そんな三十五歳の夏の終わり、『第二回日本で泣いちゃう小説グランプリ』の結果が出た。運良く一次選考、最終選考と私の『川越デクレッシェンド』は通過し、見事グランプリを獲れたのだ。
地元の仲いい人間が整体に集まり、この日は最高の宴になった。ゴッホにも飲み会に来いと電話すると、「今、友達と飲んでいるから」とつれない事を言うので、「今日は特別な日なんだぞ!」と怒鳴りつけた。
ゴッホは渋々「分かったよ、行けばいいんだろ」と変わらずの傍若無人ぶりを発揮していた。
夜中の二時頃まで飲み、一旦私の整体まで戻ってくる。これからどうしようかと話し合っていると、行きつけのジャズバーから五十台の常連客である海野と日暮というオヤジ二人が出てきた。
私を見ると、「神威さん、聞いたよ。おめでとう」と近寄ってくる。
一つの結果を出せた私にとって最良の日。心の底から「ありがとうございます」と言えた。
「神威さん、お祝いだ。飲みに行こう」
海野というオヤジは、私が仲間と一緒にいるのに構わずタクシーを停め、手招きをしている。ゴッホや他の仲間が、「俺たちは今まで一緒に飲めたから、ゆっくり楽しんできたら」と気遣ってきた。
「ほら、神威さん。早く早く」
「みんなはどうするの?」
「俺たちはそろそろ帰って休むよ」
ゴッホたちが去ってしまったので、仕方なくオヤジ二人に挟まれる形でタクシーへ乗り込んだ。「お勧めの店があるんだよ、神威さん」とニヤける海野。着いた先は寿司屋だった。私は寿司屋でマグロの赤身しか食べられるものがない。しかし、ここまで来てしまったのだ。しょうがなく店へ入った。
「へいらっしゃい」
捻りハチマキを巻いたオヤジが威勢のいい返事で出迎えてくれる。私は海野と日暮のオヤジに挟まれ席へ腰掛けた。
「さあ、好きなもの頼んで、神威さん」
「私は貝類でももらおうかな」
一人マグロの赤身を黙々と食べる中、オヤジ二人は個々に好きなものを注文して楽しんでいた。
『川越デクレッシェンド』に出てくる人物で、共同経営のオーナー役の名前で『海野』というキャラクターがいる。偶然同じ名前だったというだけなのだが、酒が回り、いい感じに酔った海野はその事をしつこく「神威さんは私の名前を使った」と繰り返し、「印税入ったら、半分はもらわないと」とつまらない事を延々と言っていた。
日暮は黙々と高価なネタばかり食べている。
三時半を回った頃、海野が「マスターチェックして」と帰り支度をしだす。
「へい、全部で一万九千円になります」
すると、日暮は下をうつむき、「今日はちょっと持ち合わせが……」と物騒な事を小声でブツブツ言っている。あんな高価なものばかり食っておいて、何てオヤジなんだろう。
海野一人に出させるのは悪い気がして、私は「俺もちょっと出しますね」と、七千円をテーブルの上に置いた。
何故か海野はカバンの中をゴソゴソし出し、「あれ、おかしいなあ?」と言い出している。しばらくその様子を眺めていたが、「あれ、確か持ってきたつもりなのに……」と一向に金を出す素振りがない。
「お客さん、困りますよ」
マスターが不機嫌そうに言った。今日は私のめでたい日である。下手に寿司屋と揉めるのも嫌だったので、仕方なく私が全額払うハメになった。
「悪いね、神威さん。今度整体に持って行くから」
二人のオヤジはそう言っていたが、それから半年経っても『神威整体』に顔を出す事はなかった。五十を過ぎてのたかり行為。年を取ってもああはなりたくないものである。
グランプリを獲った『川越デクレッシェンド』の校正作業が始まり、整体と同時進行で続けるのが大変になっているこの頃。私は三十六歳になっていた。
そんな中、ゴッホから電話が掛かってくる。
「あのさ、神威。お願いがあるんだけど」
嫌な予感がした。ゴッホがこういう事を言う時は、ロクな事じゃない。
「とりあえず聞くだけは聞くよ、何だい?」
「前にほら、ひと回り下の女の話をしたろ?」
「ああ、それで?」
「今日、神威の整体が終わったらさ、一緒にその飲み屋へ行ってもらえないかなと思ってね。その女を実際に神威が見て、見定めてほしいんだよ」
「だってゴッホはうまくいってるって、自分で言ってたじゃん」
「まあ、そうだけどさ。だけど何を考えているのか分からないところがあるんだよ」
「で、俺に見極めろって?」
「まあ、そうだね。とりあえず仕事帰りにおまえの整体へ寄るよ」
そう言ってゴッホは、こちらの返事を待たず電話を切った。まったくこちらはまだ仕事中だというのに……。
小説の校正をしていると、ゴッホが扉を開け入ってきた。時計を見ると、まだ夜の九時である。私の整体は十時までやっているので、今来られても迷惑なのだ。
「おいおい、まだ俺は仕事中だよ」
「患者いないじゃん。早く店に行こうぜ」
「あのねー、明日の予約とかもあるし、まだ今日の患者のカルテだってまとめてないんだよ。それにこれから患者が来るかもしれないだろ」
「だって今いないじゃん」
「おまえさ……」
これ以上言ったところでゴッホには何も伝わらないだろう。それにこの男が来た時点で小説の校正など無理である。私は諦め、いつもより一時間早く整体を閉める事にした。
「わりーな」
こいつの「わりーな」ほど、気持ちの籠もってない台詞はないだろう。
「その女の店はどこよ?」
「この整体の通り沿いなんだよ。すぐ近く。歩いて一分ぐらいじゃない」
「そんな近くだったのかよ」
「ああそうだよ」
簡単に整理をしてから、整体の看板の電気を消す。店へ行く前に、ゴッホからその女の情報を色々聞いてみる事にした。
その女の名前は『武村菜々』。現在大学に通う二十一歳。出身は山形県で、盆と正月は絶対に地元へ帰るらしい。完全に飲み屋に染まっている訳ではなく、店に出るのは週に多くて二回。働く店の名前は『エルミー』。店での源氏名は『ゆな』。ゴッホ曰く、とても真面目で自分を持っている子だと言う。
そんな真面目な女が飲み屋で働くか?という素朴な疑問もあったが、つっこむのはやめておいた。
過去、二回ほどデートをした事があるらしい。一回目はデニーズで、二回目はしょうやでのデート。「何でもっとマシなところへ連れて行かないんだ?」と聞いたが、ゴッホに、そこを求めるのは気の毒のような気がした。
この女にゴッホは、三年間まとわりついている訳だ。
今回の目的は、彼と彼女をうまくくっつけようではなく、その『ゆな』という女が、どういうつもりでゴッホへ接しているかの見極めである。要はどうやってゴッホへ諦めさせるかという事だ。
整体の鍵を閉め、パブスナックである『エルミー』へ向かう。
ラーメン屋が一階にあるビルの三階に店はあった。店内へ入るとそこそこの賑わいで、ゴッホお気に入りの『ゆな』が笑顔で近づいてくる。
顔はゴッホ好みの童顔で、どちらかと言えば可愛い系。胸もそこそこ大きく、体型はポッチャリ。背は小さいほうで百五十前後だろう。このようなタイプを私は『豆タンク型』と呼んでいた。
「いらっしゃい、岡崎さん」
「おお、今日は友達も一緒に連れてきたよ」
ゆなが私のほうを見て挨拶をしてくる。
「いらっしゃいませ。このお店は初めてですか?」
「どのくらいだろう。よく飲みまわっている頃だから七年ぐらい前かな。一度来た事はあるよ」
「じゃあ、随分久しぶりなんですね」
「そうなるね。とりあえず席を用意してくれるかな?」
「あ、はい。すぐ用意しますね」
話し方はなかなかしっかりしている子だ。ゴッホの顔を見ると、かなり上機嫌でニヤニヤしている。
席へ腰掛けると、ゴッホは焼酎を私はウイスキーのボトルを頼んだ。
しかし席についたのは別の女の子で、ゆなは他に指名があるらしく一時間経ってもつかなかった。ゴッホは無性にイライラしている。
「落ち着きなって」
小声でゴッホに言うと、「ああ……」と短い返事をしながらタバコを吸う。
さり気なくゆなの行動をチェックしてみる。たくさんの客が座るカウンター席の一つに腰掛け、四十後半ぐらいの男の相手をしていた。
「ん?」
その時カウンターのテーブルの下で、ゆなと四十後半男が手を握り合っているのが見えた。隠れてそうしているつもりなのだろうが、私の位置からは丸見えである。
四十男は、「今度、土曜日な」と言うと、ゆなは軽く頷く。したたかな女だなと、この時私は感じた。ゴッホには言わず、自分の胸の内に収めておく。
一時間半ほどして、ようやくゆなが席へやってきた。ゴッホの表情が険しい。ヤキモチを焼いているのだろう。
「待たせちゃってごめんね、岡崎さん」
「あのさ、ひょっとして俺を避けてる?」
「え?」
「避けているでしょ?」
ゴッホは怒りをゆなにストレートにぶつけ出した。このままではいけないと思い、慌てて間に入る。
「おいおい、ゴッホ。駄目だよ、この程度で怒っちゃ。とりあえず落ち着けって」
「ん…、ああ……」
彼女のいない時にひと言忠告しておいたほうがいいなと感じた私は、ゆなに「ねえ、何か自分の飲むドリンク注文してきなよ」と席からどかせた。
「すみません、お客さんなのに、色々気を遣わせてしまって」
「いいよいいよ。気にしないで注文してきな」
ゆなが席から消えると、私はゴッホへ言った。
「おまえさ、いきなりクラッシュするような事言ってどうすんだよ?十歳以上も年上なんだからさ、もうちょっとデンと構えて、大人の魅力を醸しだしたほうがいいよ」
「まあ、そうなんだけどさ」
「今日はおまえのフォローに回ってやるから。とにかく落ち着けよ、な?」
「ああ、わりーな」
ゴッホはそう言って、グラスにある酒を一気に飲み干した。
ゆなが戻ると、私が場を盛り上げ楽しく飲むよう努めた。ゴッホの機嫌も次第に直り、愉快に酒を飲んでいる。
「今日の岡崎さん、何だかすごい嬉しそう。神威さんでしたっけ?岡崎さんとすごい仲いいんですね」
「そうでもないよ、な、ゴッホ」
「何だよ、オメーはまったく」
「神威さんって何か普通の人と違うオーラみたいなものありますよね?」
「え、そんな事ないよ」
「ああ、こいつさ、若い頃、リングの上にいて闘っていたからね」
「すごーい! だからなんだ。で、今はどうしているんですか?」
「多分、神威の事を聞くと、ゆな、ビックリするぜ」
「えー聞きたい聞きたい」
浮かれているゴッホだが、少し別の心配が出てきた。肝心のゆなが、私を気に入り始めているという点である。
「こいつはこの通りの角に整体あるだろ? あそこで先生やってんだよ」
「え、そうなんですか? すごーい」
「まったく白衣なんて似合わないもん着ちゃってよー」
「えー私、行ってみたいなあ~」
「今度ゴッホとおいでよ。そしたらサービスしてあげるから」
「本当ですか? じゃあ、岡崎さん、今度一緒に行こうよ」
「そうだな」
完全にゴッホは上機嫌になっている。
「あ、そうだ。今日お店、二時までなんですけど、終わったらちょっとだけ神威さんの整体に行ってもいいですか?」
突然、ゆなが言い出した。
「別にいいけど、ゴッホは明日、仕事でしょ?」
「ああ、でもゆながいいなら俺も構わないよ」
「やったー。じゃあ、お店終わったらって決まりね。私、ちょっとトイレ行ってきまーす」
ゆながいなくなると、ゴッホが話し掛けてくる。
「神威さ、今日はありがとうな。あんな感じで喜ぶゆなを初めて見たよ」
「あんな感じって?」
「いつもは店終わっても、会う事なんてなかったからさ」
「そうなんだ」
「まあ、ここ飲み終わったら、ゆなも来るから、神威先生頼みますよ」
「何が先生だよ? 気持ち悪いな」
「えへへ」
時計を見ると、あと三十分で二時になる。ゆなは一度席に戻ると、他の指名があるらしく別のテーブルへ行ってしまった。
「どうだ、ゆなは?」
「う~ん、いい子じゃないの」
「何だよ、そりゃ」
「まだ会ったばかりで少ししか話してないじゃん。急に見極めろって無理だって」
「まあ、そうだな」
時間になり請求された会計を見て、少し高いなと感じた。二人で四万三千円。スナックレベルでこの料金はかなり高いほうである。
ゴッホは、一万二千円しか持っていなかったので、結局私が、かなり多く出すハメになった。
パブスナック『エルミー』の仕事を終え、ゆなが外へ出てくる。ゴッホはいい感じで飲んでいたので、フラフラしていた。
私の整体へ到着すると、ゴッホは「もう限界だー」とベッドの上に横になり、すぐいびきを掻きながら寝てしまう。
「まったくしょうがねえ奴だ……」
ゴッホの寝顔を見ながら呟いた時だった。ゆなが顔を接近させて、いきなりキスをしてくる。
「おい、何をしてんだよ?」
「だって神威さん、タイプなんだもん」
「おまえさ、ゴッホに悪いと思わないのか?」
私はゴッホが起きないよう、小声で言った。ゆなは笑うだけで何も言わない。ゴッホとかまったく関係なく、普通に飲みに行ってこの展開なら喜んで抱くだろう。しかし、さすがにこのケースでは遠慮をしたい。
「ゴッホがおまえに、三年間ずっと想いを寄せているの分かるだろ? その気ないなら、あまり惑わすような台詞を言うなよ」
真剣に話しているのに、ゆなはニヤニヤしているだけだった。この女、かなり性格が曲がっているかもしれないな。
「神威さんって小説家でもあるんでしょ? 岡崎さんが言ってたよ」
「う~ん、どうなんだろうね。まだ、それで食えている訳じゃないし」
「でも、整体の先生もやって小説も賞獲って、素敵だと思うよ」
「どうだかね。三十五にもなって未だ結婚もしてないしね。それはゴッホも同じか」
「ねえ、今度私をどこかに連れてってよ。一緒に食事でもいいしさ」
「悪いけど、無理。ゴッホが可哀相だし、こういう展開で会った以上、ゆなとはそういう関係はないな」
「何だ、ちぇ……」
確かにこの女、男を惑わす魔性の何かを持ち合わせている。悪いが、ゴッホの手に負えないのだけは分かった。
「そろそろゴッホを起こすから、一緒に帰れ。タクシー呼ぶから」
「えー、もうちょっとお話しようよ」
「駄目だ。帰れ」
「何だー、もう」
明日私とゴッホは仕事なので、タクシーを呼んだ。ゆなは不服そうな顔でいる。ゴッホを叩き起こし、ゆなと一緒にタクシーへ詰め込む。私はそれを見送ると、そのまま整体のベッドで寝てしまった。
次の日の夕方、整体でカルテの整理をしていると、入口の扉が開く。患者かなと思い、入口を見ると、ゆなが立っていた。
「何だよ、どっか具合でも悪いの?」
「ううん、今日は先生の顔を見に来たの。もうちょっとでお店にも入るし」
「おまえな……」
昨日強引にキスをしてきたゆな。ゴッホの気持ちを知りながら、私にまでちょっかいを出す小悪魔だ。
「ちょっとだけ、患者今いないんだし、ちょっとだけいいでしょ?」
「俺が話すとしたら、ゴッホの件ぐらいしかないぞ」
「いいよ、神威さんと一緒にいられるなら」
「あのさ、本当にいい加減にしなって。ゴッホが哀れ過ぎるよ、これじゃ」
「だってあの人は、ああやって店に来て楽しむのが好きな訳だし」
「ゆな! あまり年上を小馬鹿にするのはやめろ。聞いてて気分が悪い」
真面目に怒っていた。ゴッホも何でこんな女を三年も追い続けているんだ。
「悪いけど、俺はおまえとどうにかなろうなんて、これっぽっちも思ってない。仕事の邪魔だ、帰ってくれ」
「神威さん、冷たいよ~。最初会った時はもっと優しかったのに」
「そんなの相手の状況にもよるよ。ゴッホとはこれでも中学時代からの友達なんだ。あまり人を見損なうな」
今にも泣き出しそうな表情でゆなは、整体から出て行った。少し可哀相に思ったが、しょうがない。彼女自身の行動が間違っているのだから。
あれからゴッホと連絡を取っていない状態のまま、一週間が過ぎた。私にゆなを見極めろと言ったゴッホ。正直、何て言えばいいのか分からないでいる。
患者の施術をしていると、店の電話が鳴る。出ると、ゆなからだった。
「先生、今どこ?」
「整体の電話で出ているんだから、店に決まってんだろ。何の用?」
「今日私ね、お店入っているからさ」
「で?」
「仕事終わったらお店に来ないかな~と思って」
「おまえさ、誰に営業電話掛けているの?」
「だって私、営業だけじゃないでしょ。この間だって整体に顔を出したじゃない」
この女は、あれがサービスの一環だとでも言いたいのだろうか? 私もゴッホ同様、いい客の一人として加えるつもりなのか。だとすれば、相当頭が悪い。声を聞いているだけで、イライラしてきた。
「おい、おまえみたいなハナクソ女がな。何を言っても通じねえぞ」
「酷い! ハナクソだなんて初めて言われた……」
「二度と俺に関わるな。俺もおまえの店など二度と行かないから」
「もういいよ!」
ゆなは逆切れで電話を切った。今までこんな事言われた事すらないのだろう。ハッキリいって男を舐め過ぎだ。悪い事をしたという意識はまるでなかった。
ゴッホから連絡があった。もちろんゆなの件である。
「神威さ、ゆなを見てどう思った? 見定めてほしいって言ってたじゃん」
「う~ん、ハッキリ言っていいのか?」
「ああ、ハッキリ言ってほしい」
私は頭を整理して、言うべき事と言ってはならない事を分けてみる。
「まずあの子は、相当したたかだという事。まだ二十一歳でしょ?」
「ああ、もうじき二十二だけどね」
「悪いけど、あの年でああだと話にならない」
「おい、そこまで言う必要あるのかよ?」
「だってゴッホが俺に見極めろって、いや見定めろって言ったんだぜ?」
「それはそうだけどさ……」
「ハッキリ言えとも言った」
「それは言ったけどさ……」
「まあいい、話を続けるぞ。まず店で見て感じた件だけどさ。あの子、そこそこ客から人気あるだろ? あれ、自分でそれを分かっていながら考えて行動しているぞ」
「そんなの仕事なんだから当たり前じゃねえか」
「あのなゴッホ…。おまえはあの子を真面目とか言ってるけど、それは大きな間違いだ」
「いや、真面目だよ」
ゆなをかばいたいゴッホの気持ちは痛いほど分かる。しかし彼に現実を教えてやりたかった。
「真面目な子は、飲み屋じゃ働かない。一線を引くってよく聞くだろ?」
「ああ」
「普通に生きている子が一線を引くと言うとさ、大まかに分けて二つのラインがあるんだよ。一つは飲み屋の女として働く時、もう一つは風俗に身を落とす時。言い方を代えれば、一線を引くというのは覚悟を決めるという事だ。それは分かるよな?」
「ああ、それはそうだろ」
「一線を引いたあと、その業界に流され楽に生きようとする女。そうじゃなく割り切って仕方なく働く女の二つに分かれると俺は思うんだ。もし、ゆなが後者のタイプなら俺はゴッホにここまで言わない。だけどあの子は違う。完全に生き方を勘違いしている」
「一度会っただけで、何でそこまで分かるんだよ?」
おまえが私の整体のベッドで寝ている時、キスをしてくるような女だからだと言ってやりたかった。さすがにこれを言うと、ゴッホのダメージは計り知れないだろう。いたずらに傷つけるのも嫌なので、この部分は隠しておく。
「あのさ、俺はゴッホより数倍、いや数十倍飲み屋に行って様々な女を見てきた。それは分かるだろ?」
「ああ、それは分かる」
「だからこそ、ハッキリ言わせてもらう。あの子はやめておけ」
「だから何でだよ?」
物分りの悪いゴッホ。
「言いたくなかったけど、おまえと『エルミー』へ行った時、ゆなが他の客の隣でカウンター席にいたろ。あの時、実はテーブルの下で手を握り合わせ、客が『土曜日な』って言い、ゆなが「うん」って言うのも聞いたんだよ。俺の言いたい事分かるだろ?」
「そんなのさ、あの子が人気あるぐらい分かってるよ。あの子だけじゃない。あの店の子、誰だって人気あるよ。だからあの店が持っているんだから。でもさ、ゆなと俺の距離は徐々に少しずつかもしれないけど、縮まってきてるんだよ!」
馬鹿につける薬はないと言うが、まさにゴッホを現すような言葉である。
「おまえの気持ちは分かるけどさ。あの子、俺の整体にも電話してきてさ、『今日、私、出勤してるから仕事終わったら来ない』とか営業電話してくるんだぞ?」
これだけ言えば、ゴッホも分かるだろうと思った。
「そんなのはあの子なりに、店に貢献しようと一生懸命なだけだよ」
馬鹿は死ななきゃ治らないと言うか、ゴッホの場合、死んでも治らないかもしれないな。
「いや、だからさ…。いいや、もうよそう。この話題はやめよう」
結局ゴッホ自身の問題なのである。楽しむも騙されるもすべて自己責任なのだ。なるようにしかならない。私はこれ以上関わらず、静観していればいいのである。
最近の私は焦っていた。何故かといえば小説の校正作業に追われ、肝心の整体に対する余裕がないのである。現在どちらが本業かといえば整体だ。しかし来年の頭に『川越デクレッシェンド』が全国の書店に並ぶ事を思うと、今校正をやらないでいつやるのだという焦りがある。
おかげで店を閉めたり開けたりとなり、患者も減りつつあった。以前ゴッホに『二頭を追う者、一頭も追えず』と言った事があるが、皮肉にもそう言った自分が現在そうなっている訳である。
ゴッホはあの電話のあとでも、『エルミー』へ通い詰めているらしい。まあ彼の人生だ。これ以上は何を言ってもしょうがないだろう。以前『ゴッホに彼女を作る会』や『CPL』をやっていた若き頃が懐かしく感じる。お互い年を取り、若いと言われない年代になりつつあるのだ。
何の勉強もせずセンスだけで小説を書いていた私は、校正という地味な作業が大嫌いだった。何度も苛立ち、校正原稿を放り投げ、その度知り合いや患者たちから「頑張って」と励まされた。
自分の為じゃない。応援してくれる人の為に我慢しよう。そう思いながら私は頑張った。
十一月終わりになってようやく三回目の校正が終わる。整体を経営してはいたが、頭の中は完全に小説モードになっていた。
出版社から来年の十日頃には本が発売できるとの連絡が来て、私は今までを振り返ってみる。
様々な事をやってきたが、根底にあったのは私にとってプロレスだった。あれを目指した自分がいたからこそ、色々頑張ってこられたのである。そう思うと、リングの上にまた立ちたいと自然に思えてきた。
本を出したあと、その作者がリングに立ち闘う。普通ならありえない話だろう。
そうなると、私はいても立ってもいられなくなり、格闘家の後輩に電話をしていた。
「あれ龍一さん、お久しぶりです。今日はどうしたんですか?」
「ブランク七年。三十六歳の俺がまたリングに立ちたいって言ったら、おまえ、どう思う?」
「本当っすか?」
「いけないか?」
「いえ、そんな事ないっすよ。俺、龍一さんがリングの上で戦う姿見たいっすもん」
「プロレスじゃない。総合格闘技の試合で俺が出れるところ、どこか顔を繋げるか?」
「本気っすね? 俺、知り合いに色々当たってみます。ちょっと時間もらえますか?」
「悪いな」
「何を言ってんですか、水臭い」
果たしてこんな私に、声など掛かるだろうか。二十九歳の時以来なのだ。ちょっとした気まぐれからサイを投げてしまった。あとは流れに身をゆだねるだけである。
後輩から翌日連絡があり、来年の一月半ばに私の復帰戦をどうだと返事があったらしい。私は誰が相手でも構わないと伝え、七年半ぶりの現役復帰戦が決定した。
試合までの準備期間は一ヶ月。過酷じゃないかという意見もあったが、インタネット上で私の情報を流すと、多くの人間が興味を示し応援をしてくれた。
ありがたいものである。あとは万全を期すだけと言いたいところだが、正直整体をこのまま続けるのが難しくなっていた。私はちょうど一年になるし、いい引き際だと感じ、『神威整体』を閉める決意をした。
ヤフーやスポーツナビなどのインターネット系大手マスコミも私の試合を記事にしてくれ、宣伝としてはこれ以上ない感じになっている。
しかし、今年いっぱいでこの整体の後片付けをしなければならない。バタバタと整体の後始末をしている内に年が明けた。
正月が過ぎ、試合の日が徐々に迫る。ちゃんとしたとレーニング時間のとれなかった私は、自然体で臨むしかない。リングに上がる以上、一切言い訳などできないのだ。嫌なら上がらなければいい。それだけの世界なのだ。
ネットを通じ、私はみんなに言った。
『試合に来てくれとは言わない。でも、来て応援してくれるなら私は嬉しい』
多くの知人が、応援に行くと励ましの電話やメールをくれた。言い表せない感謝をしつつ、私は精神状態を安定させる。
それからゴッホへ電話を掛けた。
「あの店は相変わらず行っているの?」
「ゆなの店? ああ、行ってるよ。前ほどは行ってないけどね。最近、ゆなも俺の事を彼氏だって言うようになったんだよ」
「彼氏? つき合ってんの?」
「ああ」
ゴッホの頭の中に、うじ虫でも湧いたんじゃないだろうか? 自分で何を言っているか理解しているのか不思議でしょうがない。
「キスぐらいしたの?」
「いや」
「セックスは?」
「まだだよ」
「……」
しばらく私は考え込んでしまった。
「それでゆなとゴッホはつき合っている訳?」
「ああ、奴もさ。そういうのって心の準備があるから、する時は自分から言うってこの間ちゃんと言ってくれたしね」
そんな事をあの女が言ったのか。だとすれば、その機会は永久に来ないだろう。
「じゃあ、去年のクリスマスとかは一緒にいたの?」
「それがさ、そういう約束していたんだけど、急遽山形の実家へ帰らなきゃいけない事になってね。でも、ちゃんとゆなのお袋さんから電話あって『岡崎君、ごめんなさいね』って言ってくれたんだよ」
そんなのゆなの母親じゃなく、用意した替え玉に決まってるじゃねえか……。
「そ、そうなんだ……」
「それに俺のお袋にも、大事な子ができたって話をしているしね」
「え、ゴリママに言っちゃった?」
何て馬鹿な真似を……。
「ああ、ちゃんとこの間、ゆなの事を話した」
「そ、そっか……」
「ところで電話してきたのって、何か用?」
そうだ。肝心な事を伝えるのを忘れていた。
「あ、そうそう、俺の現役復帰戦が決まったぞ!」
「はあ? 何それ?」
「おまえな~…。俺の総合格闘技の復帰戦が七年半ぶりに決まったんだよ」
「へえ、そうなんだ」
「何でおまえ、そんなテンション低いの?」
「いや、別に……」
「いいか、試合は一月十四日。祭日の月曜日だ。ゴッホ、おまえは絶対に会場まで応援に来いよな」
誰一人、応援に来いと言った事はなかったが、ゴッホだけは別である。今まで散々世話を焼いてきたという自負があった。だからどうしても『来い』という言い方になってしまうのだ。
「いや、その日は仕事だからいけないよ」
「おまえさ…、前もって言っているんだから、何とか休みとれないの?」
「ああ、無理だね」
何て魂のない男だろうか。友情のひと欠片さえ、ゴッホは持ち合わせていないのだろうか? 正直、話をしているのも阿呆らしくなってきた。
「じゃあ、いいよ……」
電話を切り、ゴッホと中学時代からの関係は一体何だったのかを考えてみた。
友達……。
腐れ縁……。
どれもこれも違うような気がする。
思えば私がプロレスの合宿前日、祝賀会をやった時も「眠いから」と来ない男なのだ。ゴッホにとって私は都合のいい人間なのだろう。内心、彼に対し呆れている自分がいた。
ただ中学の時一緒だった同級生という表現が、一番合っているかもしれないな……。