形之医学・しんそう療方 小石川院長 エッセー

昭和の頃、自然と野遊び、健康と医療のことなど。

万年筆売り

2011-05-17 18:20:56 | 昭和の頃

幼稚園の頃からずっと、蒲田の隣り駅、目蒲線、矢口の渡に
住んでいた。 目蒲線は、大田区蒲田と目黒を結ぶ東急の電車で、
現在は目黒線と多摩川線に分割され、その名前は消えている。

矢口の渡では毎週土曜日に、駅近くの商店街沿いに夜店が出た。 
それは子どもたちの、土曜日の大きな楽しみの一つだった。

そこに時折、万年筆売りが来た。 香具師(やし)である。
香具師というのは縁日などで物を売ったり、興行をする人のことだ。
私は中でも、万年筆売りが大好きだった。 このインチキ万年筆に
何度もだまされた。 でもなぜかまた買ってしまう。

夜店の中でも万年筆売りは、口上が面白くて人気があり、そのまわりは
黒山の人だかりになった。 道に大きな風呂敷を広げ、その上には
青っぽい泥が山のように盛られている。 泥の中には、一本一本油紙に
包まれた万年筆がいっぱい埋まっているのだ。 

香具師の口上はだいたい決まっている。 自分は万年筆工場で働いていたが、
工場が火事になって会社がつぶれてしまった。 そこで社長から給料の代わりに、
火事場からさらったこの泥まみれの万年筆を渡された、というのがその口上だ。 
だからこの万年筆は、ちゃんとした工場で作られていたんだぞ、というわけ。

今考えると、工場で万年筆にインクを入れるわけがないのに、なんで
青い泥なのか、ヘンなのだが・・・・。 だが聞いているほうはそこまで
考えない。 火事になっている工場と、消防隊が水をかけている光景が
目に浮かび、泥まみれになった万年筆が目の前にあった。

万年筆売りは、泥の中から油紙に包まれた万年筆をおもむろに取り出し、
雑巾で一拭きする。 なんとそこから、ピッカピカの万年筆が出てくるのだ。
この汚い泥の中から、ピカピカの万年筆が出てくるところが最高の見せ場で、
子どもたちの大好きなところだった。

見物人のあいだから、驚きのまじった、オ~ッ!という声がもれる。 
香具師はその万年筆の先をインク壺につけて、白い紙にサラサラと線を
書いて見せる。 どうだ、見たか!である。 たしかに見た!ちゃんと
書ける!おまけに安い! たしか2、3百円ぐらいで、文房具屋で
売ってる万年筆の、10分の1ぐらいじゃないかと思う。 夜店に行くのに
2百円も親からもらっていないから、家に飛んで帰って、貯めたこづかいを
持って買いに行った。

そんな週明けの、月曜日の学校の教室には、きまって、情けない顔で
万年筆を手にしてる、何人かの級友がいた。 私もその中の一人だった。

その万年筆、インクを入れて書こうとすると、ペン先からボタボタ、インクが
ノートに滴り落ちて、まともに使えないのだ。 だからペン先をインク壺に
つけつけ書くハメになる。 それも付けペンほどもインクがもたず、
しょっちゅう壺につけないとダメで、とうてい万年筆とはいえない代物だった。

あるとき、多摩川園遊園地の出口で売っていたのは、万年筆の端に
小指の先ほどの水晶!! がハメ込んであるというものだった。 
たしかに透明で、きれいな水晶がついていた。 だが買ったらやっぱり、
インク、ボタボタで、腹立ちまぎれに水晶をマッチの火であぶったら
燃えちゃった! というのもあった。

時代とともに万年筆は廃れてしまい、
夜店の万年筆売りはどこかに行ってしまった。
                    

形之医学・しんそう療方 東京小石川
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銭湯遊び

2010-11-14 18:02:51 | 昭和の頃

中学に入ったばかりの、まだ小学生気分の抜けない頃。
学校が早く終わったときに、友達4、5人と誘い合って、ときどき銭湯に
遊びに行った。風呂には入るのだが、それが目的ではなく遊びに行くのだ。

午後3時頃、みんなで銭湯の前で待ち合わせ、入り口が開くのを待つ。
その時間だと、まだお客が来ないから好き放題に遊べた 。湯舟の中で泳いだり、
潜水したり、お湯をかけあってはしゃいでも、誰も怒る人がいない。
泳ぐといっても狭い浴槽だから、2、3かきもすれば反対側に着いてしまうが、
とても楽しかった。 沸いたばかりのお湯は、なぜかとてもピリピリして
熱いが、私たちは顔を真っ赤にして遊んだ。


あるとき友達の一人が、どこから拾ってきたのか、折れて擦り切れた、
プラスチックの定規を持ってきた。 なにをするのかと思ったら、これで
みんなのオチンチンを計って、誰が一番か決めようぜ! と提案した。
全員面白い! と賛成した。
みんなはタイルの湯舟のふちにソレを乗せ、次々に計っていった。
そのうち負けず嫌いのSは、先っぽを、涙目になって引っぱって計った。
「引っぱったらズルイよ!」
「うるせー!」
「そんならオレも引っぱるぞ!」
というわけで、全員、痛い思いして引き伸ばしたオチンチンを計りっこした。
誰が一番だったかは記憶にない。


男の子は銭湯好きが多かった。 あの天井が高く広々として、木の桶が
カラーンと響いたり、壁に描かれた富士山の絵がよかったのか。 
それとも小さな庭に面した更衣所の縁台で飲む、瓶の牛乳がうまかったのか。
私も家に風呂があったが、夜、友達を誘って、家から5、6分のところに
あった堀川湯にはよく行った。

浴槽は3つに仕切られていて、真ん中が一番大きな普通の熱さの湯舟。
左側がかなり熱い湯舟で、右側の湯舟はドロリとしたこげ茶色のお湯で、
海草が入っているという大きな袋が沈んでいた。

熱い湯舟は大人でも入る人はごく少ない。 よく渋柿みたいなお爺さんが、
宙をにらむような恐い顔でジッと入っていた。 いかにも大人の入るところ
みたいで、私たちもその仲間入りをしてみたかった。 そして手先だけちょ
っと入れてかき混ぜたりすると、お爺さんは恐い顔で、
「ゆらすな!」 と怒った。 
きっと、『熱いじゃねぇか!』 と言いたかったに違いない。 
まるで落語みたいだが、あの熱さは半端じゃない熱さだった。


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砂絵

2010-11-11 18:30:35 | 昭和の頃
子どもの頃の縁日に、砂絵の材料を売るというのがあった。 
砂絵というのは、紙に糊の入った水で少し線を描く。 そこに、
たくさんの色の中から一つの色の砂をかけ、糊につかない砂をはたき
落とす。 また線を描き足し、別の色の砂をかける。 そうやって、
だんだん絵が出来上がっていく。
 
香具師のおじさんが実際に紙に描いて見せるのだが、子どもたちに
人気があった。 夜店のいろいろな商売を思い出してみると、子どもに
人気があったのは、はじめはなんだか見当がつかなくて、だんだん
わかってくるような、意外性があるものだったような気がする。

この砂絵も、おじさんは白い紙に、糊の入った水をつけた筆で描くから、
始めは何を描いてるのか皆目わからない。 サラサラと何か描き、青い砂を
紙にかけ、糊につかない砂をはたき落とす。 線が浮かび上がってきて、
少し何を描いたかわかってくる。 そんな面白さがあった。 さらに何か
また描き足し、こんどは赤い砂をかける。 そうしてだんだん絵が姿を
あらわす。 絵もかなり練習したに違いなく、決してヘタな絵じゃなかった。
おじさんの前には、海辺の風景や動物など、いろいろな砂絵が、見本として
並べられていた。


それから砂絵のセットを売り始める。 小瓶に入れられた、たくさんの
色の砂は、にぎやかで楽しく、絵を描くためというより、それが欲しくて
買う子もいた。


読んでいただいてありがとう!

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花火・2B弾

2010-08-27 14:01:48 | 昭和の頃

小学校の頃よくやった花火といえば2B弾だ。
これは夏にやる花火と違って、見る花火じゃないから年中やった。 
パーンッという音を楽しむというか、男の子のイタズラ花火だった。 
道路や壁に叩きつけて破裂させる、カンシャク玉と同じで、駄菓子
屋でいつでも置いていた。

太いマッチ棒ぐらいの花火で、マッチの擦るところで擦り、
何秒後かにパーンッと破裂する。 原っぱの土管に放り込んで
パーンッ、ドブ川に投げてもブクブク泡立ってからボコッと破裂した。

その頃、住んでいた矢口の渡しあたりでは、道路工事で
地面を掘ると、ネズミ色のきれいな粘土がたくさん出てきた。
工事のおじさんの話では、大昔、そのへんも多摩川だったそうだ。
だから深く掘ると、粘土がいっぱい出るんだと教えてくれた。

これをひろって戦争ゴッコに使う。 粘土を丸めてその中に
点火した2B弾を入れ、テキの隠れている頭上に放り投げる。
手榴弾だ。 上でパーンッと破裂させると、粘土がバラバラに
なってテキの頭に落ちた。 ときには破裂が早くて、自分の
頭が粘土だらけになった。 

あとで事故がたくさん出て禁止されたのが、2B弾を使った鉄砲。
鉄か塩化ビニールの細いパイプの片端をしっかり塞いで、火をつけた
2B弾を入れ、すぐにビー玉を入れる。 鉄砲をかまえて待つと、
ビー玉が破裂音と同時に飛び出す。 私は作らなかったが、親友の
安田君がやって見せてくれた。 塀の上に置いた、ぶ厚い牛乳瓶が、
木端微塵に砕けてびっくりした。


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続・横浜港の青いコーヒー豆

2010-07-21 17:49:08 | 昭和の頃

外国船の船員は国によってさまざまで、それが国の貧富の差なのか、
船乗り達の待遇の差なのかわからないが、いろいろな船があった。 
錆びてボロボロの、ろくに手入れもされていない船の船員は、だいたい
荒くれ者が多かった。

バイトを始めた頃、ヘルメットなんぞ渡されて大げさだなと思ったが、
その意味はじきにわかった。 積荷を降ろすワイヤーロープが切れると、
切れた端がまるで針ねずみのようになって、うなりを上げて飛んできたり、
荷が落下してくることがよくあるのだ。 

綿で足を折ると聞いたとき、なんのことかと思ったが、大きな長方体の
原綿を薄い鉄帯でガチガチに締めたものが落ちてきて、それで足を折る
ことがあるそうだ。 それはクレーンで持ち上げるほどで、とても綿とは
思えない重いものだった。 船にはそうしたいろいろな危険があった。


中国船の船長は、籐で編んだヘルメットを被り、夏だと白い制服を着て、
甲板でゆったりとジャスミン茶を飲んでいたりする。 この船でうらやましい
と思ったのは、厨房の窓越しに見える、ずらりと並んだ豪華な中華料理だった。 
でっぷりと太ったコックが、例の木の切り株みたいなマナ板で、大きな
中国包丁を軽々と扱って、次々に作り出す中華料理のご馳走が並んでいく。

なんでも航海中の乗組員の楽しみは、食べることぐらいだから、料理は
うまいものを出すのだと聞いた。 私たち学生は発泡スチロールの弁当箱に
入った、ご飯だけがやたらに多い弁当を食べながら、窓から見える中華料理を
うらやましく眺めていた。
                     


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マッカチン(アメリカザリガニ)

2010-07-09 13:23:41 | 昭和の頃

小学校の頃、外遊び好きな男の子たちに人気のあったものに、
アメリカザリガニがある。 成長した大きなアメリカザリガニを
私たちはマッカチンと呼んでいた。

赤い体で、大きなハサミのような手を振り上げて威嚇する姿は、
私たちをゾクゾクさせた。 でも大きなマッカチンは、東京の私の
住んでいたあたりでは滅多に捕まらなかった。 私もほんの2、3回
捕まえたぐらいだ。 誰かが捕まえたと聞くと、ブリキのバケツや
洗面器に入れられている、マッカチンを見せてもらいに行ったことも
あった。 男の子たちの憧れの生きものの一つだった。


あるとき私はそのマッカチンを捕まえ、大喜びで洗面器に入れて
家の中で大事に飼っていた。 そんなある日、山形からYさんという、
大学を出て就職して間もない人が、なにかの用事で家に来て泊まった。 
夜、私と弟は子ども部屋を追い出され、Yさんがその部屋で寝た。

これはオフクロから聞いた話だが、深夜、突然Yさんの絶叫が
聞こえたらしい。 話によると、Yさんは小用で起き、便所に行こうとして、
畳の上を這うサソリを発見し、悲鳴をあげたというのだ。
もちろんサソリではなく、洗面器から脱走したマッカチンだった。
両手を振り上げたマッカチンを、Yさんはサソリと思い込んだのである。

翌日、びっくりし過ぎて寝不足となったYさんは、カンカンになって怒り、
オフクロに、家の中であんなものを飼うなんて非常識だと文句を言ったらしい。 
オフクロは、ザリガニをサソリと間違えるほうがよっぽど非常識よね、と私に
そっと言った。

昭和30年代の頃。 たいていの家の照明は、小さな白いガラスの
笠の下にある、二股のソケットに大小の電球をつけたものを使っていた。 
夜、オシッコに起きるときなどは小さな電球しかつけないから
とても暗かった。 その暗がりの中で、Yさんは畳の恐ろしい”サソリ”を
見て絶叫したのである。

今のようにいろいろなものの、詳細な情報というのは当時なかったから、
サソリは砂漠の闇の中に蠢く、猛毒をもった恐怖の生き物のイメージ
だった。 実際よりももっと恐ろしいイメージとして、人々の中で
膨らんでいたのである。 その想像力を膨らませていったのは、
映画であり、恐怖のサソリの毒に刺し殺される漫画だったろう。
猛毒のクモ、タランチュラや毒蛇、コブラのようなものも同じような
ものだった。
                   
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ドクダミとガキ科学者

2010-06-08 17:10:49 | 昭和の頃

真夏のうだるような昼下がり、3人のガキ科学者は
家の雨戸を締め切り、薄暗い灯りの下で、試験管を
アルコールランプの火であぶっていた。

ガラスの試験管の中に入っているのは、水とドクダミの葉。
やがて、ぐつぐつと試験管のドクダミ入りの水が沸騰を始める。

次第に猛烈なドクダミの臭気が部屋の中に漂ってくる。
吐きそうになるのをこらえて、あぶり続けた。

ガキ科学者たちの顔から、暑さとは別の汗が吹き出る。
だんだん匂いで鼻のずっと奥、眉間のあたりが気持ち悪くなってくる。

そのうち一人が、たまらずゲーッと声をあげて部屋から
飛び出していった。 それを合図に、あとの二人もそれぞれ
雨戸に飛びついて開け放った。 真夏の昼間なのに、外の空気が
涼しいような気がした。

何をしようとしていたのかおぼえていない。
ただガキ科学者たちは、漫画で見たように、薄暗いところで
ヒミツの研究をする科学者のようになってみたかったのだ。 


それ以来、もともと苦手だったドクダミの匂いが、トラウマの
ようになって、遊んでいて知らずに踏んづけて匂っても、
吐き気がするようになった。

ところが大人になって、これを日に干して乾燥させると、
ウソのように匂いが消えるのを知った。 ドクダミ茶と
いうのが流行って、それを、だまされたと思って飲んでごらんと、
無理やり飲まされてからである。


ドクダミは秋頃になると、葉をわずかに紅葉させる。
それは白い花とともに、ひそやかな趣のある美しさがある。
亡くなったオフクロは日本画や藍染の題材によく使っていた。
だが私は、きれいだなと思う反面、あの匂いが鼻の奥に
ツーンっとよみがえってきてどうもいけない。

ドクダミは強い生命力をもつ野草で、暗い林内でも旺盛に
勢力を広げる。 十薬(ジュウヤク)という名前で、生薬として
日本薬局方にも入っている。 また民間薬としても使われてきた。
                      (2009、6・18 記)

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マムシ山

2010-05-27 13:38:18 | 昭和の頃

小学校の頃、オヤジの仕事場のある湘南に遊びに行ったある日。
さんざん海岸で遊んだ私たちは、こんどは事務所の裏にある山に
探検に行こうということになった。
 
山というより、丘の連なりといったほうがいいぐらいのものだが、
ガキ探検隊は隊列を組み、歌をうたい意気揚々と進んでいった。
平坦な、ほの暗い林の中を進んでいくと、突然、林がきれて明るくなり、
山を登る細い山道があらわれた。 道の入り口には、平屋の粗末な
小屋があった。

そして私たちは、あっちこっちに立つ、手書きの看板にギョッとした。
「危険!入るべからず」 「マムシに注意!」というようなことが書いてある。
もっと探検隊を驚かせたのは、小屋の前の金網を張った木の箱だ。

箱の中には、ウジャウジャともの凄い数のマムシがトグロを巻いていた。
ギャッ! と叫びたいのをこらえて、どうするか相談が始まった。

みんな帰りたいのだが、弱虫と言われるのがイヤで言い出せない。
話し合いで、ちょっとだけ行こうか、ということになった。
全員が手に手に、落ちていた木の棒切れを拾った。

ジャンケンで、先頭になる隊長がイヤイヤ決められ、
隊長はへっぴり腰で、やたらにあたりを棒切れで叩きながら
進んでいった。 ほんのちょっと、ガサッと音がするだびに全員
棒立ちになりながら、それでも進んだ。

山道を半分進んだところで、隊長が突然、ギャーッと悲鳴をあげ、
Uタウンして、一目散に坂道を駆け下りだした。
ガキ隊員もわけがわからないまま棒切れを放り出して続いた。 
見えたらしい。 隊長の少し前を横断する、太短いヤツが。

事務所に帰ってオヤジに話したら、こっぴどく怒られた。
そのあたりでは、小山にマムシを放って繁殖させ、
それを獲って生計を立てている人がいたらしい。


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トリモチ

2009-12-25 17:33:59 | 昭和の頃
今の人たちに、トリモチといってもわからないかもしれない。
ベタベタのゆるいガムみたいなもので、強い粘着力があり、これを
長い竹の先のほうにつけて虫をくっつけて獲る。  ずっと昔には、
鳥刺しという仕事があって、これで食べるための鳥も獲ったという。

夏になると、駄菓子屋さんでトリモチを売っていた。
男の子たちは、このトリモチを買ってトンボやセミを捕まえる。
ただ、つけられた虫は、暴れて羽からなにから、ベッタリくっついて、
ひどい状態になり、虫カゴに入れて見る、あとの楽しみはなかった。

これで虫を捕りたいというより、駄菓子屋のお爺さんが、竹にトリモチを
つけていくのを見ているのが面白く、出来立てのそれを手渡されることが、
うれしかっただけのような気もする。

「トリモチ、ちょうだい」というと、お爺さんは店先に束にして立ててある、
長い細竹を一本取り出す。 それから手に水をつけて、容器の中の白っぽ
いトリモチを少し取る。 トリモチは水がついていると全然くっつかないが、
つけていないと、指に張り付いてどうにもならないのだ。 そして、竹を
クルクル回しながら、先の20センチぐらいにのばして付けてくれた。 
これは見ていて面白いものだった。

このトリモチ、間違って頭などにつけられると大変だった。 私もつけられ
たこともあるし、つけちゃったこともある。 竹を肩にかついでいて、おしゃ
べりに夢中になっているうちに、竹の先が下がって後ろの友達の頭にベッタ
リくっついた。 水道のあるところで、頭に水をかけ丹念に取るしかなかった。


トリモチを調べてみると、モチノキの樹皮を砕いて網の袋に入れ、
沢の水に長い期間漬けっぱなしにしておくそうだ。 木質部分が
腐って流され、あとに水に溶けないトリモチの成分だけが残り、
これから作るという。

こうしたことは、始めからわかっていたことではないと思う。 
誰かが偶然に、沢にあったモチノキのトリモチ成分を見つけ、
時とともに、それが鳥を獲るまでに発展していったのではない
だろうか。 そんな想像をふくらませていくと興味深い。
               
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模型飛行機

2009-11-21 08:41:01 | 昭和の頃

子どもの頃に駄菓子屋に次いで、少年たちに人気があったのは模型屋
だった。 女の子はあまり入らなかったように思う。 模型のほうは、
駄菓子屋よりもあとから出てきた店だが、子どもが少し貯めたお小遣い
でも買えるような値段のものを置いていた。

少年たちに一番人気があったのは、模型飛行機だった。
模型飛行機といっても、今のような精密なものではない。 細い木の
胴体に、竹ヒゴを骨組みにして、紙を貼って作った翼をつける。 動力
はプロペラと、胴体の後ろに引っ掛けた長いゴムの束で、プロペラを巻い
てゴムを捩り、そのもどる力で飛んだ。 こういう模型飛行機は、
学校の図画工作の時間でも作ったことがある。

私は机の前に長時間座っているのは苦手だったが、この模型飛行機だけ
は特別で、友達と一緒に何度も作った。 それは飛行機の材料が入った、
細長い袋に青空を飛ぶ飛行機の絵が描いてあって、とてもカッコよかった
からだ。

自分で作った飛行機が、空を飛ぶのを想像しながら作るのは楽しい。
ところが組み立て方を書いた図面を見ながら作るのだが、飛ばして
みるとバランスよく作るのは難しく、よく頭から地面に落ちた。


子どもがまだ幼稚園ぐらいのとき、蒲田の路地裏で小さな模型屋を
見つけ、懐かしくて入ってみた。 入ると模型飛行機をまだ売って
いて、子どもに飛ぶところを見せてやりたいと思い買った。




それから数日後、出来上がった飛行機を持ち、意気揚々と子どもを
連れて多摩川の広い河川敷に行った。  
大空を悠々と飛ぶ飛行機を思い描きながら、土手の上で胴体を持ち、
はりきってプロペラを指で回しゴムを捩っていった。 さらに捩っていく・・・・。 

「バシャッ!」 突然、破裂みたいな音をたてて、模型飛行機は翼を
バラバラに吹き飛ばされ、プロペラの付いた、ただの棒になっちゃった。
巻き過ぎてゴムが切れたのだ。 まだ一度も飛ばしてないのに・・・・・ 
子どもとボー然と 、手の中の原型のないヒコーキを見ていた。


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リバーシブルのジャンパー

2009-11-12 18:51:31 | 昭和の頃

リバーシブルというのは、裏表使えるという意味だそうだ。
以前、リバーシブルと言われてわからず、カタカナ語辞典で調べて
わかった。 英語が苦手で、カタカナ語に弱いから、こういうことは
しょっちゅうある。

だいたいなぁ、日本語にあるのは、日本語で言えってんだ、 と
言いたくなる。 病院で仕事をしていた頃、看護婦さんがやたらに、
ナーバスになってるのよ、などと言い、ナーバスがわからなかった。

オジさん力を見透かされるのもくやしいし、見栄もあるから、
知ってるフリをして大きくうなずいていた。 それからやっと
重い腰を上げて、カタカナ語辞典というものを初めて買った。

ナーバス・・・・・  出てた。  神経質だった。 
そんなの神経質って言ってくれよ~ 
だいたい看護婦さんというヤカラは、やたら英語を使いたがる(?)。 
脱線した。


今もリバーシブルの服は売られているようだが、私が見て欲しくて欲しくて
仕方なかったのは、小学校の頃だった。 だからかなり昔からある。

その頃大流行して、子どもたちが着ていたのは、表が緑や赤のナイロンで、
裏がチェックの生地のものだった。 大人は着てなく、子ども向けのもの
だったと思う。 女の子はオシャレで着ていたかもしれないが、男の子は
オシャレのためではなく、『少年探偵団』 が大流行していたからだ。 
 
あくまでも怪人二十面相みたいなアヤしい人を尾行したり、悪いやつに
追っかけられたときに、逃げるための変装用だった。 逃げながらジャン
パーを脱いで、くるりと裏返しに着ると、もうテキはわからなくなる! 
といっても、あくまでも頭の中で膨らんだ妄想だった。


読んでいただいてありがとう!

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信州学生村(2)・スズメバチの襲撃

2009-08-17 09:39:15 | 昭和の頃

天竜川は農家から歩いて2、3分と近かった。 その石のゴロゴロする河原の
手前に、横に帯状に長い竹林があった。 その竹林で何に使おうとしたのか、
友達と竹をナタで切っていた。 竹は竹竿ほどの太さで、スコンッ スコンッと
小気味よく切れる。 二人で面白がって切っていたとき、 何やら低い唸り声の
ような音が聞こえ、見上げると、スズメバチの大群があたりを飛び交っていた。

私たちはわけもわからず、とっさにナタを投げ出して天竜川めがけて走った。
石で走りにくかったが、それどころではなく、川に飛び込んで潜った。
水の中から上を見ると、追ってきたスズメバチが何匹か、目の前の川面を
飛び回っていた。 息を殺して飛び去るのを待った。

すぐ岸に上がるのは危ないので、潜って川を下り、遠回りして帰った。
次の朝、オヤジさんと恐る恐るその場所に行ってみた。 
断崖の上から竹林の中に、パイプを乗せた急勾配の細い吊り橋がきている。
それを支える木で出来た、鳥居の形のようなものが、竹林の一角にあった。 
その横棒に、スズメバチが大きなボールのような巣を作っていたのだった。

ところがすでに巣は落ちて壊され、もぬけのカラだった。あたりには
花火が散乱していた。 オヤジさんの話だと、誰かが蜂の子を獲っていった
らしい。 私たちが竹を切っていたところからは、少し離れていたが、
竹林でガサガサやっていたので襲ってきたのだろう。

それまで山でスズメバチに刺されたことはなかった。 
おそらく標高の高いところが多かったからだと思う。 知らずに巣に近づいて、
斥候らしい2、3匹のハチに、体の近くを威嚇するように、低い羽音をたて
られながら、回られたことはあった。 そういうときは、もときた道をもどる
のが正しい。 ヘタなほうに逃げると巣に近づくからだ。

蜂に刺されたのは、子どもの頃に、ミツバチと足長バチに刺されたぐらい
だが、ミツバチは小さいが意外に痛く、皮膚に針を残していく。そのあと
死ぬと聞いた。

大スズメバチは、山歩きをしていると、たまに出っくわすことがあった。
ヤツは人間など、ものともせず、真正面から一直線に唸るような羽音を
立てて飛んできて、こちらが慌ててよけるほどだ。 シャクだが、人に
よけさせてそのまま飛んでいく。

形之医学・しんそう療方 東京小石川
http://www.shinso-tokyo-koisikawa.com/



[ 警告]当ブログ内に掲載されているすべての文章の無断転載、転用を禁止します。すべての文章は日本の著作権及び国際条約によって保護を受けています。Copyright 2008?2009 shinso koisikawa. All rights reserved. Never reproduce or replicate without written permission.

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信州学生村(3)・道が消えた

2009-08-16 09:48:10 | 昭和の頃

学生村にいるとき、一緒に行った幼なじみと、近くの山に一泊で
登ろうと計画した。 持っていった登山用の地形図を見ながら、
二人でどこに登ろうかと、計画しているのは楽しい時間だった。

決めたのは、おそらく登山者など来ない、わりあい近くの山だった。
もともと農家のあるところの標高も、さほど高くないから、その山もそう
高くはない。 大滝山だったか、今では、山の名前もよく思い出せない。

二人で普通の登山では、重いのであまり持っていかない、いろいろな
缶詰を、農協のスーパーでしこたま買い込んだ。 そして、のんびりと
昼過ぎから、小さいがずっしり重いザックを背負って出かけていった。

どうせ低い山だからと、ナメていた。 途中で休み、休み、ミカンの缶詰
など食べながらのんびり歩いた。 かなり歩いたところで、ゆっくりと
陽が傾き、地図にない道が現れた。

道は二股に分かれ、左の道は新しいらしく、はっきりしているが地図には
ない。 右の道は地図にある道だが、なぜかぼんやりとした感じで、崖の
下を回り込んでいる。

二人で地図を見ながら迷った。 地図にない道は、行き先がはっきりしな
いから、地図にあるほうに行くことにする。 だがその道は、歩いていくと、
次第に草に覆われ、だんだん消えていった。 終いには、地面に顔をつける
ようにして先を見れば、やっと両側から覆う草の下に、うっすら痕跡が
見えるほどになり、やがて消えてしまった。 暗くなり始めているので、
行くか、もどるか友達と話し合った。

「やっぱりさっきの道を行けばよかったな~」
「でも、あの道、どこに行くかわからないんだろ?」
「もどろうか?」
「もどったところで、真っ暗になっちゃうよ」
「じゃ、ここで野宿しよう」
「え~ こんな草むらにテントもなしで~?」 
と、幼なじみはとてもイヤそうだった。

だが空模様も怪しくなり、寝袋は出したものの、結局もどることにした。
懐中電灯で照らしながら歩く道は、やけに遠く感じられ、疲れきった
二人は口をきくのもイヤという状態で、やっと村近くまでたどりついた。

こんどは大きな岩がゴロゴロしている、ちょっと危ない天竜川沿いの
近道を行くか、遠回りしても安全な、村の中の道を行くかでモメた。
早くついて布団に寝たい私は近道派で、のんきな幼なじみは遠回り派
である。

カンシャクを起こした私は一人で岩の上を歩き始めた。 幼なじみも
仕方なしにずっとあとからついてくる。 農家にたどりついたのは、
真夜中だった。 戸をごそごそやっているので、何ごとかと飛び出して
きたオヤジさんにびっくりされた。


読んでいただいてありがとう!


体のゆがみは、腰痛などの痛みや体調不良の大きな原因です。

形之医学・しんそう療方 東京小石川
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信州学生村(4)・岩ヒバ採り

2009-08-15 16:40:49 | 昭和の頃

学生村のこの伊那谷の農家へは、その後何度か遊びに行った。
一度は、生まれて初めての田植えを手伝いに行ったこともあった。 
あるとき、北アルプスでの夏山合宿の帰りに、ザックを持ったまま
農家に寄った。 ザックの中には、岩登りの道具も少し入っていた。
オヤジさんはそれを見て、岩ヒバを採ってくれんかな、
と頼んできた。

岩ヒバ、ご存知だろうか? 私はまったく知らなかったが、湿気の多い
岩に生えている植物で、盆栽のようにそれを育てるのが趣味の人がいる
らしい。 人口栽培するのは難しいらしく、おまけに岩壁などの険しい
所に出ている。 そのため希少価値が高く、けっこういい値で売れる
という。 オヤジさん自身も売るだけでなく、自分の趣味で小さな鉢に
沢山育てていた。

盆栽の鉢に寄植えにしたものなど見せてもらったが、正直、見たところ、
私にはどこがいいのか、さっぱりわからなかった。 ヒバの葉をボソッと
束にしたようなもので、高さは10~15センチぐらい。それが岩の裂け目に
張り付いている。 木の檜葉(ヒバ)とは関係なく、シダ類の仲間で、
別名を岩マツというそうだ。

天竜川のその断崖はかなりの高度があるが、壁のところどころに岩だなが
あり、そこに小さいが木も生えていた。 ザイル(登攀用のロープ)もあるし、
攀じ登るのは簡単そうで、二つ返事で引き受けた。

腰に岩ヒバを入れる籠を下げ、ザイルと岩登りの道具を持って登り始めた。 
オヤジさんは下ほうの手の届く範囲は、自分で採り尽くしてしまっている。 
上のほうにあるのは、見えていながら採れないから、悔しい思いをしていた
らしい。 下からあっちだ、こっちだと指図され、たちまち籠に一杯になる
ほどの収穫をあげた。

夜、大喜びのオヤジさんは、とっておきの酒を振舞ってくれた。


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信州学生村(5)・終章、味噌汁

2009-08-14 22:52:27 | 昭和の頃

伊那谷のこの家では、普段の食事が出されたから、特別な料理は食べた
ことはなかった。 ただ、多忙の農繁期なので仕方ないのだが、参った
のはお昼ご飯だった。

農協で裸の10個詰めで売っていた、即席ラーメンを適当に煮て、
そこに魚肉ソーセージの輪切りを加えたものが、おかず兼汁物だった。
それだけでご飯を食べる。 私はこれとまったく同じものを、山で
しょっちゅう食べていた。 だから即席ラーメンも魚肉ソーセージも
食べ過ぎで、その匂いが鼻につき、食欲がガクンッと落ちる。
おまけにおばさんの水の目分量は、かなり適当で、いつも塩辛い
から、多量のお湯で薄めて食べていた。

ごちそうになった食事で忘れられないのは、夕食に出た、いろいろな野菜
を入れて作った味噌汁だった。 これはほんとうにうまかった。 
野菜の味噌汁など、東京でも普通に食べていたが、まったく別ものの
ようにうまく、学生たちの一番人気だった。

庭の隅に母屋の台所とは別に、囲炉裏のきってある小さな小屋があった。 
夕方、おばさんはすぐ近くの畑でいろいろな夏野菜を採ってきて、それを
囲炉裏の大鍋で煮て、自家製の信州味噌で作ってくれた。ナス、インゲン、
ニンジン、玉ねぎ、ゴボウなど、新鮮な野菜が混然と溶け合った、味噌汁
のうまさ!

夕暮れの、お腹が空いているときに、いい匂いが小屋のほうから漂ってくる。
私たちは、この味噌汁をとても楽しみにしていた。 沢山作ってくれたから、
何杯もおかわりした。 


あれから四十年の歳月が流れ、音信は絶えた。


読んでいただいてありがとう!


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