井伊氏の初代を含みそれ以前の系譜は神話伝説的でり、おそらく鎌倉以後とくに室町時代に形を整えたものと推定されます。室町時代の15世紀代には藤原北家に出自を求める系図の原型ができています。ところがこれが固定的なものでなく藤原南家に出自を求める系図も存在します。そこで同じ平安時代以来在庁かんじんであり、井伊氏のように「介」という官職をもち、ほぼ確実に南家の出である「野辺氏」を取り上げます。
『尊卑分脈』によれば、野辺氏は藤原南家乙麿流時理孫入江惟清弟入江権守清定の子太田権守宗清の子に野辺三郎宗直が出ます。これがおそらく野辺氏祖でしょう。生きた実年代は資料がなく確定できませんが、清定兄船越四郎太夫惟綱の孫岡部泰綱が『東鑑』文治三年(1187)三月条に記載され、ほか『平家物語』『曽我物語』にも出てきます。しかし他方入江氏祖惟清六代孫原三郎清益は『東鑑』によると、一の谷合戦(1184)に義経に従い、曽我兄弟仇討(1193)の時疵を負うといいます。年代的に幅はありますが、二人は平安末期から鎌倉時代にかけて生きた人物だと思います。だとすれば、野辺三郎家直も大体同じ時代でしょう。『尊卑分脈』には野辺「介」という肩書はついていませんが、建治元年(1275)五月日「六条八幡宮造営注文」に「野辺介跡」とあり、この「跡」が「寛元二年(1244)十二月幕府追加法<付父祖之跡知行>の意味」(海老名尚・福田豊彦)だとします。つまり鎌倉幕府成立期に遡って所領を対象として御家人役賦課を記したものです。したがって「野辺介」という名称は少なくとも鎌倉時代以前ということになります。
十一世紀末から十二世紀初頭以降 の国衙には国司遙任化進行により、「知行国主ー受領国司(大介)ー目代という命令伝達経路が再編されていき、その受皿として一方で目代の統括する留守所が形成」されるのです。前代からの国衙諸機構である「所の上に、国内郡司豪族の結集した「官人」と「所」の事務機構を分掌する専門集団の地方官僚の「在庁」とに二区分」されます。「在庁官人は「所」の職務を分掌し、職(称号と在庁名)を相伝する。官人は国司の四等官制の介以下の任用国司になぞらえて、介・権守・権介などの称号を持つが、これは知行国主・受領国司の補任と職の相伝によって成り立ったもので、朝廷の除目(県召除目)とは直接に関係がない」(峰岸純夫)といいます。野辺氏が「介」を称した時期は特定できませんが、たとえば三浦の「介」が保元元年(1156)から平治元年(1159 )の間だという推定(高橋秀樹)があります。このことから野辺氏が平安末ころ「介」を名乗り、留守所のトップにいたことは間違いないでしょう。そしてそれは馬允・右馬允という武官であり、「入江」「船越」「蒲原」「岡部」「原」などの駿河地域に勢力を築き、「権守」を称するような力ある在庁官人一族がやがて遠江に地盤を築くのです。こうした流れの中で、平将門追討の功があり、工藤氏祖でもある藤原為憲が祖であることを誇るかのように為憲の官織「遠江権守」を名乗る惟清四代孫清仲が「遠江権守」を称します。そして同様に従兄弟の野辺家直も「介」となります。
野辺介が遠江国衙留守所で最も勢力を持っていたことは、建治元年(1275)五月日「六条八幡宮造営注文」における御家人賦課額が所領規模を表すと推定されるので、遠江国で複数人と考えられる山名地頭等を除くと、最大の六貫を数え、以下赤佐左衛門跡・貫名左衛門入道跡・内田庄司跡各五貫文、平*太郎跡・左野中務丞跡各四貫文、井伊介跡・西郷入道跡・東西谷五郎跡各三貫文とあり、井伊介に比べると二倍の額=所領高となる。これからすると、井伊氏一族とする赤佐・貫名氏は所領高といい、国衙見附に近いという地理的優位性からも、井伊氏に先行した豪族あるいは軍事的存在であったと考えられ、井伊氏がむしろこの二者のあとに系図的には赤佐氏から派生したと考えたほうが合理的であろう。
ついでに言っておくと、藤原南家相良氏系図や日蓮関係の諸系図における井伊氏の扱いは歴史的事実を考慮しない後世の偽作であることは論証してきました。
峰岸純夫『日本中世の社会構成・階級と身分』校倉書房 2010年
高橋秀樹『三浦一族の中世』吉川弘文館 2015年
『尊卑分脈』によれば、野辺氏は藤原南家乙麿流時理孫入江惟清弟入江権守清定の子太田権守宗清の子に野辺三郎宗直が出ます。これがおそらく野辺氏祖でしょう。生きた実年代は資料がなく確定できませんが、清定兄船越四郎太夫惟綱の孫岡部泰綱が『東鑑』文治三年(1187)三月条に記載され、ほか『平家物語』『曽我物語』にも出てきます。しかし他方入江氏祖惟清六代孫原三郎清益は『東鑑』によると、一の谷合戦(1184)に義経に従い、曽我兄弟仇討(1193)の時疵を負うといいます。年代的に幅はありますが、二人は平安末期から鎌倉時代にかけて生きた人物だと思います。だとすれば、野辺三郎家直も大体同じ時代でしょう。『尊卑分脈』には野辺「介」という肩書はついていませんが、建治元年(1275)五月日「六条八幡宮造営注文」に「野辺介跡」とあり、この「跡」が「寛元二年(1244)十二月幕府追加法<付父祖之跡知行>の意味」(海老名尚・福田豊彦)だとします。つまり鎌倉幕府成立期に遡って所領を対象として御家人役賦課を記したものです。したがって「野辺介」という名称は少なくとも鎌倉時代以前ということになります。
十一世紀末から十二世紀初頭以降 の国衙には国司遙任化進行により、「知行国主ー受領国司(大介)ー目代という命令伝達経路が再編されていき、その受皿として一方で目代の統括する留守所が形成」されるのです。前代からの国衙諸機構である「所の上に、国内郡司豪族の結集した「官人」と「所」の事務機構を分掌する専門集団の地方官僚の「在庁」とに二区分」されます。「在庁官人は「所」の職務を分掌し、職(称号と在庁名)を相伝する。官人は国司の四等官制の介以下の任用国司になぞらえて、介・権守・権介などの称号を持つが、これは知行国主・受領国司の補任と職の相伝によって成り立ったもので、朝廷の除目(県召除目)とは直接に関係がない」(峰岸純夫)といいます。野辺氏が「介」を称した時期は特定できませんが、たとえば三浦の「介」が保元元年(1156)から平治元年(1159 )の間だという推定(高橋秀樹)があります。このことから野辺氏が平安末ころ「介」を名乗り、留守所のトップにいたことは間違いないでしょう。そしてそれは馬允・右馬允という武官であり、「入江」「船越」「蒲原」「岡部」「原」などの駿河地域に勢力を築き、「権守」を称するような力ある在庁官人一族がやがて遠江に地盤を築くのです。こうした流れの中で、平将門追討の功があり、工藤氏祖でもある藤原為憲が祖であることを誇るかのように為憲の官織「遠江権守」を名乗る惟清四代孫清仲が「遠江権守」を称します。そして同様に従兄弟の野辺家直も「介」となります。
野辺介が遠江国衙留守所で最も勢力を持っていたことは、建治元年(1275)五月日「六条八幡宮造営注文」における御家人賦課額が所領規模を表すと推定されるので、遠江国で複数人と考えられる山名地頭等を除くと、最大の六貫を数え、以下赤佐左衛門跡・貫名左衛門入道跡・内田庄司跡各五貫文、平*太郎跡・左野中務丞跡各四貫文、井伊介跡・西郷入道跡・東西谷五郎跡各三貫文とあり、井伊介に比べると二倍の額=所領高となる。これからすると、井伊氏一族とする赤佐・貫名氏は所領高といい、国衙見附に近いという地理的優位性からも、井伊氏に先行した豪族あるいは軍事的存在であったと考えられ、井伊氏がむしろこの二者のあとに系図的には赤佐氏から派生したと考えたほうが合理的であろう。
ついでに言っておくと、藤原南家相良氏系図や日蓮関係の諸系図における井伊氏の扱いは歴史的事実を考慮しない後世の偽作であることは論証してきました。
峰岸純夫『日本中世の社会構成・階級と身分』校倉書房 2010年
高橋秀樹『三浦一族の中世』吉川弘文館 2015年
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