昼天の刻。その暑さに人の行き来も途絶えた峠の茶店に、薄汚れた衣に手甲脚絆、茶色く変色し所々に穴の開いた網代笠を目深に被り、首に幾つか珠の無くなった大きな数珠を掛けた大柄な坊様が、床几台を一人占拠して座っていた。他に客は無い。床几台には鐶が幾つか欠けた古びた錫杖を持たせかけている。
幾種類もの蝉の声が喧しい。
十四、五ほどの齢の店の娘が運んで来た湯呑を受け取ると、中に注がれている冷えた甘酒を美味そうに一口啜った。ふうと大きく一息つくと、陽炎の揺らめく砂利道に目を落としていた。
すると、目の前を行き過ぎる男の足元が見えた。坊様は笠の前を右手で押し上げ、行き過ぎる男の後ろ姿を見た。真新しい菅笠を被り風呂敷で包んだ行李を背に着物の裾を尻っぱしょりにした行商人だ。足取りの軽やかさから若い衆と見える。坊様はその姿を見ると眉を顰める。
「これ……」
坊様が声をかける。野太い声に行商の足が止まる。行商は振り返り坊様を見た。やはり若い男だった。そこそこに顔も整っている。坊様は行商に向かって手招きをしている。
「……はい、何でございましょう……?」厳つい坊様に呼ばれ、行商の若者はやや怯えている。「わたくしは女物の小間物を扱う者でございまして、お坊様の御用に立てるものは持ってはおりませんが……」
「まあ、ここへ座りなさい」
坊様は有無を言わせず、自分の隣の席をとんとんと叩く。行商は仕方なく隣に座る。坊様は店の奥に、甘酒を一杯持ってくるようにと言付ける。
「何でございます?」行商は警戒の色を濃くしている。「わたくしは、そちらの趣味はございません……」
「そちら……?」坊様は行商の言葉に怪訝な顔をする。しかし、すぐにその意味を察したようで、豪快に笑いだした。「はっはっは! 安心せぇ! わしは男色ではないぞ! まだ娘っ子の方が良いわさ!」
坊様は言うと、湯呑を運んできた娘の尻をぽんと叩いた。娘は小さく悲鳴を上げて奥へと走って行った。
「……さいですか……」行商はほっと息をつき、甘酒を啜る。「……これは御馳走様でございます。わたくし、弥吉と申します」
「ほう、弥吉さんかい……」坊様の顔から笑みが消え、真顔になる。「……お前さん、何か密かに持っているものがあるだろう?」
「え?」弥吉は驚く。「いえ、そのようなものは持ってはおりませんが……」
「そうかのぅ……」坊様は言うと、無精髭が伸び放題な顎をぽりぽりと掻く。「わしの見立てに間違いはないのだがのぅ…… じゃあ、大事に持ち歩いておるものがあるだろう?」
「大事に……」弥吉は考え込む。そして、何か思い当ったようで、己の膝を叩いた。「ああ、確かに持っております。筆絵なのでございますがね。……でも、どうしてお分かりで?」
「坊主と言うものは、色々と分かるものなのさ」
「左様でございますか……」
弥吉は言うと、足元に下ろしてあった行李を取り上げ、風呂敷を解いた。行李の蓋を開ける。色や形も様々な簪や櫛、読み本などが詰まっている。
「お前さんほどの色男なら、どこへ行っても商売繁盛だろうね」坊様が言う。「わしも今少し良い男であったなら、寺の一つにでも収まって、檀家のカミさんたちに良くしてもらえたのだろうがのう!」
坊様は言うと豪快に笑う。弥吉の返事に窮し、作り笑いを浮かべている。
「これでございますが……」
弥吉は笑い続ける坊様をよそに、油紙に包んであった、丁寧に二つ折りをした半紙を取り出した。坊様は受け取ると半紙を広げた。
墨で書かれた若い女の立ち姿の絵だった。素早く書かれたもののようではあったが、確かな筆遣いは、書かれた女を生き生きとしたものにしている。
からだは横を向いているが、顔をこちらに向けている。その視線は心の奥まで射抜きそうな印象があった。
「ある宿場で、特にわたくしを贔屓にしてくださったお店がございまして、そこのお嬢様が書いてくださったのでございます。『これはわたくしです。ずっとお持ちになってくだされませ』などとおっしゃられて」
「ほう、色男冥利じゃのう」
「お揶揄いなさいますな」弥吉は照れ笑いをする。しかしすぐに真顔になった。「……ですが、そこから三月ほどして伺いますと、お嬢様はお亡くなりになっておりました……」
「ほう……」
「元々おからだが弱かったとかで、わたくしが次の宿場へと立ってからすぐに様態が悪くなり、そのまま……」
「気の毒な事じゃな……」
坊様はじっと絵を見ている。心なしか、絵の女の目尻が吊り上ったように見えた。
「……あの、お坊様……」弥吉が声をかける。坊様は顔を上げる。「甘酒も頂きました。そろそろ行こうかと存じまして……」
「おお、左様か……」坊様は言うと、ぐいと身を乗り出した。「ちと話があるのじゃがの……」
「何でございましょう?」
「この絵はその亡くなった娘さんとの事。ならばな、わしが供養をしてやろうと思うての」
「供養とは?」
「この絵を近くの寺へ納めて、そこでしっかりと供養をしてもらうのさ」
「ですが、ずっと持ち歩いておりましたものですので……」
「何だい? 恋しいとでも言うのかい?」
「ええ、まあ、そんな気分でございまして…… あちこちの宿に泊まっては夜中に眺めておりますんで。そうするとあのお嬢様の面影が戻って参ります。近頃は夢に出て来る事も多くなって参りまして……」
「夢の中で逢瀬でも楽しんでおるのかね?」
「え? ええ、まぁ…… どうせ夢の中での事でございますから……」
「そいつはいけないねぇ……」夢見心地な顔をしている弥吉を見て、坊様は衣の袖口に手を突っ込んで、四つ折りにした半紙を取り出した。「代わりにこれをやろう」
弥吉は半紙を広げた。そこには何やら文字が書かれていて、それが人の形を成している。
「それはな、護符じゃよ」怪訝そうな顔を上げた弥吉に坊様が言う。「お前さんもこれで安心さ」
「……はぁ……」
「まあ、持って行きなさい。後の事は気にするでない」
「……かしこまりました……」弥吉は護符を油紙に包んで行李にしまうと風呂敷で包み直して背負い、立ち上がった。「では、一切をお任せいたます。随分とお達者で……」
弥吉は一礼して去って行った。
「やれやれ、亡くなった娘の思いが浅い内で良かったわい……」坊様は絵を見ながら呟く。「今ならまだ静かに参られよう……」
店の娘が湯呑を片付けようと、奥から出てきた。坊様は手にしている半紙をじっと見つめながらぶつぶつと何かを唱えている。娘はそっと坊様の背後から半紙を覗き込んだ。
書かれている女の姿の輪郭がゆっくりと滲んで行く。墨が薄れて行く。しばらくすると、墨はすっかり消え、真白い半紙になった。坊様の唱える声が止んだ。
「あらまあ……」
娘は思わず声を上げた。その声に坊様が振り返る。網代笠の前を上げて、娘を見た。叱られると思っているのか、娘は肩を竦めて下を向いている。
「おや、見てたのかい?」坊様の声は優しい。娘はほっとしたようで、頷いて見せた。「この絵にはな、書いた娘の思いが篭もりかけておったのさ。そのままにしておくと、さっきの若い衆は取り憑かれて死ぬところじゃった」
娘は青い顔をする。炎天下なのに冷たい汗が背を伝った。
「ははは、もう大丈夫じゃ。御仏の元へ参られたでのう……」
坊様は言うと立ち上がった。半紙を畳むと袂にしまい、錫杖を手に店を出た。
「あの、お坊様……」娘が声をかける。「お待ちを……」
「何だね?」坊様は振り返る。「お前さんも何か持っているのかい?」
「いえ、そうじゃなくって、甘酒のお代を…… 二人分……」
「わっはっは!」
坊様は爆笑し、懐から小銭の入った巾着を取り出した。
まだ蝉が喧しい。
幾種類もの蝉の声が喧しい。
十四、五ほどの齢の店の娘が運んで来た湯呑を受け取ると、中に注がれている冷えた甘酒を美味そうに一口啜った。ふうと大きく一息つくと、陽炎の揺らめく砂利道に目を落としていた。
すると、目の前を行き過ぎる男の足元が見えた。坊様は笠の前を右手で押し上げ、行き過ぎる男の後ろ姿を見た。真新しい菅笠を被り風呂敷で包んだ行李を背に着物の裾を尻っぱしょりにした行商人だ。足取りの軽やかさから若い衆と見える。坊様はその姿を見ると眉を顰める。
「これ……」
坊様が声をかける。野太い声に行商の足が止まる。行商は振り返り坊様を見た。やはり若い男だった。そこそこに顔も整っている。坊様は行商に向かって手招きをしている。
「……はい、何でございましょう……?」厳つい坊様に呼ばれ、行商の若者はやや怯えている。「わたくしは女物の小間物を扱う者でございまして、お坊様の御用に立てるものは持ってはおりませんが……」
「まあ、ここへ座りなさい」
坊様は有無を言わせず、自分の隣の席をとんとんと叩く。行商は仕方なく隣に座る。坊様は店の奥に、甘酒を一杯持ってくるようにと言付ける。
「何でございます?」行商は警戒の色を濃くしている。「わたくしは、そちらの趣味はございません……」
「そちら……?」坊様は行商の言葉に怪訝な顔をする。しかし、すぐにその意味を察したようで、豪快に笑いだした。「はっはっは! 安心せぇ! わしは男色ではないぞ! まだ娘っ子の方が良いわさ!」
坊様は言うと、湯呑を運んできた娘の尻をぽんと叩いた。娘は小さく悲鳴を上げて奥へと走って行った。
「……さいですか……」行商はほっと息をつき、甘酒を啜る。「……これは御馳走様でございます。わたくし、弥吉と申します」
「ほう、弥吉さんかい……」坊様の顔から笑みが消え、真顔になる。「……お前さん、何か密かに持っているものがあるだろう?」
「え?」弥吉は驚く。「いえ、そのようなものは持ってはおりませんが……」
「そうかのぅ……」坊様は言うと、無精髭が伸び放題な顎をぽりぽりと掻く。「わしの見立てに間違いはないのだがのぅ…… じゃあ、大事に持ち歩いておるものがあるだろう?」
「大事に……」弥吉は考え込む。そして、何か思い当ったようで、己の膝を叩いた。「ああ、確かに持っております。筆絵なのでございますがね。……でも、どうしてお分かりで?」
「坊主と言うものは、色々と分かるものなのさ」
「左様でございますか……」
弥吉は言うと、足元に下ろしてあった行李を取り上げ、風呂敷を解いた。行李の蓋を開ける。色や形も様々な簪や櫛、読み本などが詰まっている。
「お前さんほどの色男なら、どこへ行っても商売繁盛だろうね」坊様が言う。「わしも今少し良い男であったなら、寺の一つにでも収まって、檀家のカミさんたちに良くしてもらえたのだろうがのう!」
坊様は言うと豪快に笑う。弥吉の返事に窮し、作り笑いを浮かべている。
「これでございますが……」
弥吉は笑い続ける坊様をよそに、油紙に包んであった、丁寧に二つ折りをした半紙を取り出した。坊様は受け取ると半紙を広げた。
墨で書かれた若い女の立ち姿の絵だった。素早く書かれたもののようではあったが、確かな筆遣いは、書かれた女を生き生きとしたものにしている。
からだは横を向いているが、顔をこちらに向けている。その視線は心の奥まで射抜きそうな印象があった。
「ある宿場で、特にわたくしを贔屓にしてくださったお店がございまして、そこのお嬢様が書いてくださったのでございます。『これはわたくしです。ずっとお持ちになってくだされませ』などとおっしゃられて」
「ほう、色男冥利じゃのう」
「お揶揄いなさいますな」弥吉は照れ笑いをする。しかしすぐに真顔になった。「……ですが、そこから三月ほどして伺いますと、お嬢様はお亡くなりになっておりました……」
「ほう……」
「元々おからだが弱かったとかで、わたくしが次の宿場へと立ってからすぐに様態が悪くなり、そのまま……」
「気の毒な事じゃな……」
坊様はじっと絵を見ている。心なしか、絵の女の目尻が吊り上ったように見えた。
「……あの、お坊様……」弥吉が声をかける。坊様は顔を上げる。「甘酒も頂きました。そろそろ行こうかと存じまして……」
「おお、左様か……」坊様は言うと、ぐいと身を乗り出した。「ちと話があるのじゃがの……」
「何でございましょう?」
「この絵はその亡くなった娘さんとの事。ならばな、わしが供養をしてやろうと思うての」
「供養とは?」
「この絵を近くの寺へ納めて、そこでしっかりと供養をしてもらうのさ」
「ですが、ずっと持ち歩いておりましたものですので……」
「何だい? 恋しいとでも言うのかい?」
「ええ、まあ、そんな気分でございまして…… あちこちの宿に泊まっては夜中に眺めておりますんで。そうするとあのお嬢様の面影が戻って参ります。近頃は夢に出て来る事も多くなって参りまして……」
「夢の中で逢瀬でも楽しんでおるのかね?」
「え? ええ、まぁ…… どうせ夢の中での事でございますから……」
「そいつはいけないねぇ……」夢見心地な顔をしている弥吉を見て、坊様は衣の袖口に手を突っ込んで、四つ折りにした半紙を取り出した。「代わりにこれをやろう」
弥吉は半紙を広げた。そこには何やら文字が書かれていて、それが人の形を成している。
「それはな、護符じゃよ」怪訝そうな顔を上げた弥吉に坊様が言う。「お前さんもこれで安心さ」
「……はぁ……」
「まあ、持って行きなさい。後の事は気にするでない」
「……かしこまりました……」弥吉は護符を油紙に包んで行李にしまうと風呂敷で包み直して背負い、立ち上がった。「では、一切をお任せいたます。随分とお達者で……」
弥吉は一礼して去って行った。
「やれやれ、亡くなった娘の思いが浅い内で良かったわい……」坊様は絵を見ながら呟く。「今ならまだ静かに参られよう……」
店の娘が湯呑を片付けようと、奥から出てきた。坊様は手にしている半紙をじっと見つめながらぶつぶつと何かを唱えている。娘はそっと坊様の背後から半紙を覗き込んだ。
書かれている女の姿の輪郭がゆっくりと滲んで行く。墨が薄れて行く。しばらくすると、墨はすっかり消え、真白い半紙になった。坊様の唱える声が止んだ。
「あらまあ……」
娘は思わず声を上げた。その声に坊様が振り返る。網代笠の前を上げて、娘を見た。叱られると思っているのか、娘は肩を竦めて下を向いている。
「おや、見てたのかい?」坊様の声は優しい。娘はほっとしたようで、頷いて見せた。「この絵にはな、書いた娘の思いが篭もりかけておったのさ。そのままにしておくと、さっきの若い衆は取り憑かれて死ぬところじゃった」
娘は青い顔をする。炎天下なのに冷たい汗が背を伝った。
「ははは、もう大丈夫じゃ。御仏の元へ参られたでのう……」
坊様は言うと立ち上がった。半紙を畳むと袂にしまい、錫杖を手に店を出た。
「あの、お坊様……」娘が声をかける。「お待ちを……」
「何だね?」坊様は振り返る。「お前さんも何か持っているのかい?」
「いえ、そうじゃなくって、甘酒のお代を…… 二人分……」
「わっはっは!」
坊様は爆笑し、懐から小銭の入った巾着を取り出した。
まだ蝉が喧しい。
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