奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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井伊谷龍潭寺史(4)ー開山黙宗禅師以前、師文叔

2022-05-12 03:00:42 | 郷土史
長野県飯田市松尾の龍門寺所蔵「竜門開山再住妙心廿四世勅諡圓照真覚禅師文叔大和尚略伝」(以下「文叔略伝」と略す)によれば、文叔瑞郁(1467~1535)について、「遠州井伊谷城主直平、迎請主自浄院」とあります。文叔瑞郁の伝は、松源寺・龍潭寺に残っていますが、内容は大同小異であるといいます。井伊直平云々は、永正四年(1507)九月十五日付「井伊直平寄進状」2に関わるもので、寄進先は「龍泰寺」です。
 ところで、先の「文叔略伝」あるいは龍潭寺僧某の「黙宗大和尚行実」では、この寄進状の主井伊直平に請じられたのが「文叔和尚」であり、また和尚が居住したのは「自浄院」であったと書いています。龍泰寺ではありません。しかし、今この件については後回しにして、まず文叔和尚の来住について述べてみたいと思います。
「文叔略伝」によれば、文叔瑞郁は信濃国市田城主松尾嘉右衛門大夫正哲居士の実弟です。美濃金宝山瑞龍寺悟渓宗頓に参侍し、悟渓より「文叔」の号を与えられ、また悟渓の命で、同国山県大智寺開山玉浦宗珉について修行し、その法を嗣ぎました。天文四年(1535)六十九歳で遷化しています。ところで、師の玉浦宗珉が文叔に与えた得法得悟を証する印可状が残っていて、それによれば、永正五年(1508)六月、文叔四十二歳のこととあります。また、翌六年三月上旬、文叔の需めに応じて、玉浦が頂相に自賛を書しています。それには「文叔首座」とあります。この年は玉浦にとって妙心寺に瑞世し、一住三年の初めの年に当たります。また、長野県飯田市松尾龍門寺に、文叔が妙心寺住持に就任したときの「同門疏」・「山門疏」・「寅門疏」が残っていて、そのうちの「山門疏」に、「前第一座文叔郁公禅師、住持」とあります。それゆえ、このとき文叔は師の命によって、妙心寺の前堂首座を勤めていたのでしょう。そして、おそらくこのときに(それ以前かもしれませんが)、住持になるための前提となる秉払を遂げたのだと思います。とにかく玉浦の在任中の永正九年(1512)ころまでは、妙心寺に在住していたと思います。そして玉浦のあと、妙心寺二十三世桂峰玄昌の一住三年の住持中、永正十二年(1515)二十四世住持(奉勅入寺・居成)になっています。
 その間、兄の市田城主松尾明甫正哲居士が建てた松源寺に入寺したとすると、この寺の開創は永正八年から同十年と想定されているので、さらに永正九年から同十年に絞ることができます。文叔は開山に師の玉浦宗珉を勧請し、自らは二世となっています。そこでまず、印可の年を考慮すれば、直平寄進状の永正四年までには、文叔瑞郁は井伊谷には来住できません。またそのあとの史料からも、その後もしばらく永正九年ころまでは、師の玉浦に随侍したと思われます。また遠州では、永正五年七月今川氏親が遠州を平定し、遠江守護職を手にして、ようやく落ちついたのですが、それももつかの間、永正三年に続き、伊勢長氏に命じて、二度目の西三河松平長親攻めに及ぶも敗れています。今川軍には井伊氏・奥山氏も従っていますが、この敗戦を契機に、同七年には、大河内氏が斯波・井伊氏を語らって氏親に反旗を翻し、今川軍が十一月、引間に出陣し、十二月には井伊谷周辺が主戦場の一つになり、永正十年(1513)まで戦いが続いています。当然、井伊谷は焼土と化したでしょう。それゆえ、このころにも文叔は来ることはできないでしょう。また永正十三年(1516)から、再び大河内貞綱が、信濃国の国人を催し斯波義達を語らい、今川氏との戦いを開始しました。翌年三月には引間城を占拠し立て籠もりました。これに井伊・奥山氏も同調したのであり、翌十四年八月今川軍の勝利で幕を閉じ、大河内親子など多くが討ち死に、斯波義達は普済寺で出家させられ、尾張へ送り返されました。このときも井伊谷は主戦場のひとつになっています。そうであれば、いつ起きるかも知れない戦乱の地に、文叔が足を踏み入れることはなかったはずです。つまり、この十四年に至っても来ていない可能性が高いでしょう。
 黙宗が、鎌倉で玉隠から「黙宗」の字説を授かるのは、永正三年で、永正四年には、すでに正法寺を出て、諸国行脚の旅に赴いています。そこで以上から、少なくとも永正十四年までに、文叔瑞郁が井伊谷に来住し黙宗等に教え、のち信濃松源寺に移ったという所伝は受け入れがたいということになります。

 ついでに言っておきますと、三ヶ日町平山凌苔庵悟渓某が、悟渓宗頓と誤解されていますが、この平山悟渓は宗頓ではありません。この僧が龍潭寺の濫觴であるという主に幕末に彦根藩系譜方河村万右衛門などによって、取り上げられたのですが、明らかな誤解です。(弘化四年(一八四七)九月、彦根藩系譜方河村万右エ門取調べにつき草稿控)これは既に論証されています。文叔禅師は本当に勧請開山にすぎないのです。
  
<註1>妙心寺には奉勅入寺して世代となるものと住世するものがあり、後者は妙心寺四派による輪住であり、一住三年の住山であるのにたいして、前者は臨時奉勅であり、
三日で開堂祝聖(しん)から退院上堂の法語を垂れて自坊に帰山するもので、一般的にはこれを「奉勅入寺」(居なり)といいます。(妙心寺史等)これにより、「前妙
心」という称号と、紫衣勅許が得られることになります。
<註2>「字」はある程度の法階に昇進すると、本師(受業師)又は尊宗する先輩より授けられる称号で、中世では、公的には十刹西堂になると許されたが、詩会や平常の社交では、それ以前に既に所有、使用している。西堂とは他寺の前住を務めた僧の堂舎であるが、そこに住む僧自身も呼んだ。最初は居所によったが、その後居所による称号の性格は薄れた。たとえば禅の本旨たる「無」字など使用。(無準師範等)法諱の下字と道号とが字義上の関連がつくよう作られた。(玉村竹二等参照)

[参考文献]
『浜名史論』『静岡県史』『瑞泉寺史』訳、解釈共に『悟渓宗頓 虎穴録訳注』芳澤勝弘編 思文閣 二〇〇九年
 




井伊谷龍潭寺史(3)ー八幡宮と御手洗の井<ⅱ>

2022-05-10 22:10:46 | 郷土史
井伊直平が井料田三反寄進した「龍泰寺」も、どういった寺院であったのかは明らかではありませんが、妙心寺派でなかったことだけは確かでしょう。
 問題は、この寄進の対象は「龍泰寺」なのですが、その「井」を管掌していたのは、支院「某」(地蔵寺または自清院)であったのかどうかもまだわかりません。なにしろ、龍泰寺の規模が不明なのですから。私見では、この寄進は領主直平が、井伊氏出誕の象徴的な「井」の祭祀をおもねたことを意味するわけです。さらにこの永正以前、明応七年(1489)七月の大地震、また今川氏親の遠江侵攻により、文亀年間(1501~1504)斯波氏との戦いが浜名湖周辺を含む天竜川西所々で行われ、井伊氏も相当の打撃を被ったはずです。今川氏親が遠江を一応手に入れ、三河進攻に向かっていた数年の安息時に、この寄進が実施されたわけで、実質的な龍泰寺の中興、あるいは創建であったのかも知れません。井料三反は、ほぼ僧三人が一年食べていける程度ですが、おそらく服部英雄氏のいう「門田」と同じ機能を持ったものと思われます。すなわち、中世農業の旱魃に対する脆弱性とは逆に、井という湧水は日照りに強く、回りの稲が白くなっても、井(湧水)による田は黄金色の稔りをもたらします。農民は種籾すら旱魃による飢饉で食べ尽くすのですが、井という水がかりの良い門田の領主は、米を蓄えて出挙で貸し出す。しかも通常利率五分のところを倍の十分で貸し付けるのです。つまり金融の元手ともなりえる田でもあったのです。ですから、領主や寄進された寺にとっては、ありがたい「井」ですが、農民にとっては「御手洗井」にすぎず、とくに村の祭りに組み込まれることはありませんでした。
 この寄進対象は、のちに自清院領と言われるように、一子院の年料にすぎず、寺院経済を支えるほどではありません。さらに三年後の永正七年冬からは、井伊谷を主戦場とする数年に及ぶ戦いが始まり、この寺も、八幡宮も焼き尽くされたはずです。またその後も永正十三年(1516)より翌年にかけ、大河内氏が斯波氏を語らい、当国牢人等、信濃国国人を催し、今川氏と合戦に及び、氏親が完全に遠江を掌握するのは、翌々十五年三月です。井伊郷にもやっと息が就ける日々が訪れ、神社寺院の再建修造も始まります。ただ永正十年ころ、井伊谷三岳城城番に、三河奥平貞昌が就き、大永元年(1521)小野兵庫助と祝田禰宜との土地相論を守護氏親が裁定するなど、一時的に井伊氏は国人領主としての地位に動揺があったようです。
 戦乱の傷は深く、奥山方広寺再建には、大永五年(1525))以来着手した黙宗が数年を費やしたと思われるように、井伊谷での寺院神社再建修造もこのころでしょう。大永六年井伊八幡宮梵鐘・享禄元年(1528)同宮鰐口を井伊直隆が寄進しているので、この大永六年をあまり遡らない時期に、八幡宮は再建されたのでしょう。つまり大永年間に、八幡宮別当寺は再建されているのです。しかしこの什物の勧進は、真言系の勧進僧によると思われるので、別当寺は依然真言系の修験寺院でしょうか。あるいは方広寺派の禅宗寺院であったかでしょう。
 天文六年(1539)二月甲駿同盟成立で始まった、第一次河東一乱において、北条氏綱は堀越貞基および井伊氏と手を結び、奥平九七郎を誘い、今川氏へ反旗を掲げるよう要請したのです。結果、堀越氏の見附端城は攻められ、落城しました。井伊直盛の文献上の初見は、このあと、天文八年(1541)五月祝田喜三郎に、今度の戦い参加への給分を与える旨の書状です。この直盛が共保「出生の井を中央に被成、東西南北の境相立、寺領幷境内龍潭寺之御寄進」(『井伊家伝記』)したとされます。ところが、直盛父直宗は天文十一年(1543、井伊家伝記・位牌)、あるいは天文二十三年(1554、井伊家伝記「井伊家略系」)没で、後者は直平代理として、田原城戦死と載せますが、天文八年以降永禄三年(1560)までの井伊谷での発給文書は、すべて直盛が差出人になっているので、この間井伊郷支配は直盛が行っていたはずです。そこで思い浮かぶのは、先の北条氏綱への与同、すなわち今川義元への謀反が直宗代にあったのではないかという疑問です。そこで直宗は自刃したか隠居したかで、直盛が跡を継いだのでしょう。北条氏への寝返りは、井伊家に何の利益ももたらしません。だからその死も隠されたものとされ、一定していないのだと思います。直盛父直宗は、こうした事情で「直宗」の「宗」と同じ読み「たかし・とき」を持ち、意味も縁起の良い「隆」に変え、「直隆」としたのだとも考えられます。直平と直盛以前には、井伊氏関係では「直広」と「直隆」の二人しか資料に現れません。このうち永正十七年河名村六所大明神再建大檀那「直広」は、正確なところはわかりませんが、「直隆」は井伊郷八幡宮への寄進檀那であり、直盛登場以後は姿を現しません。そこで、直平後、直盛までの井伊郷領主であろうと思われます。諸系図には載っていませんが、北条氏への与同がおそらく一族・家臣の反対するところだったからでしょう。
 これが正しいとすれば、直平・直宗(または直盛)代に最初に創建された龍泰寺は妙心寺派の寺でなく、その後大永年間(後出)に同じく直平・直宗(または直盛)が黙宗瑞淵を請じて転派して妙心寺派となったのです。というのも、黙宗瑞淵は、天文三年(1534)に妙心寺住持(居なり)に瑞世していて、おそらくここで初めて文叔に嗣香して、諱智淵から「瑞淵」となったのです。これ以前に師文叔から印証を授けられ、翌年十二月、師の画像に賛を需め、許されています。その直後、師文叔は示寂しています。その葬儀に参列し、帰郷するのですが、その間遠江国浦川村に桐井山東福寺を創建するなどしています。「行実」では、帰郷して奥山正法寺に入ると書き、またその後香村の書簡が届き、さらに自浄院に遷るといいますが、これは誤解です。井伊谷に帰ってきて、井伊直平・直宗(直盛)がもと真言系修験寺院あるいは方広寺派の寺であった龍泰寺を革めて、寺領を寄進して、黙宗を請じたのですが、黙宗は、文叔を開山に勧請し、自らは二世になったのです。
 さてこのときの龍泰寺再興が『井伊家伝記』」のいう井伊直盛寄進状のように、井を中心に東西南北の境界を定めた地であったとすると、八幡宮は既に殿村(現在地)に移遷されていた可能性が高いでしょう。その正確な時期はわかりません。このことについては、黙宗和尚伝の項で述べます。
 
(ロ)八幡宮と「井」の祭祀
 八幡宮の性格のひとつに脇田晴子氏は、新羅侵攻の神功皇后伝説が、蒙古襲来以後『八幡愚童神』などにより、国粋主義的風潮の中で注目され、お産を抑え渡韓し、帰国後応神天皇出産という伝説にしたがって産神としても脚光を浴び、各在地にある名もない産神が神功皇后という皇室祖先神と習合するという現象が顕著になった、と述べています。
これは井伊八幡宮にも言えることだと思います。南北朝ころには確実に、井伊氏の氏神になっていたと考えられますが、室町時代中期ころまでは、武神であるとともに産神信仰の神でもあったわけです。「井」の祭祀は、正月修正会の香水=若水を提供する井戸であり、その後の粥占神事の聖水でもあったのですが、「井」そのものは祭祀の対象ではありませんでした。『井伊家伝記』は「龍潭寺中自浄院と申は往古元祖共保公出誕の節生湯を御掛候古跡霊地なり。右自浄院往古は地蔵寺と申候。地蔵寺を改て自浄院とは申なり」とあり、「地蔵寺」が「自浄院」の前身であると述べています。しかしそのすぐあとに、「神宮寺八幡宮御輿は往古龍潭寺より造立、右棟札にも龍潭寺中地蔵院と有之」とあるのです。しかも今の御輿は私(祖山和尚)が中興したものだとも言っています。八幡宮御輿は、これ以前の寛永十六年(1639)八月十五日新造の記録があります。これは龍潭寺歴代では昊天和尚代ですので、もう何十年かあと、祖山和尚が中興したわけです。すなわち、永禄三年龍泰寺が「龍潭寺」に改名以後にも「地蔵寺」は存在したわけです。
ですから、「地蔵寺」が「自浄院」に変わったというのは信じられません。龍泰寺時代には直平から井料寄進の際に、井伊祖共保出誕の井としたため、共保の霊の鎮魂を義務付けられたのは「龍泰寺」でした。それまでは特に、井に関係する祭事の記録はなく、井料寄進により祭事をしなければならなくなった。そこで龍泰寺内にとくに井を管掌する小院が必要になったのです。それでもともと八幡宮の御手洗の井の前にあつた「地蔵寺」(堂)を龍泰寺子院とした。地蔵はあの世とこの世を結ぶ仏で、「井」もまたあの世とこの世の通路です。ところが龍泰寺が、永禄三年、火災により延焼し、「直盛菩提」のために、新地(現在地)に建立されました。そのため、改名した龍潭寺にとっては、行輝寂明菩提を弔うことは二次的なものになり、また同時に八幡宮を「殿村の薬師山」(現在地)に移し、その跡地に新しい寺、龍潭寺を建てたため、「八幡宮御手洗の井」はその機能を失ったわけです。そもそも「八幡宮御手洗の井」から始祖共保が出誕したとすれば、それは八幡宮の祭神による奇瑞であるべきです。ところが、その八幡宮が移され、新たに龍潭寺が建てられたため、永録五年(1562)以前に、新たに龍潭寺内の「自清院」が「井」の管掌を引き継いだのです。「自浄院」ではありません。
 永禄十一年(1568)、德川家康は井伊谷に兵を進め井伊城を陥落させます。さらに元亀四年(1573)には井伊谷は德川・武田氏の戦場と化します。そこで八幡宮御輿は、天正年間以降、多分家康が龍潭寺領を安堵した天正十四年(1586)ころより後だと思われます。そうなると、「次郎法師寄進状」の永禄八年から約二十年後には以前「地蔵寺」が存在していたことになります。しかし天正十七年(1589)「龍潭寺検地帳」では、たんに「地蔵前」であり、「地蔵寺」はありません。また「正保四年丁亥(1647)十一月廿一日に長田井の元に井伊殿の社を初て立申候」「則棟札に書のせ申し候。此節通り道無之に付て田中より本道のおもてへほそ道を付申し候」とあり、また延宝八年(1680)徹叟和尚の「由緒」中にある「年中行事次第」にも、特に「井」について祭事はありません。「誕生の井」そのものは、長い間、せいぜい正月の若水くらいにしか用がなかったのでしょう。この「井」が現在のように体裁が整う始めは、江戸時代貞享五年(1688)彦根藩主井伊直興の寄進により修理したからです。それ以降何度か修理していて、今の形になったのです。明治の公図に「井」を中心に囲む四方を「地蔵寺」となったのは、この地に地藏を祀っていたからでしょう。

 ここまでを整理すると、龍潭寺と地蔵院(堂)は同じ時期に存在していたのでがあり、後者は前者の一子院であったわけです。地蔵寺が自浄院(自清院)になったという言葉の裏には、両寺が同じ性格の、すなわち「井」を管掌していたという認識が隠されています。ところで「井」の管掌は、直平による龍泰寺への井料寄進以降、永禄八年(一五六五)次郎法師の南渓和尚宛寄進状まで、確かなことはわかりません。この間、井伊直盛による寄進がありますが、おそらく龍泰寺宛寄進で、寄進の対象は次の今川氏真と同じだと思いますが、氏真は、亡き直盛の菩提を弔うために、新地に寺を建立し、寺名を改め、龍潭寺宛寄進状として発給されますが、これまで直平以外に「井」について述べた文書はありません。ところが、五年後の「次郎法師寄進状」には、直盛菩提所としての龍潭寺に触れ、そこに当寺領の内に、「自清院領」として「為行輝(共保)菩提所、西月(直平)寄進之上者云々」とあるので、先の直盛・氏真寄進状の「諸末寺」に、「自清院」が含まれていたと考えることができます。「清」の音は「セイ・ショウ」、つまり文字通り「清音」です。「浄」の字は意味は同じで、漢音では「セイ」と濁らないのですが、仏教で通常使用する呉音では「ジョウ」と濁ります。ですから、「清」と「浄」とは音が違うのです。これは発給した次郎法師も龍潭寺と関係深い人物であり、受給者もその対象の名称を誤ることはないでしょうから、「自清院」であって、決して「自浄院」ではなかったのです。すなわち次郎法師の時代は、「自清院」が「井」を管掌していたのですが、他方、先に見たように、龍潭寺改名後にも「地蔵寺」もあったわけです。寺伝からすれば、「地蔵寺」が「自浄院」に変わったとするので、これは実際には、「地蔵寺」が「自清院」に変わったのでしょう。あるいは、地蔵寺が何らかの理由で退転して、自清院が地蔵寺を受け継いだものでしょう。 
「自浄庵」は、寺の名称からすると、至徳元年(1384)から明徳元年(1390)閏三月の間に、おそらく井伊氏一族かその庶流に関わる、円通寺僧某の母自浄庵主松岩大姉の初七日を修している文書に名が上がります。この「自浄庵」は尼寺で、円通寺とともに、創建年代は不詳ですが、無文禅師の奥山来住後は、ともども方広寺派に変わったと考えられます。この「自浄庵」と龍潭寺内自浄庵との関係は、ちょっとわからないのですが、無関係とはいえません。円通寺は、宗良親王念持仏と伝える観音菩薩を本尊とする寺で、最初は井伊道政屋敷跡に建てられたと伝えます。天文十三年(1544)井伊直満・直義両人が、駿府で今川義元に誅殺されたあと、しばらくして直満の屋敷に移ったといいます。たぶん現在の晋行寺のところだと思いますが、移転以前の場所は不明です。松岩大姉の「自浄庵」がどうなったかは不明です。


井伊谷龍潭寺史(3)ー八幡宮と御手洗の井<ⅰ>

2022-05-09 19:44:37 | 郷土史
イ)「井伊八幡宮と八幡宮寺」
 八幡宮について語ることは、むしろ八幡宮寺について語ることと同義だと思っていてください。
 「阿弥陀如来伝記」(東光寺所伝・『遠州渋川古跡事』所引)です。これによると、東光寺阿弥陀如来は、平安時代中期藤原共資代に、細江湖中で夜光を放っていたのを拾い上げられ、井伊八幡宮社中に安置されました。応永年中(1394~1428)井伊匠作、藤原直秀霊夢を感じ、一宇を建ててこの地に勧請したというものです。また渋川八幡宮の棟札に、「応永三十一年(1424)霜月十三日 奉修造八幡宮 本地阿弥陀如来 藤原直貞法井道賢」があり、同所万福寺の応永三丙子年(1396)三月八日銘棟札に「大檀那井伊之匠作藤原直秀」、また応永三十二乙巳年年記銘棟札に「大檀那井伊之次郎直貞法名宗有之孫修理亮直秀法名法井之子息五郎直幸同於寿丸」とあることから、先の伝承は部分的には正しいと言えるでしょう。すなわち、応永年中井伊直秀が、井伊谷の八幡宮を渋川に勧請したというくだりです。したがって、井伊八幡宮は少なくとも、応永以前には存在し、本地を阿弥陀如来としていたことは、疑いようがないでしょう。
 ではつぎに、その開創がどのくらいまで遡れるのか見ていきます。

「井伊郷八幡宮開創」
 「八幡宮」(実際には八幡宮寺)そのものの勧請は、遠州地方では奈良時代の天平年間(729~759)に、聖武天皇曾孫といわれる遠江国司桜井王が勧請したという「府八幡宮」(磐田市中泉)がありますが、これは三河国府鎮座の八幡宮(豊川市)と同じく、その創建年代はともかく「八幡神は本来韓神で、穀霊として北九州の宇佐八幡宮に斎られていた神を国分寺の守護神として国分寺に付随してきた神である。府八幡宮というのは国府の八幡社のことであり、国分寺の西側の八幡山の中にある」という指摘のとおりとすれば、ここでは対象外としてもよいでしょう。ただ宇佐八幡宮の神は八幡大菩薩ともいわれ、早くから神仏習合が進んでいて、通常日本の神々は姿が見えないのですが、この神に関しては、日本の神像現存最古といわれる、平安時代前期の奈良薬師寺休岡八幡社の僧形八幡像など遺品があります。しかしこうした神像は、国家的な祭祀の一環として製作されたものでしょう。他方府八幡宮の神像は、「平安時代後期」(藤原時代、石田茂作による鑑定)か、「平安時代よりもやや後の時代の作」(岡直巳鑑定)といわれています。このことは、ちょうど平安時代の末から鎌倉時代の前期ころということでしょうから、国家的祭祀というより、むしろこのころこの地方で、八幡神に対する武士や富裕層、あるいは庶民による八幡信仰の浸透があったのでしょう。
 遠州・三河の八幡宮は、戦国時代や江戸時代にもひとつの信仰ブームがありますが、それを除くと、伝承としての勧請元は、宇佐八幡宮や京都石清水八幡護国寺(石清水八幡宮)か、鎌倉鶴岡八幡宮の勧請に限られています。
 今石清水八幡宮を招いたとする早い例としては、もと式内「己等乃麻知」社(掛川市日坂)があります。大同二年(802)北の山から現在地に遷座したというこの社は、康平五年(1062)源頼義が、京都石清水八幡宮を勧請したといいます。康平年間(1058~1065)は、前九年の役の戦勝を石清水に祈願した源頼義が勝利ののち、河内国壷井八幡宮や同じ理由で鎌倉鶴岡に若宮として、石清水八幡宮の神を勧請した年です。したがって素直に信じることはできないのですが、平安後期以来の八幡信仰によったものだと思われ、おそらく平安時代末期ころまでには日坂八幡宮と呼ばれたのではないかと思います。というのも、約十キロ南の横地(現菊川市)に、居館を構えた横地氏三代目太郎長宗は、その先源頼義の子八幡太郎義家の庶子とされ、保元の乱(1156)で源義朝の従者として、後白河方につき功があった。つまりこのとき、戦勝を祈願し、あるいは功成って東海道沿いに、石清水を勧請したと考えることもきます。ただ信頼できる資料はありません。
 三河と静岡県の八幡宮のうち、古代・中世前期に創建伝承をもつものをによると、宇佐八幡宮勧請伝承の八幡は、国府関連か、あるいは前身に、式内社伝承を持つものが多いことがわかります。しかし、古い伝承を伝える宇佐神宮勧請を除けば、圧倒的に鶴岡八幡宮の勧請が多いということ、そしてそのほとんどが鎌倉時代初期ということです。これはもちろん、源頼朝による幕府の成立により、御家人として組織されたこの地方の武士たちが、源家の武神というより、鎌倉府の鎮守である鶴岡八幡宮を、自らの所領に迎えたからです。そこで井伊郷の八幡宮も、おそらく鎌倉時代に御家人となった「井伊介」が鶴岡から勧請した概念性が高いと思われます。問題は、この八幡宮本地阿弥陀如来が現出したのが、細江沖、つまり浜名湖であると伝承されていることです。決して八幡宮「御手洗の井」ではないことです。いわばこの仏は光ながら湖を漂っていた、漂流する神であったわけです。湧出してはいません。
 井伊谷八幡宮は現龍潭寺の地にあったといいます。これが事実なら、この地は井伊谷の南の入口・出口にあたります。つまり境界神でもあったわけです。さらに井伊谷の根本神であるタチス峰が艮(うしとら)の守護神であるとすれば、ちょうど坤(ひつじさる)の方角、裏鬼門です。京都の鬼門守護が比叡山延暦寺、裏鬼門守護は石清水八幡宮と言われるように、つまり、この八幡宮は井伊谷の裏鬼門の守護としても祀られたのです。だとすると、応永以前に、井伊八幡宮は、京都石清水八幡宮かを勧請した可能性もあります。わたしとしては、井伊氏は早くから鎌倉御家人であったので、鎌倉時代に、鎌倉鶴岡八幡宮を勧請したのだと思うのですが。
 上横手雅敬氏によれば、鶴岡八幡宮は、八幡宮そのものが八幡宮寺といわれるように、神仏習合色の強い神社で、鎮護国家の寺院としての方が重要な位置を占めていました。神社の成員については、別当がトップに位置し、その下に供僧、巫女、職掌が続き、このうち祠官(神官)には御子(巫女)と職掌があり、その地位は別当・供僧より低く、とくに職掌と呼ばれる男性神職は、巫女よりも下位に位置づけられていました。これは別当・供僧という僧侶が御幣を振ったり、供物を下げたりするのが不適当であるため、置かれていたにすぎません。これは神社の規模などによって多少の違いはあるでしょうが、概ね仏教優位の情勢は変わりません。
 今、井伊谷に「神宮寺」地名が残っていますが、中世以来のもので、ここから神宮寺のひとつに、多くは別当寺が置かれ、他社の例では概ね神社境内にあり、神前読経や加持祈祷、神社の経営管理を職務としていて、その下にそのほかの社僧寺が存在し、さらに下位に宮司などがいたという中世社寺の構造を見て取ることができるでしょう。つまり中世寺社の通例からは、鶴岡八幡宮の勧請であれ、そうでないにしても、「八幡宮」の運営主体は、境内の神宮寺(別当寺ほか)にあり、神官がその下で、僧侶の行うのが不適切と考えられた神にまつわる祭祀を司っていました。
 さて八幡神の本地が阿弥陀如来であることは、良く知られたことです。井伊谷の八幡宮も例外ではなかったでしょう。当初の別当寺は不明ですが、南北朝時代に勝楽寺(正楽寺)は既にあり、「勝楽」とは至福を意味する密教の語ですので、この時代も、真言密教の寺院であったことがわかります。江戸時代に、この寺は八幡宮別当を主張します。大日堂は戦国時代に建てられているので、もともと大日如来を本尊としたかどうかは明らかではありません。ただ大日如来は宇宙の中心で、すべての仏はその応化であるので、阿弥陀仏が密教寺院の本尊であってもおかしくはありません。この時代井伊郷では、密教系の修験寺院が主流であったことは既に述べました。ともかく、初期の別当寺および社僧寺は、真言密教あるいは密教系の修験寺院でした。大永六年(1526)八月に、井伊八幡宮梵鐘を鋳造するために勧進した沙門善海も、真言密教系の聖であろうと思われます。このあと書くように龍潭寺(龍泰寺)開山黙宗和尚は、この前年、井伊郷に帰郷してきますが、まだ方広寺派の僧でした。したがってこのとき存在していた龍泰寺は、密教寺院か、同系の修験寺院、または方広寺派の禅寺であったろうと考えられます。おそらく直平・直盛の帰依などという伝承から、黙宗帰郷以前から後者であった可能性が高いと思います。

井伊谷龍潭寺史(2)ー方広寺以後

2022-05-09 07:43:54 | 郷土史
至徳元年(一三八四)奥山六郎次郎朝藤が奥山に方広寺を開創し、無文元選を招請して開山始祖とします。
 無文元選禅師については、多言を費やす必要はないでしょう。簡単に述べておくと、後醍醐天皇第六皇子で、母は昭慶門院と伝えますが正確なことはわかっていません。康応二年(1343)中国(当時は元)に渡り、諸尊宿に参敲し、福州大覚寺古梅正友に嗣法しました。古梅正友は臨済宗破庵派の僧で、有名な無準師範の五代後となります。玉村竹二氏によると、この派は南宋(1127~1279)では非常に栄えたのですが、元(1271~1368)が起こると、松源派に取って代わられました。つまり無文禅師は、日本では依然盛んであったのですが、当時中国では衰退していた派に属したのです。しかし実はこの時代全盛であって、日本の禅僧の多くが参じた松源派古林清茂の法嗣、了庵清欲の参徒でもありました。了庵清欲は日本に来ていませんが、来朝し足利尊氏・直義兄弟の帰依を受け、また南禅寺・建長寺などに歴住した竺仙梵僊とともに、古林門下の二大甘露門と言われていました。古林清茂は偈頌主義を唱えた文芸運動の創始者で、古林の別号金剛幢から、その会下を金剛幢下と呼びます。ここに参じた日本の禅僧はいろいろな宗派に属していましたが、文学活動についてのみ団結する集団を形成しました。初期の五山文学を形作ったのも彼らでした。金剛幢下であることは、日本では一種の結社の結成に至ったようです・たとえば、康応元年(1389)八月二〇日、方広寺において十三回忌が修された前建長広円明鑑禅師(大拙祖能)は、中峰明本法嗣千岩元長から法を嗣いだ幻住派の人です。たしかに無文禅師は、千岩元長に参じているので、その縁も考えられますが、了庵清欲に参じた金剛幢下の仲間であったことからも執行されたものでしょう。というのも「師以有旧盟」とあるからで、旧盟とは金剛幢下のことでしょう。無論、大拙祖能は無文が両親のもとを去って、京都建仁寺に入った時の最初の師であったからだということは、いうまでもありません。また応安六年(1373)無文元選の画像賛を作った古剣智訥は、その師孤峰覚明が、古林清茂に学んだ金剛幢下の人という縁が関係しているのでしょう。当然、師弟共々南朝専一であったことも、無関係でないことは言うまでもないでしょう。また元・明の禅は、禅浄兼修でしたので、当然その感化は受けたと思います。たとえば無文禅師の参じた中峰明本には、『観念阿弥陀仏偈』などがあり禅浄一致を説き、同時に隠遁的生活を修行の核においている僧であったので、無文禅師晩年の奥山への来住はこの僧の影響であったかもしれません。無文禅師は渡元の前に、博多聖福寺無隠元晦のもとに参じています。また雲州の人で京都大徳寺徹翁義享の俗弟で、禅師と同船で帰国した義南菩薩と鎌倉万寿寺にいた中巌円月とともに鎌倉を訪ね、円覚・建長寺に歴住した古先印元三者で、足利直義を訪れましたが、この無隠・義南・古先ともに中峰から嗣法しています。中国の教禅一致、禅浄一致の教養と仏教を引く、当時日本では盛んであった破庵派の禅と、主流であった金剛幢の文芸、これらを修めた無文禅師の名声は高く、雲水が群参したと伝えます。京都妙心寺日峰宗舜(1368~1448)なども参徒の一人でした。ただ三河国『八名郡誌』によれば、この日峰宗舜は本坂道筋三河遠江境にある中峰明本法嗣日顔禅師が開いた正宗寺僧の可能性を記しています。禅師の化によって井伊郷およびその周辺の密教寺院や、禅密兼修の寺院の多くは、方広寺派へ変わったと思います。さらに、方広寺四派鼎立後は、一層の教線拡大が行われました。康応二年(1390)閏三月二十二日、本山寝室において示寂、六十八歳、法臘四十九年。京都岩蔵(右京区)に帰休庵、美濃にも帰休庵(武儀郡)、同国了義寺(現岐阜市)、三河広沢庵(額田郡)、宝泰寺(現静岡市)を開きました。嗣法の弟子に四哲といわれる僧が出て、それぞれ方広寺内に塔頭を創ります。臥雲院開基空谷建幢、三生院開基在徳建頴、蔵龍院開基仲翁建澄、東隠院開基悦翁建誾で、それぞれ方広寺住持に任命されました。
 
 龍泰寺の開創は、無文禅師の弟子たちによるものかどうかはまだわかりません。ただ井伊谷円通寺などは、無文禅師が仏事を修したころには方広寺末になっていましたが、その後黙宗瑞淵により、妙心寺派龍泰寺末に変わりました。


井伊谷龍潭寺史(1)-方広寺以前<ⅰ>

2022-05-06 09:27:43 | 郷土史
龍潭寺についての歴史は、享保年間に書かれた祖山和尚の『井伊氏伝記』によれば、往古地蔵寺、のち自浄院、龍泰寺と改名され、永禄三年炎上ののち龍潭寺となったといいます。自浄院は井伊氏祖共保出誕のとき産湯の古跡と述べています。これが事実であれば、地蔵寺は「井伊氏系図」共保の十一世紀後半以前には既にあり、自浄院が十一世紀後半までに建てられたということになります。
 他方寛政三年(1791)に『遠江風土記伝』は元中二(1385)年八月十日井伊館で薨かった後醍醐天皇第二皇子宗良親王香火の地であり、その法号冷湛殿を以て冷堪寺とした。のち荒廃していたのを、井伊直平・同直宗・直盛が黙宗禅師を懇請して自浄院に住せしめた。この地は井伊氏祖の香火のちでしたが、狭隘でしたので、天文年間(1532~1555)井伊信濃守直盛が龍泰寺に改め、禅師を中興開山としたといいます。これによれば、十四世紀末冷堪寺が創建され、その後荒廃していた。一方十一世紀後半井伊氏祖共保の死後建てられた自浄院が別にあり、十六世紀中頃自浄院を院家とするかたちで、直盛が龍泰寺を創建し、黙宗禅師を招請して中興開山としたことになります。
 後者は宝永元年(1704)の書写本(長野県大龍寺蔵)が残っている江戸時代に書かれた、著者成立年代不詳の『信濃宮伝』によっていますが.
この本はたんなる物語のようなもので、史料的価値は非常に低いといわれています。宗良親王の薨去の時期・場所は記録に残っていません。この「冷湛寺殿」という法号は龍潭寺の存在があって、逆に名付けられたのでしょう。それゆえ祖山和尚はこの記事を載せなかったのです。「
多方[地蔵寺」という小字は明治の公図に御手洗の井の側にありますが、十一世紀後半以前に遡るかどうかは不明です。次の自浄院は八幡宮の御手洗の井の継承者ですが、八幡宮は八幡宮寺といわれるように、仏教色の強い社です。

 まずこの地域の古い仏教を見ていく必要があります。画期のひとつは奥山方広寺開創だと思われるので、それ以前を取り上げていきます。

 寺伝では、龍潭寺は奈良時代行基開創と伝えます。五来重氏は「行基開創寺院」と伝承される寺院について、行基の集団は「聖集団」であり、「律令下の官寺と違い、行基が建てた畿内「四十九院と伝えられる寺には、ほとんど例外なく三昧聖がおったのであり、火葬場がついて」いた。そして「庶民のための民間寺院の開創者に行基があてられているのは、行基が聖であり菩薩であったことと、葬送の道を教えたということが、主な理由である」と述べています。(『日本人の仏教史』五來重著 角川書店 平成元年)葬送は官僧の行いえないところですので、私度の沙弥・優婆塞である聖の所業であったのです。また宮家準氏は、行基が「法相宗を日本に請来するとともに各地を遊行して土木工事に
もたずさわった道昭」の弟子であり、「葛城で修行したが、その後薬師寺に属し、民間布教と社会事業に従事し、後には東大寺大仏建立の大勧進を勤め」(『役行者と修験道の歴史』 宮家準著 吉川弘文館 2000年)ていたといいます。ここでは、勧進聖であり、その根は、遊行の聖であった道昭の教えであり、修験の山葛城山での修行にあった、といっているのです。こうして行基開創を伝える多くの寺院は、葬送も行う聖集団や山林抖擻や木食行などの苦行的な持経者、あるいは修験者と関係していたと考えられます。龍潭寺も行基開創を伝える寺院のひとつです。そこで、井伊谷やその周辺における聖集団や山岳信仰、修験との関係を少し見ていきます。

【東光院】
 方広寺以前の古刹として、まず取り上げなければならないのは、渋川東光院でしょう。寺伝では、井伊五郎直之が正安元年(1299)広度寺を建立し、紀州由良興国寺心地覚心(心地は房号で、無本が道号ですので、以下無本覚心とします)の上足幽泉意公を請じたのが始まりであると伝えます。直之は正和五年(1316)十月二十四日に亡くなります。法名を前遠州太守温渓良知大禅定門という7ので、官職名からは井伊家嫡流にあたります。また広度寺殿ともあります。渋川神明宮棟札に、正安二年(1300)正月造立で、願主「井伊五郎藤原直之」とあり、詳しいことはよくわからない人ですが、確かにこのころ生きた人で、東光院の前身である広度寺の開基なのでしょう。当山鎮守八幡宮を、応永三十一年(1424)十一月、井伊直貞法井道賢が修造しているので、この寺がこれ以前に存在していたのは確かです。また応永年中(1394~1428)東光院に改称したといいますが、その時の檀那の法名を「東光院殿仁仲誠安居士」と、年不詳棟札にあって、俗名西尾半田というともありますが、この棟札の真偽については不明です。
 開山幽泉意公は、無本覚心を派祖とする法燈派の法系図(例えば『禅宗大辞典』法蔵館)には出てきません。むろん、法を嗣いだが、法系図から抜け落ちたということはありえます。さて、この「意公」の「公」は字の「幽泉」とのつながりが認められず、尊称でしょう。諱の上の字は通字だと思いますが、師僧との関係は不明です。それでこの方面から、授業師あるいは法を受け継いだ師の名前をたどることはできません。とはいえ、渋川に隣接した地に「別所」地名があり、行基にちなむと伝承する「四方浄」という地名があって、こうしたことからも、先に述べたように、聖や修験者と関係するのではないかという気がます。五来重氏によれば、覚心の信仰は禅・密教・念仏の混合で、禅は高山慈照、東海竺源、孤峰覚明が承け、真言と密教は高野山萱堂聖が承けたといいます。萱堂聖は唱導の文学と芸能に特色があり、高声念仏と鉦叩念仏のほかに踊念仏も興行したといいます。(『高野聖』角川選書1984年)これは、この地に根付いている大念仏に繫がります。また金王丸の墓と言われるものが渋川にありますが、彼の墓と称するものはほかにもあり、たとえば埼玉県児玉町塩谷などにもあります。さらに『平治物語』では、土佐坊昌俊と同一人物とし、『吾妻鏡』では、この人物は源義経を討とうとしたが、逆に捕えられ六条河原で首をはねられています。おそらくこうした有名な物語を、唱導して勧進する聖がいたということです。これも高野山萱堂聖の特色の一つです。もうひとつ考えられるのは、法燈国師無本覚心は、鎌倉後期、那智山に近い妙法山阿弥陀寺を再興したといいます。阿弥陀寺は納骨と卒塔婆・石塔建立・念仏修善の場であり、今も死者は必ず妙法山に詣でて寺内の無間の鐘を撞くと言われていると、上田さち子氏は述べています。(『修験と念仏―中世信仰世界の実像』平凡社選書2005年)さきの大念仏も死者のための鎮魂の踊りです。多分これ以前に、実際に死者供養に関わった念仏集団が、渋川周辺に住んでいたのでしょう。いずれにしても、真相は藪の中ですが、聖系の念仏者が開いた寺が、広度寺だったのではないでしょうか。さらに別の側面からいえば、法燈派は南朝と深い関わりを持っています。法燈国師無本覚心の法嗣である孤峰覚明は、南朝専一の人で
その嗣子古剣智訥も、師の意志を継いだ僧でした。南朝後村上天皇の問法を受け、のち仏心慧燈国師の特師号を賜与されています。古剣は、奥山方広寺無文元選の画像に賛を作っています。
 いうまでもなく、井伊郷は南朝と関係深い地です。それで南朝と関わりの深い、法燈派の一部が根を下ろした可能性もあります。
この法燈派は、勧進に大念仏や唱導を業とする聖集団でした。この地における、その最初の頭目が幽泉□意で、高野山萱堂聖の系譜を引く僧ではないかと想像します。