会うときはみっちりと、悪い奴を倒す技を教えてあげよう。
チャクマの女の子が、堂々と市場に買い物に行ける様に。
一人でネット屋(インターネット・カフェ)に行き、私と直接やり取りができる様に。
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