奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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イナサの国=龍蛇神のクニ(1)ー浜松市北区旧引佐郡 

2022-02-25 17:48:51 | 郷土史

 それでは「イナサ」とは何を意味するのでしょう。辰巳和弘氏のいうように「イナサ」は「イナ+サ」と考えられます。しかし意味は全く違います。「サ」については後で述べることにして、まず「イナ」について考えることにします。

【イナ=稲説】

 永留久恵氏は対馬上県の「伊奈」鎮座の式内伊奈久比神社由緒(神社明細帳)を引用して、白鶴が稲穂をくわえ来てこれを落とした時、鶴は大歳神という稲作の神に変じ、稲穂を榎田に植えて神饌を得。これが対馬の稲作の初めで、それゆえ伊奈の地名の由来は稲からきていると述べています。永留は、伊奈の地そのものには稲作の遺跡はないが、隣の志多留には石包丁が出土し、榎田もここにあると言います。それから考えれば「伊奈久比とは稲喰であろう。それは、新穀の稲米を神(稲魂)に供える新嘗の古俗を思わせる。『延喜式』に伊奈久比神社と記され、『倭名類聚抄』に伊奈郷の地名がある。ともに対馬上県郡となっている。伊奈の地名が稲に由来するというのは、世に多いこじつけの地名説話と違い、説明になる」と考えています。そして、その稲を運んだ鶴は、朝鮮半島から飛来したもので、この説話の原郷が朝鮮半島にあるとしています。

 ところで、かの朝鮮半島には「稲」を用いた地名は存在しません。稲は朝鮮語では、訓では「ぴょ、音で「ト」です。しかし、『三国史記』や『三国遺事』を見ても、現在の韓国・北朝鮮の地名をみてもそうです。ただし、里より下の字名までは手が回らなかったのですが、おそらくないと思います。稲は禾で示されます。禾は稲も意味しますが、古訓アワ(粟)で、穀物の総称をも意味します。ただし米・田を使用した地名は存在します。そうだとすると、この「伊奈=稲」は日本で名付けられた可能性が高くなります。朝鮮半島から来た地名ではありません。ですから、ひとつにはイナ=稲という有力な説があります。しかし、これは日本で付けられた地名です。新羅とは関係ないと思います。

【イナ=猪名部説】

 第二に長野県伊那谷の「伊那」のように、地名のいわれには諸説ありますが、有力なものとして、古代に猪名部が開拓した地にちなむという説があります。イナベはほかに為奈部とも伊奈部とも書かれます。伊勢国員弁郡もイナベ郡と読み、古代の豪族猪名部氏に因む地名といいます。ここには式内猪名部神社が鎮座しています。

 「紀」では、応神天皇三十一年条に「能き匠者」を新羅王が貢納したのが、猪名部の祖であり、また雄略天皇十三年九月条に「木工韋那部真根」が登場するので、「紀」の通りであれば、五世紀代には猪名部、あるいは為奈部の前身の技術集団が存在したことになります。「猪名部」が木工を技とする職業部であるのに、鍛冶部のように技能による名が付いていず、意味不明の名が付いているのは、新羅からの集団名を引き継いだからではないでしょうか。

 ただし『国史大辞典』によると、摂津国為奈氏の本拠は、河辺郡為奈郷(兵庫県尼崎市)です。この地の為奈氏は「記紀」では、宣化天皇皇子恵波王(上殖葉皇子)、『新撰姓氏録』右京・摂津国皇別、『旧事本紀』の『帝皇本紀』、『三代実録』貞観五年(八六三)十月条・元慶四年(八八〇)十月条では同天皇皇子火焔王の後とします。しかし、宣化天皇の在位は六世紀前半で、伊那部(その前身)の渡来後ですから、この為奈氏はかれらの名による地名成立後に移り住んで来たことになります。

 同じように、「姓氏録」左京神別に「猪那部造、伊香賀色男命之後也」、同摂津諸蕃「猪那部首、出百済国人中津波手」、同未定雑姓(摂津)「為奈部首、伊香賀色乎命六世孫金連之後也」とあるのも、六世紀以降の出来事に関係するのではないかと思います。ともかく、『姓氏録』が編纂された平安時代の弘仁六年(八一五)には宣化天皇皇子や物部氏の一族の後と認識していた「イナ」部氏がいたのは事実です。こうしたことについては、井上満郎氏が、皇別(ここでは宣化天皇皇子)・神別(祖先がが物部氏)・諸蕃(中国、朝鮮の王族が祖)とか言うのは、「いわゆる自主申告でして、実際史実に合っているかどうかということとは、別問題」として、秦氏を取り上げ、『記』から『書紀』へ、さらに『姓氏録』へと「氏族の先祖、あるいは成り立ちというものが、時代につれて変わる」ものだと述べています。いまここもそういう例にあたるのでしょう。

 延喜式摂津国豊島郡五座のうち為那津比古神社二座(大阪府箕面市白鳥)もイナベとの関係が考えられます。ここは秦上郷に含まれます。『日本の神々』3は「紀」仁徳三十八年猪名県の地があり、為奈、為那、為名とも書かれ、いまでは稲、新稲、稲川という地名で残っているとします。 応仁紀三十一年条に見える新羅から武庫(摂津国武庫郡、現西宮・尼崎市)に遣わされた造船・木工の匠者「猪名部」という技術集団が、武庫から豊島に入り、秦氏となり、この神を祀ったもので、もともとは律令以前の、この地方の土着豪族の首長の神格化であった産土神であった。つまり猪名県主氏のことで、「地名(ここでは為那)・ツ・ヒコ」は、もっぱら欠史時代の伝承の土着豪族として登場し、これが当社すぐ西の如意谷出土の大型袈裟襷文銅鐸にかかわる集団になります。銅鐸は弥生時代の製造になり、応仁紀来朝の猪名部とは無関係となります。「イナ」地名、あるいは「猪名県主」の名は、仁徳天皇以前応神天皇代に来朝の猪名部の名です。新羅人が秦氏になるのは、新羅の直接的前身が辰韓十二国の斯盧ですが、その辰韓は、『後漢書』辰韓伝・『三国志』魏志東夷伝等などで、秦始皇帝の労役忌避のため逃亡した秦人が、馬韓から土地を割譲されて住み着いたのを濫觴とするからです。つまり、もともと秦氏だからです。もうひとつ肝心なのは、為那津比古神社二座のうち一座は為那津比売を祀っていて、現在廃墟と化しているが、そこに高さ十三丈という人型の巨岩があり、『摂津名所図会』に「この岩に大己貴命と少彦名命が生れました」と書かれています。大己貴命は、その幸魂奇魂を大和の三諸山に斎き祀れ、と述べたように蛇信仰と関係することを述べていることです。

  イナベがこうして、やはり朝鮮半島とつながりのある氏族であるとすれば、「イナ」の語源もまたそこにある気がします。

 朝鮮半島での「イナ」地名はほとんど見ることはないのですが、有名なものでは、高句麗国内城の山城である「尉那巌」城(中国吉林省集安県)が『三国史記』「高句麗本紀」第一、瑠璃明王二十二年条に出てきます。この城は大武神王十一年に漢軍の侵略を受けたとき、臣の乙豆智が「漢人たちは、私たちのいる岩山には、水泉がないと思っているようです。それで長期間にわたって包囲し、私たちの苦しみ疲れるのを待っているのです。(彼らの考えの間違っているのを示すため)池中の鯉をとって、これを水草で包み、これに美酒を添えて、漢軍に送って犒うのがよろしいでしょう」と提言した記事を載せています。尉那巌の「巌」が文字通り岩山を指すとすれば、「尉那」は大勢の兵士が何日にもわたって籠城しても困らないだけの池泉があることに関係するのではないか、それゆえ水神(竜神)を祀っているのではないかと想像できます。

 イナ部のイナの意味は良くわからないのですが、なんとなく朝鮮半島と繋がっているようです。そして、龍蛇神と関係があるらしい。これが二つ目の説です。

 

 


イナサの国=龍蛇神のクニ(3)ー浜松市北区引佐

2022-02-23 09:38:20 | 郷土史
p> 「筑前国風土記」逸文「怡土郡」条に、仲哀天皇に対し、ある男が「高麗の国の意呂山に、天より降り来し日鉾の苗裔、五十跡手是なり」と答える記事があります。天日鉾は新羅の王子で、(『日本書紀』垂仁朝に来朝(『紀』)、では神代渡来(「播磨国風土記」))それゆえ「意呂山」は新羅にあることになります。岩波書店版古典全集『日本書紀』の本文上欄の註に、「朝鮮東南海岸の蔚山。新羅と高麗」三国時代の高句麗)との境の地方であるから高麗といったのである」とあり、<「意呂山」は蔚山のこととしています。『三国史記』「雑志第四地理」によれば、蔚山は紀元五百年ころ新羅に帰属し、それ以前の小国名は于尸山(우러산ウロサン)です。

 これにたいして、鮎貝房之は神功紀摂政四十九年「意流村」(オルノスキ)も似た音で、百済王都所在地「尉禮」と日本音としても朝鮮音と同借字とするが、州流湏祇(ツルスキ)の古い名と見るべし。朝鮮語「籬」「檻」をuli)といふ。「意流」は此の語に當てたるもの。襄陽郡護府、故俗名蔚山とする、と書いています。籬・檻の意味は「まがき・かこい」で、囲まれた村の意となります。また李炳銑も似た説を述べています。すなわち「<意流><宇流>は新羅の王邑に由来するもので、この<意流・宇流>は王邑を意味するəra-buruのəra、またはその異形態uruの表記」とします。しかし、新羅の王邑は神話伝説的な時代は不明ですが、少なくとも、実質的新羅建国と言われる奈勿尼師今元年(三五六)以降は大体金城(慶尚北道慶州市)にありました。蔚山広域市は南隣となり、ここは王邑の地ではないのです。

 朝鮮地名研究者の坪井九馬三によれば、「蛇神即ち八俣ノ大虵は、新羅に阿良、阿那、烏禮、烏也、百済に慰禮、知留として崇められ」ていると言います。そのうち、「<阿良>alā)は内地のナカラス(名烏)、八俣ノ蛇に當り、仏教経典の龍王、印度史のnaga gotraのナガのこと」と述べたあとで、慰禮城も同義だとしています。ちなみに「慰禮城」は『三国遺事』「王暦第一百済 」温祚王条に、「慰礼城に都した。あるいは虵川ともいい、今の稷山」と述べ、虵(蛇)に関係する地名だとわかります。 これらは、「蔚山=オロ山」と音の上からも意味上も同じと考えて差し支えないでしょう。こうして、「オロ(於呂)」は朝鮮半島で龍蛇神信仰に関わる地名として、広く分布していたのです。

  次に、朝鮮半島と九州の間にある対馬について、平凡社版『長崎県の地名』は上対馬町浜久須(倭名抄上県郡久須郷)に、於呂岳があり、雷神に関係するといい、その西にある朝日山古墳は、五世紀前葉あるいは後葉の対馬北部最大の大型箱式石棺を持ち、初期須恵器・伽耶系陶質土器などのほか、鉄製の利器が多いことは島内に例がないといいます。また同じく対馬には、「於呂志加浦」の地名があり、「志加」は、この浦で四集落共同のイルカ漁を行うことから四箇浦と称し、鹿浦と記す例もあるという。「対馬でシカの地名は各地にあり、それは海神磯良を祀る場合が多い。オロシカ浦に神功皇后の伝説があることから、磯良を祭神とする志賀の神が祀られ、オロはオロガム(拝む)、またオロチ(大蛇)にも通じるとしますが、オロ岳が雷神すなわち龍蛇神を祀っていることから、ここもオロチの意で良いでしょう。さてもうひとつ、朝鮮半島と九州本島の間に、小呂島があります。「島名は於呂とも記され、(「続風土記附録」など)<海東諸国記>所収の日本国西海道九州之図には<於路島>とみえる。<続風土記>は大虵島と記し、<おろ><おろち>のこととし、かつて島に大蛇がいたことからこの名がついたと伝える」と『福岡県の地名』(平凡社)にあります。中世には宗像社領で、建長四年(1252)の文書に「小呂島」と載っています。 

 このように、朝鮮半島と九州の間にも「オロ」地名は龍蛇の意として伝承されています。

 つまり「オロ」地名は龍蛇神に関わる地名として、朝鮮半島で生まれ、玄界灘に足跡を残し、九州に伝わったもので、それがさらに本州の天竜河畔に残ったのです。時代はずっとあとの江戸時代になりますが、内山真龍著『遠江国風土記伝』では、於呂神社側の赤佐の地は赤蛇の転であると述べています。

 伊勢神宮の鳥名子舞の演目のひとつの舞踏歌第五段に「オロノミヤ」がでてきます。「オロノミヤノ。マヘノカワノコト。カワノナガサ。イノチモナガリトミモシタマヘ。」とあり、宮の前を大きな川が流れていることから、この川は麁玉川(天竜川)であると考えられ、それゆえ「オロノミヤ」麁玉郡式内於呂神社のことであろうと思われるのです。しかし原位置は現在とは異なっていたでしょう。おそらく、近くの椎ケ脇明神がこれだと思われます。この神は龍神=水神であり、天竜川が平野部に流れ出る首の付け根付近に鎮座しており、中世の渡し舟の地とみられる永島からもそれほど離れていないことから、古代の渡もこの近辺にあったはずで、とにかく重要な神であったことでしょう。先の『風土記伝』は式内猪家神社の後身としますが、猪家神社は長下郡の神で天竜川でももっと下流の神です。「椎」は『常陸国風土記』「行方郡」条に「夜刀の神(蛇)、池の邊の椎株に昇り集まり」、「今、椎井の池と號(なづ)く」とあって、蛇が現れるのが椎の木であったり、椎ケ脇神社(浜松市浜北区)の祭神が龍(蛇)神であるように、水神=龍蛇の依りましです。ちなみに井伊氏の祖赤佐氏の氏神であったと推測され、その一族の奥山氏は自らが建立した奥山方広寺の鎮守神に据えています。

 

 

 

 

 


イナサの国=龍蛇神のクニ(4)ー浜松市引佐郡

2022-02-19 20:43:02 | 郷土史
立須の峰・天白磐座遺跡・白岩水神社は深い関係があります。「立須」は式内「大煞」神鎮座地で、「煞」は殺と同義です。つまりこの神は寿命を司り、御神体は奇岩重々たる峰から「龍」です。これが里に下ると「蛇」になり、天白磐座に鎮座することになります。それはちょうど冬至の日の落ちる方角にあり、太陽の死(陰)を意味すると同時に生(陽)へ転換するいわば再生の地なのです。この磐座自体は陽神(男性器)ですが、ちょうどほぼ真北に白岩神社=うなぎ井戸があります。「う」は烏で黒を象徴し、方位で言えば北、象意は水、すべて陰に属します。しかし「なぎ」はサンスクリット「ナーガ」の転化、すなわち蛇です。蛇は陰陽五行では南を指します。つまりこの蛇は天白磐座からやってきたのです。井戸=深い穴は女性器の象徴で、磐座の神はここに妻どいするわけです。それゆえ、子を成すことで、永遠の命と豊穣を保証する神なのです。ここにいる蛇はやがて成長すると天=立須に登り、龍となります。こうしたことが悠久の時を紡いで繰り返されてきたのです。  立須の峰に上ると東に三方ヶ原台地が眼下に広がります。ここは太陽崇拝の峰で、それゆえ最初は大和三輪山と同じ蛇神を祀っていたのですが、のち竜神信仰へとかわったのでしょう。三岳山にある三岳神社は中世になって建てられたのですが、ちょうどタチスの峰のほぼ真東にあたり、春分・秋分の日の太陽を配する位置にあります。ここからも、かの峰の太陽信仰を表わされています。  自然の偶然の配置により、白岩水神社はタチスの峰からは冬至の日の太陽の沈む方角にあたり、死と再生の位置になります。この神社を新しいという学者もいますが、天台宗の開祖最澄の祈願文(別稿)の白磐神は遠江の地に、該当する神が見当たらずおそらくこの神で良いと思います。過去、この神社の前に池(泉)があったということですが、ここにほぼ真南の天白磐座から地下を通じてやってくるのです。  渭伊神社がもと八幡宮(現龍潭寺)の場所に鎮座していたという学者がいますが、井伊氏始祖誕生の井が古代迄遡るということは証明できません。名井と言われる井はほかにもありますが、段丘端ではもっとあり、消長を繰り返したことでしょう。こうした井はよく手入れしないと埋まっていき、また水腐れをおこします。この井は御井でなく、御手洗の井にしかすぎなかったのです。また井をさらうため井の神に石や陶器そのほかを捧げるのですが、江戸時代にはすでに埋まりかけていて、そうした祭祀が行われた形跡はありません。 「イナサ」の意味については別に書きます。