奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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浜名郡の式内社ー英多神社

2022-08-24 20:30:25 | 郷土史
式内英多神社は、写本のうち現存最古といわれる「高山寺本」での訓は「ヱタ」です。これが確認できる最古の訓となります。江戸時代寛政年間に書かれた内山真龍著『遠江風土記伝』は「アカタ」と訓じますが、これはおそらく他例からの類推と、なによりも大字三ヶ日にある惣社神明宮旧神官家縣氏の存在によっています。
 真龍の英多神社比定地はその神明宮で、縣氏旧記を引き、弥和と英多と両社を同地に祀ったと述べています。しかし何か特段の根拠があったわけではありません。
 「英田」という小字は、現在東名高速三ヶ日バス停のある付近大字岡本に残っています。同地の初生衣神社神主家でも、そのあたりを古くから「ヨウダ様」と呼んでいました。その小字英田の東の台地下の田が小字「陽田」です。つまり「アガタ」という名称はなく、平安末期から鎌倉初期以来「ヱタ」や「ヨウダ」という呼称しか存在しなかったのです。その「英田」側の初産衣神社東隣地楠木遺跡には奈良時代の寺院祉があり、その神社境内神目代屋敷遺跡から、祭祀遺物の奈良時代の土馬や手づくね土器が出土したりしています。
 すなわち式内「英多神社」は、この岡本にあったのであり、「エタ神社」と呼ばれていました。鎌倉時代の浜名神戸司も、おそらくこの岡本に屋敷があり、大江苗字を名乗っていましたが、これは「大枝」すなわち「大」は美称ですので、「枝=江田」を苗字の地としたのです。
 
 この岡本の地が古代英多郷の中心であったことは動かせないので、当然英多神社もこの地にあったことになります。

浜名郡の式内社ー弥和山神社

2022-08-15 17:27:51 | 郷土史
式内弥和山神社
寛政風土記伝は「只木村神明宮、号弥和山、俗曰弥也山、檜山也」と述べています。しかしおそらく、逆で「ミヤ(宮)山」と呼んでいるのを「ミワ(弥和)山」と聞き違えたのだと思います。内山真龍は遠州各地を実地踏査した学者です。しかし、以前にも書きましたが、『日本三大実録』遠江国稲佐郡蟾渭神を式内渭伊神と間違えています。これは同時代に歴史的仮名遣いの研究が低調だったことも一因でした。蟾渭神は「ひきぬま」神と読みます。長上郡ひきぬま郷の神で、式内社に推薦されなかったか、天竜川の洪水で跡形もなくなったのでしょう。このほかにもいくつかの誤りを指摘できます。そこで、真龍の書は必ずしもすべて正しいわけではありません。
 話を「弥和山神社」に戻します。
 この神社の山容は三輪山型ではありません。山塊の一つが麓に降りてきた河岸段丘上の先端に位置します。またこの谷の歴史は、縄文時代早期の人骨片を出土した、神社境内と言って良い地にある只木遺跡を別にして、古代に遡る遺跡は存在しません。この宮山自体も鎌倉時代以降の地で、只木神明宮所蔵掛仏銘の天福元年(1233)前後以降の遺物しか存在しません。祭祀用と思われる瀬戸産灰釉瓶子なども神社すぐ側の畑から採集されていますが、やはり鎌倉中期ころのものでしょう。この只木神明宮以前に、この只木の谷に人が関わった形跡はありません。この只木御園自体は鎌倉時代前後に浜名神戸の人々の奥津城として開発されたもので、それを契機に御園として成立したのです。それゆえに、ここに式内弥和山神社があったという説は、疑わしいといわざるを得ません。
 また『風土記伝』は、大字三ヶ日にある惣社神明宮の旧神主家縣氏旧記記載とする「三輪神と英多神が同じ地、つまり惣社神明宮の地に祀られていたという説も引いています。しかし、「英多神社」は惣社神明宮の北にある川の北の丘陵上岡本に存在したことはほぼ確実なので、この説も疑わしいものと言わざるを得ません。

 それでは「弥和山神社」はどこにあったのでしょうか。
 それは現在のところ不明と言うしかないのです。一説には鵺代の板築山とする説を立てる人もいますが、確証があるわけではありません。