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井伊谷 渭伊神社と八幡宮(1)

2022-05-26 19:09:40 | 郷土史
辰巳和弘氏は 平凡社刊『日本の地名 静岡県』における「渭伊神社」の項は誤りで、事実は逆であると言います。『日本の地名 静岡県』は、現龍潭寺の地にあった井伊氏の氏神「八幡宮」が、享禄のころ、もともと現在地にあった「渭伊神社」の地に移遷してきたというものです。移遷時期はともかく、場所に関しては風土記伝ほか多くが同じ説です。辰巳氏が引用したのは「平井文書」だと言います。この文書は未見ですが、同説は「兵頭文書」・『井伊家伝記』も述べています。
 『日本の地名 静岡県』は「山本文書」を参考にしていると考えられます。幕末から明治にかけて活躍した山本金木には「井伊八幡宮御遷座記・龍潭寺建立記」なる文書があります。それには「十二代将軍足利義晴の享禄(1528~1532),天文初メ(1532)八幡宮を殿村(現神宮寺)の薬師山に遷座成シ奉りぬ」とあり、さらにそれについて「渭伊神社ハ此時遷座にアラズ、往古ヨリ今ノ社地ナルベシ」とあります。ただこの中で、遷座した八幡宮が「延喜年代已前に此井伊谷に勧請」されたとも読める文がありますが、これは式内渭伊神社のことです。遠州国学を学んでいた金木が間違えることはありません。この書の後註によれば、山本金木は文政九年(1826)雄踏宇布見金山彦神社神主賀茂日向長男として生まれ、父親が井伊谷山本家の出の縁で、十五歳で渭伊神社(正八幡宮)神主家を相続しました。山本家はその三代前筑前の代に当時神道を統率していた京都吉田家から遠江国神祇道示諭方に任じられ、豊前・大隅と歴代継承してきました。つまり金木は筋金入りの神道家でした。
式内社の比定は主に室町時代後期から始まり江戸時代に盛んになりました。それは京都吉田神社神官家吉田兼倶が唯一神道を唱え、神祇管領長上を私称し、一部神社を除き地方神社を支配下に置きました。さらに江戸時代寛文五年(1685)幕府による寺社統制の一環として「諸社禰宜神主法度」が出され、その中で吉田家に対し全国禰宜神主の位階・装束等の裁許状発行が一任されました。これにより、一部有力神社を除き、全国の神社が吉田家の統率下に入ったのです。吉田兼倶は『神名帳頭註』という延喜式神名帳の注釈書を書くなど、式内社にも強い関心を持っていました。裁許状は神社の位階を含むわけですので、式内社の裁許も当然入ってきます。各神社は古くに朝廷からの認可を得られたという過去は格式上上位とみなし、多少の伝承をもとに、式内社への裁許を吉田家に申請しました。式内社の名称を付した地方神社の多くは、特に江戸時代国学隆盛により延喜式神名帳重視の影響を受け、式内社への名乗を揚げた神社でした。
 現渭伊神社も中世神仏習合時には、その本地薬師仏の垂迹である天白神社でした。天白神社は諸説定まらぬ謎の神です。おそらく水神である河伯(白岩水神社)に対する天伯だと推測されます。
天白磐座遺跡そのものは辰巳氏によると、1,古墳時代前期後葉~後期前葉 2.奈良時代 3.平安時代(九~十世紀前半) 3.平安時代(十一~十三世紀中葉)の四期に分かれます。周辺の北神宮寺遺跡発掘調査によると、三世紀初頭から四世紀中葉(弥生時代終末~古墳時代前期)の竪穴住居の集落跡や方形周溝墓が発掘により確認されています。ただこの後は急速に衰退に向かったとあります。その後古墳時代中期末葉から後期(五世紀末葉~六世紀中葉)には小規模な集落が存在したといいます。奈良時代・平安時代前期の遺物は希薄で、十世紀前半に形成された灰釉陶器埋納遺構や十世紀から十一世紀にかけての遺物が僅かに認められる程度だとします。鎌倉時代後葉(十三世紀後半)に至っても小規模集落の展開とある程度の有力者の土壙墓一基が確認できるだけです。戦国時代前半(十五世紀後葉)に造営開始された集落は江戸時代に続いています。(『北神宮寺遺跡発掘報告書』2009年)川を挟んで南側の「矢畑遺跡」北神宮寺と弥生時代終末から古墳時代前期の状態はほぼ同じで、奈良・平安時代には陶硯類・墨書土器・製塩土器・土馬等が発掘されていますが官衙関連遺跡かどうかは不明です。建物遺構は未検出で、八~十世紀の遺物も少量で、やはり小規模な集落であったと思われます。鎌倉時代の十三~十四世紀の遺物も僅少で、中世十五世紀後半には僅かに存在したと思われる遺構の終わりを迎え、近世には水田と化しています。(『矢畑遺跡』)
 それゆえ天白磐座遺跡の古代を通じての祭祀は、現集落の中心部分の発掘がのなされてないとはいえ、現状から井伊谷そのものが衰退時にある時代のものと推測できるでしょう。にもかかわらず祭が継続したのは、この遺跡が井伊谷のみならず古墳時代のクニ、のちの律令時代の引佐郡(評)全体の祭祀の一環だったからだと思います。そこでこうした面からも、天白磐座遺跡は引佐郡の式内社であったと言ってよいでしょう。
 付言すると、六・七世紀の群集墳が井伊谷内に数多く展開していますが、浜松市西区根本山の大規模な古墳群 の被葬者に対応する集落遺跡がこの近辺に見つからないという例からも、必ずしも古墳の存在が集落の近在を示しているとは思えません。
 
 さて一方の八幡神を見ていきます。
 



井伊氏系図ー築山殿=直平孫娘説

2022-05-21 22:56:22 | 郷土史

「築山御前は井伊直平の外孫か」

 これについては黒田直樹氏が『井伊直虎の真実』で築山殿が直平娘の可能性がほとんどないことを証明していますが、いま異なる視点からこれを考えていきます。
(ⅰ)『井伊年譜』の説
『井伊年譜』を引いた煎本増夫著『幕藩体制成立史』の「家康と井伊氏は、築山殿を介在として姻戚関係」であったので、「この事情に通じていた家康有力家臣が、直政の抜擢を不満としなかった」とし、小和田氏もまた「おそらく、煎本氏の推論の通りであろう」と述べています。煎本増夫氏の論文に記載された『井伊年譜』とは、彦根藩士功刀君章が六代藩主井伊直惟の命により、それまで彦根藩で書かれた、井伊家の歴史を描いた諸書をまとめたものです。したがって、作成のための原資料は別にあったわけです。成立は享保十五年(一七三〇)で、奇しくも井伊谷で祖山和尚が『井伊家伝記』を表した年に当たります。『井伊年譜』には、井伊氏第十三世信濃守直平に六人の子があり、嫡男第十四世直宗といい、その妹が今問題になっている女性です。そしてその弟が龍潭寺三世南渓和尚、以下直満・直義・直元と兄弟が続きます。直宗の子が十五世直盛であり、その娘が次郎法師です。また直満の子が十六世直親であり、その子に直政が出ます。直平娘、直宗妹には、「初爲今川義元側室後義元爲妹嫁関口刑部少輔源親永生一女乃義元爲媒嫁神祖者筑山御前是也」と付記されています。煎本氏はこれを引いたわけです。いまこの説を引く多くの論文が戦国時代の人質説を根拠にこれを是としますが、はたして史料を提示しえないこうした説が流布している現実はどうなのかと、歴史好きの素人からみても「?」を付けざるを得ません。
 
「『井家新譜』と「旧譜」」

 彦根藩で最初に直平娘が「築山殿母」としたのは、松居親久・沢村琴所編纂の『井家新譜』が最初であろうと考えられます。彦根井伊家の諸系図を通覧した野田浩子氏によれば、「序文および凡例によると、本書の編纂意図として、松居は世に散在する野史卑説の中に俗説が多いことを憂い、井伊氏系譜および元祖以来の事績を記すに至った」とし、「書名は岡本宣就の『井伊氏族系図伝記』(通称「喜庵稿」)を<旧譜>とみなし、それに対する新たな系譜という意味で、<井家新譜>とした」と述べています。「喜庵稿」との最も大きな相違点は、「戦国時代の人物関係」で、龍潭寺祖山和尚から『井伊家伝記』の元になる話を、前もって聞き、そこから直平子を四名追加して、その中の長男直宗の妹に「女(築山殿母)」を加えたのです。もしかしたら、参考文献に挙げられた水戸藩「鈴木家譜」の中に秘密なこととして、直政が家康の子という記事があり、さすがに「家康の子」は問題があり、直平の娘を関係者に仕立てたのかも知れません。また有力な傍証として、井伊家家臣の関口氏の聞き取りによった可能性が指摘できるでしょう。しかし、この人物は直系ではないと思います。関口刑部少輔親永(義広・氏広とも)の直系は紀州徳川家の家臣のほうだと考えられます。 こういう人のやっかみからくる噂は、いつの時代にもあり、たとえば五代将軍綱吉の寵臣柳沢吉保も、綱吉の子とする書もありました。
 ただこうした説が出てくる理由の一つに『井伊家伝記』自体の信頼性が非常に低いことも挙げられるでしょう。たとえば井伊直平の後年の事蹟はほとんど曳馬城主飯尾氏の事蹟の剽窃であり、したがって毒を飲まされたことによる落馬での死などはとうてい真実とは思えません。おそらく、既に亡者となっていたがゆえに何にでもなれたのです。

「『井伊家伝記』で加えられた人々」

 そもそも『井伊家伝記』における直平の子に関する記述にも問題があります。 祖山和尚自身が「天正十八年(1590)以後の事は相違無之」と、家康関東移封後箕輪十二万石拝領後は、自信を持っていると述べているのに対し、それ以前は系図・諸書・軍記を資料としたが、諸説あってあまり自信がない、というようなニュアンスのことを記しているので、ここで取り上げるのはどうかと思いましたが、大事なことなので書いておきます。
 まず「井伊彦次郎直満、同平次郎直義傷害の事」という項に、天文十年(1541)頃から武田信玄の指図でその家人が東北遠江井伊領を押領というのは、ご存知のように間
違いで、この時期信玄がこうした行動に出るはずはありません。天文六年ころには確かに井伊氏を含む遠江の武士たちが、今川氏に背を向け後北条氏と組んだため国内は緊張状態にありましたが、同九年には落ち着き、今川義元は遠江経営に本腰を入れてきます。同十二年には三河に出兵しますが、ともかく今川氏にとって、このころの懸念は駿河の富士川以東を巡る後北条氏との争いで、引馬城主飯尾豊前も天文十三年には蒲原城に城番として出張しています。
 直満・直義両名が殺された天文十三年十二月には連歌師宗長の弟子宗牧が遠江・駿河を訪れています。同年十二月十三日に井伊彦三郎の迎えで井伊谷に入り、のちに直満・直義を讒言したという小野和泉守の屋敷に落ち着き、井伊次郎直盛の請を受け、翌十四日歌会を開き、終わると、直盛ほかに見送られて曳馬に急ぎます。ところが、引馬城主飯尾豊前が駿・豆再乱(第二次河東一乱)のため蒲原在城と知り、駿府へ向かいます。同二十一日歌会を興行しています。今川義元が二十四日以降は年越し・新年の準備のため忙しいのでこの日を指定したのでしょう。 こうした記述からは、諸国のさまざまな話が飛び込んできて、歌の指南のほかに、その事情通ぶりから、大小の領主たちが、その情報を欲しがった思われる宗牧周辺には、彼と親しい井伊氏の兄弟二人が、もし駿河で殺されたとしたら、その情報はどこからか入ったはずですが、日記には記されてはいません。直満・直義が駿河に呼び出された日は、まさに宗牧が駿河に向かう道中および滞在中でした。そんな事件が本当にあったのでしょうか。おそらくなかったと思います。そこで、井伊家伝記』の中の直満・直義及び直元を見ていくことにします。
 同書によれば、彼ら三人の生きた証は、ひとつには、永禄八年(1565)南渓和尚侍者御中宛「次郎法師寄進状」があります。それには、「隠龍軒は道哲の爲祠堂屋敷一間瓜作田一反、安渓、即休両人爲祠堂瓜作田弐反」、「円通寺二宮屋敷、南は道哲卵塔」であり、「南渓過去帳」の法名に載る「安渓」・「道哲」・「即休」と記載されています。そして、祖山和尚はそれぞれ直満(次男)・直元(五男)・直義 (四男)と書いています。「三男」がいないのは、これが南渓和尚だからです。
 ところで、「南渓過去帳」と『井伊家伝記』の戒名が多少違います。たとえば、直満は前者では「安渓岱公禅定門」ですが、後者では「円心院殿安渓寿岱大居士」となっています。後者は江戸時代の正徳四年(一七一四)、井伊直政父直親百五十年忌に、彦根藩主井伊直該造立の位牌の戒名であろうと思われます。 もうひとつの証拠とされる「南渓過去帳」では、確かに「直宗・直満・直義・直元」の法名が記されています。『井伊家伝記』には、「直義・直宗」両人は「岡本半助編系図からは落ちているけれども、先の二つの証拠から直平の子であることは明らかだといいます。しかし「岡本半助系図」は、龍潭寺へ飛脚を遣わして尋ねているのです。これは、幕府の命令で系譜作成が通達され、彦根城主井伊直孝代に、藩主の命で家老岡本宣就が祖山先住徹叟和尚代の龍潭寺に井伊家の先祖について尋ねたもので、決して軽い質問ではなかったはずです。その結果、大略「直宗・直義」二人が直平の子という認識であったようです。それゆえ「直義・直宗」は祖山和尚が見つけ出したのでしょう。そのうち、末っ子とされる直元には年未詳三月廿九日付書状が残っていて、過去帳に天文十五年五月十四日死去とあり、その存在は確実です。また、小和田氏が「南渓過去帳」から、南渓和尚が直平実子でないことを証明しましたが、『井伊家伝記』では、南渓和尚を「猶子」ではなく、「直平公実子」と書き、さらに「彦次郎肉兄」としますが、同時代の記録である「南渓過去帳」を信じれば、「実子」云々は信じることができません。つまり「南渓過去帳」が否定していることを、南渓過去帳」によって証明しているわけです。こうしたことからも、『井伊家伝記』を読む際には注意が必要となるわけです。
 ここでの結論は、直満以外の直義・直宗は以前から知られていたかどうかは抜きにして、祖山和尚によって正式に系図に加えられたということです。そして、「南渓過去帳」
にも『井伊家伝記』にも、直平娘は載っていないということです。もし載っていれば、祖山和尚も書いているはずです。
 そこで、「直平娘」がどこで、どの時点で加えられたのかを、検証しましょう。
 
  「彦根藩の事情、危機勃発」

 彦根藩では、初代井伊直政死去後,後継問題で内紛がありましたが、元禄年間にも重大な危機がありました。それは遠州の片田舎である引佐にも、噂が伝えられるような大きな
事件でした。金指近藤氏の家臣で、山奉行であった宮田氏はその日記の元禄十四年条に、「井伊掃部頭様御閉門其上御隠居被遊候沙汰取々なり」と書いています。
 まず、海津氏が引用した『彦根城調査書』を、簡単にまとめてみました。
「将軍(五代綱吉)の寵臣某(老中柳沢吉)井伊氏ノ封地彦根領ヲ羨望スル者アリ、将軍、直興ヲ召シテ増禄轉封ノ内意ヲ諷示ス」。しかし、「直興は築城伝承を記した『御覚書』を提出し、家康と直政・直孝との強い絆による彦根城守護の任務を述べて拒否したことが書かれています。無論これがたとえ事実であったとしても、『徳川実紀』などの公的な書に載るわけがありません。たしかに、元禄十年(1697)『御覚書』が書かれ、一説には柳沢吉保に提出されたと言われています。しかし『御覚書』が書かれた元禄十年当時、藩主直興は、五月十七日、初めて大老が務める徳川霊廟のある紅葉山参詣の先導役を務めました。翌六月十三日に大老を命じられ、以後元禄十四年までその職にありました。それゆえにわかには柳沢保明(のち吉保、以下吉保で統一)云々の話は信じられないのです。直興の身に異変が起こるのは翌十一年に入ってからで、この年七月十四日の紅葉山先導役を最後に、この役を直興以前に勤めていた松平肥後守正容に変わります。そして翌十二年二月二日には、「井伊掃部頭直該在封の間は。謝恩の事ある輩。その邸へまかるべからずとふれらる」とあるように、疎んじられるようになるのです。なぜこうなったのかは、良く分らないのですが、元禄十四年三月二日、病を理由に職を辞して国に帰ります。同十五日次男直通に家督を譲って隠居し、十二月には名を直治に改めます。この十四年は本当に井伊家の危機であったようで、ベアトリス・M・ボダルト=ベイリーは、戸田茂睡著『御当代記』の次の部分を引用して説明しています。
「井伊掃部頭大老之御役御免、是ハ掃部頭申上候ハ、大猷院(三代将軍家光)様之御条目、老中之事、官侍従、知行十万石ニ可限ト云々、然ルニ柳沢出羽守ヲ去年被為任少将候事、御条目ニ違ヒ候と申上候故ト云、此役ハ無覚束人之口也」
 この時点での側用人吉保の地位は、公式には老中の下であったが、吉保はこの時九万二千石で知行高は問題なかったが、官位が少将で老中よりも高く、これが定めに違うと直興は異議を唱えたのです。その意味で「伝統が破られ、事態はより深刻」であったと、ベアトリスは述べています。また吉保は、元禄十三年紅葉山参詣に先導役を勤めました。この役は本来大老の栄誉職であったのです。「新参者(吉保)が自身と同じ官位を授けられたことを、直該(直興)が快く思わなかったことは確か」で、「徳川家の霊廟に向かう際の先導役に吉保が任じられたこのタイミングから、直該(直興)は不満を抱き、最終的に辞職に至った」とし、その後、「六代将軍家宣が死の床に就いていた時に、直該(この時には直治)が大老に復帰させられたのはおそらく偶然ではないだろう。それは、政権内にわずかながら残っていた、綱吉時代に影響のあった者の一人、勘定奉行萩原重秀がついに罷免された時であった。伝統の見張り役であった井伊直該(直興)が政権内最高位の役職を退いたことにより、綱吉は誰に気兼ねすることなく、側用人吉保の地位をさらに固めていった」とベアトリスは言います。
 つまり、たしかに元禄十年、何らかの理由で彦根藩主直興は、井伊家と徳川家の関係の深いことを記す書の編纂を命じました。ここで重要なのは、『御覚書』の内容は、そのときの彦根藩の公式の歴史書であった、『喜安稿』を踏襲していたということです。そしてもうひとつは、藩の浮沈に関わる大変な事態が起こり、本来譲渡を躊躇せざるをえないほど病弱であった直通に家督を譲ったのです。これがのちに、『井家新譜』を書くときに多大な影響を与えたのは間違いありません。

 「「直平娘」の成立」

 そうなると「直平娘」は、『井伊年譜』以前の寛永二十年(1643)に成った『寛永諸家系図伝』所載系図、元禄十四年(一七〇一)成立の新居白石著『藩翰譜』にも載らず、さらに享保一五年(1730)井伊谷龍潭寺祖山和尚が書いた『井伊家伝記』にも、これ以前から祖山和尚と彦根とが、連絡があるにも関わらず記載されていないのは、この説が成立したのが享保年間の『井家新譜』が最初であると言えましょう。この書ものちに彦根藩で公式に認められたものになるのですが、やはり藩主直惟の命で編纂された『井伊年譜』が、公式の井伊家の歴史書となったのです。もちろん、藩の命運がかかった苦い思い出から、徳川家とのより深い関係を記す築山御前の母=井伊直平娘は踏襲され、固定的なものとなったのです。ちょうど井伊家の祖、共保生誕七百二十年を迎えるときに当たっています。

 (ⅵ)追記
 近世大名家として異例の出世を遂げた井伊家には、南北朝以来の度重なる戦乱と一族の数度に及ぶ衰退・壊滅の歴史から、拠るべき古文書も少なく、しかし対象の興味深さから多くの論考が発表されましたが、それらは未だ憶説と伝承に包まれています。つまりそれだけ井伊氏の歴史は謎に包まれた部分が多いということでもあります。参河譜代で もない井伊直政が、なぜ徳川家臣団で最高の地位に登りつめたのか、という問いに対しては、多数派としては、人質として岡崎に入った秀吉母大政所を、直政のみが懇ろにもてなしました。このことを聞いた秀吉それを喜び、秀吉自らが執奏して、ほかの家臣よりも高い、いわゆる公家成といわれる官位である侍従が与えられたことで、秀吉に臣従した家康に影響を与え、家康家臣団最高の十二万石が与えられたという説があります。また家康の家臣団における直政の家臣団構成の特殊性から説いた説もあります。

 ついでにいうと、京都の井伊美術館館長井伊達夫氏が見つけたという新史料二つは部分的にしか知りませんが、「秘説」と書く時点でわたしはあまり信用できない気がします。江戸時代には多くの偽書・偽文書・偽系図が作成され、その多くが「秘」となっています。木俣清左衛門の養子であろうが、この書からそれほど経っていない時期に、岡本半助系図」や「喜庵稿」と異なる書が書かれ、半助などの聞き取りは「秘説」登場の人々にも当然行われたと考えられます。また「川手氏系図」はさらに信用できません。どちらにしても、この史料の全面公開後に各氏が評論するでしょうから。ただ付け加えると、わたしも井伊直虎は男性だと思っています。いずれ。


「参考文献」
小和田哲男「井伊氏の成長と三岳城」(『争乱の地域史』二〇〇一年、清文堂出版)  海津榮太郎「彦根城余話」註(『彦根城の諸研究』二〇〇一年、サンライズ出版)
『井伊年譜』第一巻、国立国会図書館デジタルライブラリー(『井伊年譜』は、それ以前にテキストとなった『井伊家年譜附考』があったという。また『年譜』編輯者功刀君章は彦根藩享保十一年藩主井伊直惟に召し出され、のち延享元年父右衛門隠居後家督相続し、二百石を領す。和漢の学に通ず。『侍中由緒帳』では、初代長昌は遠州出身、井伊直政に召し出され、知行七十石、関ケ原の陣にも供した。(『近江人物志』など)  『井家新譜』部分的に写し参照 『井伊氏族系図伝記』(「喜安稿」)の説明、引用は野田浩子著「彦根藩による井伊家系譜の編纂」(『彦根城博物館研究紀要』8号所収)参照した。閲覧が困難故。  『井伊家伝記』引佐町史料第三集  「東国紀行」群書類従第18輯日記部紀行部  「南渓過去帳」の閲覧ができなかったので、小和田氏の論文を参照  『寛永諸家系図伝』続群書類従完成会編  『静岡県史』資料編7中世三P624
「宮田日記」元禄十四年条、引佐町史料第十一集  『徳川實紀』第六篇、新訂増補国史体系43  黒板勝美編、吉川弘文館  『犬将軍』ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー、早川朝子訳、柏書房2015年  小宮山敏和「井伊直政家臣団の成勢と徳川家中での位置」(『学習院史学』40郷号・二〇〇二年)


龍潭寺史参考文献

2022-05-17 18:16:58 | 郷土史

(註) 桂峰玄昌 文叔と同じ悟渓宗頓を派祖とする東海派の一派である仁済宗恕の法を嗣いだ。玉浦宗珉住持後、妙心寺二十三世となり、退院後尾張瑞泉寺に住し、ここに示寂した。
 
[参考文献]
 「井伊家遠州渋川村古跡事」 『引佐町資料』第4集所収  『五山禅僧傳記集成』玉村竹二著 講談社一九八三年  「明叔慶浚等諸僧法語雑録」(妙心寺派語録二)『瑞泉寺史』  「香村書状」(記事諸余 龍潭寺文書)『静岡県史 資料編 中世4』所収 「国人領主井伊氏と戦国争乱」『西遠江の争乱』小和田哲男   永正四年「井伊直平寄進状」(龍潭寺文書) 『静岡県史 資料編7 中世三』 静岡県編・刊 平成四年  「開山黙宗瑞淵大和尚行実」(龍潭寺所蔵)享和三年(一八〇三)僧某著 同右
所収  『日本人の仏教史』 五來重著 角川書店 平成元年  「日本浄土教成立史の研究」『井上光貞著作集』第7巻 岩波書店 一九八五年  『高野聖』「八 覚鑁と別所聖」 五来重著 角川書店 昭和五十年  永禄六年「次郎法師寄進状」(龍潭寺文書)  『井伊家伝記』享保十五年成立 祖山著 引佐町史料 第三集』(引佐町古文書研究生編 昭和四十七年刊)所収 『静岡県史 資料編5』 『高森町史』上巻前篇 高森町史編纂委員会編、同刊行会刊行、昭和四十七年刊  『岐阜県史 史料編 古代・中世二』「畫像賛」 「文叔瑞郁再住妙心寺山門疏」(飯田市松尾龍門寺所蔵)『信濃史料』巻十―4所収  「遠州伊那佐郡井伊谷 萬松山龍潭寺草創之由来」 龍潭寺文書  『日本人の仏教史』五來重著 角川書店 平成元年  『役行者と修験道の歴史』 宮家準著 吉川弘文館 二〇〇〇年  以下井伊谷の寺院伝承等は、『引佐郡誌
  上』復刻版 引佐郡教育委員会編 名著出版一九七二年(原典は一九二二年)、『寺院概要続 引佐町・細江町・三ヶ日町 ・湖西市・新居町』文化財調査会編一九
  二九年、平凡社刊『日本の地名 静岡県』など参照   「法燈国師覚心と萱堂聖」『高野聖』所収 角川選書 一九八四年  『修験と念仏―中世信仰世界の実像』上
  田さち子著 平凡社選書 二〇〇五年  古剣智訥「無文元選画像賛」(方広寺所蔵)『静岡県史 資料編6 中世二』  「大般若波羅蜜多経」奥書(浜松市天竜
  区春野町大智寺所蔵)『静岡県史 資料編5中世一』所収  「隆俊利銭借請状」(龍潭寺文書) 『静岡県史 資料編7 中世三』  「鷲峰開山法灯円明国師行実年    
  譜」『続群書類従 第九輯上』所収 宮家は「修験道は、日本古来の山岳信仰が外来の仏教・道教や成立神道の影響のもとに平安時代後期に一つの宗教形態をとるにいたっ   
  たものである。この宗教では山岳などでの修行と、それによって得られた験力をもちいての呪術宗教的な活動の二面を有している」と定義します。
  以下、無文元選及びその行状などについては、「深奥山方廣開基無文選禅師業状」(『続群書類従・第九輯下』傳部巻第二百三十八)・『深奥山無文禅師語録』(方広四派  
  編集 京師書林)・『奥山方広寺御開山無文元選禅師行状』 新野徳宗著(大本山方広寺出版 一九九六年)等参照
  以下「金剛幢下」や中国仏教については、『臨済宗史』 玉村竹二著 春秋社 一九九一年参照  「広円明鑑禅師」(方広寺文書)『静岡県史 資料編6 中世二』静岡
  県編刊 平成四年  『遠江風土記伝』内山真龍著 復刻版世界聖典刊行協会  「井伊直盛・隆俊連署状」(龍潭寺文書)  『静岡県史 資料編7 中世三』永禄三年八 
  月「今川氏真判物」同右所収  「新葉和歌集」宗良親王撰 岩佐正校訂 岩波文庫 一九九二年  浪合記」・「桜雲記」・「信濃宮伝」『改訂史籍集覧 第3冊通記 
  類』近藤圭造編輯兼校訂 臨川書店 所収  「南朝皇胤紹運録」(『南朝編年紀略』附録)鹿児島大学附属図書館所蔵 国文学研究資料館デジタルライブラリー
 「南山巡狩録」 『29同 第4冊通記類』 『兵家茶話』日夏繁高著 (山形県)酒田市立光丘文庫 画像一覧  「遠州井伊谷龍潭寺井之由来」・「遠州井伊谷井之由 
  緒」正保元年八月、「差上申一札之事」(井伊家之祖の共保出生の八幡宮御手洗之井戸の帰属について)同年十月など 静岡県史編さん収集資料検索システム
 『今川家譜』永和元年(一三七五)三月条 信憑性に欠ける記事との意見有り  『中世の寺社と信仰』上横手雅敬著 吉川弘文館 二〇〇一年 『河原ノ者・非人・秀吉』 
  服部英雄著 山川出版社 二〇一二年  『天皇と中世文化』脇田晴子著 吉川弘文館 二〇〇三年  五來重『修験道の本』所収 学習研究社 一九九三 岩波仏教辞典 
  第二版  「『増補 無縁・公界・楽』網野善彦著 平凡社 一九八七年(初版は一九七八年) 




井伊谷龍潭寺史(5)-開山黙宗禅師伝

2022-05-15 09:59:07 | 郷土史
「開山黙宗瑞淵伝」
 井伊谷龍潭寺所蔵「開山黙宗大和尚行実」は「往々拠旧記、不下敢以臆断妄有中増損上、其意無他」という姿勢で、享和三年(1803)に、「僧某」によって書かれたものです。多少の間違いはあるとしても、多くは龍潭寺そのほかの黙宗和尚在世時の資料を用いていて、その姿勢は評価に値すると言えるでしょう。「僧某」が誰かはわかりません。
 龍潭寺にとって、というより戦国期の井伊谷にとって、黙宗和尚は最も重要な人物の一人ですが、意外や、まともに取り上げた伝は管見の限りひとつだけです。たとえば、延宝八年(1680)当住徹叟著「萬松山龍潭寺草創之由来」では、寺宝の扇子にかけて、黙宗が美濃瑞龍寺に何年も参敲していたが、終に信濃松源寺において文叔と出会い、そのもとで修行得法し、帰郷後一禅刹を開き、開山第一祖に文叔を迎えた、ということが先の扇子の奇瑞に照応するとあります。つまり黙宗について、簡単に紹介しているにすぎません。『井伊家伝記』ではもっと簡素で、数行に止めています。わずかに、先の「行実」が詳細に伝えているにすぎません。黙宗和尚の伝記を書いた僧が、その優れた仕上がりにも関わらず、自らの名を書かず、たんに「某」としか名乗らなかったのは、何か訳がありそうですが、理由はついにわからないままです。

(ⅰ)僧としての前半生
 黙宗は若いころ、奥山方広寺派正法寺雲庵怡公禅師の下で得度し、修行しました。初名を智淵と安名されました。渋川村万福寺に、応永三年(1396)三月八日付「奉造立万福寺」棟札に「住持大雲智範誌之」1とあり、この寺が早くに方広寺派下に入っているので、この派に通字「智」をもつ僧がいることがわかります。そこでこの派の僧である雲庵怡公は、智淵の通字「智」からも、諱は智怡である可能性が高いでしょう。
そののち何年かして、井伊谷自浄院に文叔和尚が来ていることを知り、その名声を慕い参じました。同じようにまた多くの雲水が参集し、その中には後の文伯瑞璵(後に号九華
)もいました、とこう書きます。
 しかし先に述べたように、文叔和尚は井伊谷には来ていません。江戸時代に入ってそう書かれた資料があったのでしょう。以下、誤解と思えるものはこの類です。
 
 やがてこの地を離れ、足利学校に遊学します。関東管領上杉憲実(1410~1466)が再興してからの足利学校は、「教養も戦争に直接間接に関係あるような書物から得た兵書や特に『周易』を中心とする易の書物が重んじられ」「戦国時代には、各地域の大名のところに就職」するような者を養成するところであったのです。その後、のちに公帖を受けることになる、鎌倉十刹の第一位福源山禅興寺中興で、前建長玉隠英璵(1432~1524)に参じます。玉隠は信濃人滋野氏の出身、蘭渓道隆の法系大覚派の器庵僧達に嗣法しました「鎌倉五山の最後を飾る知識人」と言われています。懶庵、玉澗あるいは聴松軒とも号し、明応七年(1498)将軍足利義高により建長寺一六四世住持になっています。任解けて禅興寺明月院に退去し、長くここに住んでいます。
 永正三年(1506)夏、智淵は玉隠から「字説」を受け、道号「黙宗」を与えられます。玉隠は「字説」を多くの人に授けたらしく、『静岡県史 資料集 中世4』にも玉隠が授けた「字説」が二つあります。ただ、後年禅興寺の公帖が黙宗に届けられたのは、この玉隠による推薦があったと考えられ、強い師弟関係が築かれていたと推測できます。また憶測にすぎませんが、この禅興寺で秉払を遂げたのかも知れません。秉払は五頭主(前・後堂首座、書記、東・西蔵主)が住持の替わりに、登壇し、問答・提要・謝語等上堂作法を行うことで、これを経験して、五山における諸山の住持となる資格を得ることができるのです。
 やがて玉隠を辞して、諸方遍参の旅に出て美濃瑞龍寺悟渓宗頓に謁するとありますが、悟渓は明応九年(1500)に寂しているので、これは誤りです。また文叔の師、玉浦宗珉に見えるなど名山勝刹を訪ねています。そして信濃松源寺文叔禅師に参じ、永正十二年文叔が妙心寺住持を勤めた際にも、片時も側を離れず助けたと言います。ただ文叔の住持職は三日で終わるもので、玉浦、独秀乾才等が器と認めたとありますが、これも疑問ですし、独秀は前年永正十一年(1514)八月寂ですので、黙宗と出会ったかどうかもはなはだ疑問です。
 文叔の任解けて帰山するときにも、黙宗は従ったといいます。このあと文叔の葬儀を終えて、遠州に帰り、招かれて浦川村(旧佐久間町)桐井山東福寺の開山始祖になりました。幾ばくならず、奥山正法寺に帰り、廃退していた方広寺伽藍の再興に尽くしています。また奥山親朝、井伊直平・直盛の帰依を得ました。こう「行状」は書きます。
 この「玉隠を辞して」以降の段落は、とくに疑問のあるところなので、少し詳しくみていくことにします。
 
 黙宗が遠州に帰り、奥山に入ったのは大永五年(1525)秋八月です5。玉隠のもとを去って、約二十年弱経っていました。このことは、おそらく禅興寺明月院玉隠弟子で、一時黙宗とともに、その会下で学んだと推定される香村なる僧の書状で明白です。そして、この書状以前に禅興寺の公帖を受けています。またそのころ、奥山方広寺仏殿を再興し終わったことも書いてあります。とすると、遠州に帰って数年以上は経っているはずです。同人のもう一通の年未詳の書状には「新命禅興黙宗堂上老師」が、「座断福山巨刹久秘台帖」、「挑無文印」とあり、この時期、禅興寺住持の命を断り、その公帖を隠し、方広寺無文元選の禅を追及している、と考えられていたようです。
 禅興寺は鎌倉十刹第一位ですので、原則的には、たとえその寺で秉払を遂げたとしても、まず諸山の住持に命じられるはずです。ただ当時禅刹の官寺制度はかなり乱れていたので、諸山を飛ばして十刹に昇住することもあったか、また「和漢禅刹次第」では、奥山方広寺は諸山に列していたとするので、ここで住持を勤めたかいずれかだと思います。とにかく十刹禅興寺の公帖が発せられたのですが、承けませんでした。その理由は良くわかりません。方広寺再建中であったとしても、当時諸山十刹の住持になるためには、十貫文乃至五貫文(約五十万円~百五十万円)を幕府に納めなければなりませんでした。しかしこのくらいの金が用意できないわけがなく、住持職も居成り(坐公文)の可能性が高く、赴任する必要もないので、おそらくそれを見ていないのだと思います。これはいわば自ら五山の住持になる可能性を逃した、あるいは出世の道を自ら否定したことになります。
 そしてわたしの邪推かもしれませんが、このことによって、黙宗は文叔に参じたのではないかと考えられます。おそらく、諸方偏参の間に、美濃瑞龍寺玉浦宗珉に参じたことがあって、再びその密参の禅に見えるため美濃に行ったのですが、既に玉浦は亡くなっていました。そこでその弟子の文叔の会下に入ったのだと思います。もしこれが正しければ、少なくとも、大永五年の数年後、享禄年間(1528~1532)ころでしょうか。大永五年に奥山正法寺に帰ったのは確かですから、「行状」のいう天文四年文叔葬儀後に遠州に帰り、方広寺伽藍再興に務めたというのは当たっていません。これは逆で、再興後に文叔に会ったのです。それで、方広寺派ではなく、妙心寺派としての龍泰寺を転派再興したのです。
 また天文三年以前に、文叔より心印を授けられました。それは文叔の没年である天文四年(1535)冬に、黙宗が師文叔の肖像を描き、賛辞を求め、それを許されていることからも間違いありません。このとき諱を「智淵」から「瑞淵」へと変えたのだと思います。つまり、文叔瑞郁の諱の通字「瑞」を文叔からもらったことになります。文叔死没の一年前、天文三年に妙心に住持(奉勅入寺)し、嗣香を文叔に捧げたのです。

 以上から、龍泰寺開創は大永五年から天文三年以前となりますが、もっと限定するとすれば享禄年間の1530年ころになるでしょうか。そして永禄三年に龍潭寺と改名します。

 「行状」は龍泰寺在住の間に、禅興寺の公帖を受けたが断わったとし、さらに文叔の師、玉浦宗珉が開いた美濃大智寺に輪番し、住持に就いたといいます。そのしばらくあとに、妙心寺の綸命を受けたとします。そのときの亀年禅愉(1486~1561)の「同門疏」を載せています。亀年は妙心寺三十四世で、天文六年(1537)七月二十二日の大燈国師(宗峰妙超)二百年忌に「妙心當住亀年和尚」として頌を捧げています。『延宝聯燈録』では「奉勅入寺」となっていますが、同時に「函丈(住職の居室)に據坐すること六年」たって、この二百年忌に出会ったとも述べています。師の文叔が妙心寺瑞世の時、同門疏は六人すべてが前妙心、前大徳であり、そのほかの僧も、前真如など五山の住持の経験者が名を連ねています。それでこの同門疏を送った亀年は、このとき前妙心であったとすれば、天文六年は超えていなければなりませんが、今天文三年説をとっておきます。それで、黙宗の印証授与は天文三年よりは前ということになるのです。妙心寺入院にも礼銭を要し、およそ十五貫文(二百万円前後)くらいを払ったようです。美濃大智寺住持や亀年禅愉の同門疏などは、当該寺院に江戸時代存在していたのでしょう。
 
 このあと「行状」は、城東郡金剛山貞永寺が天文年中寺運衰退し、法幢も続かなくなったので、駿河大竜山臨済寺太原崇孚が、使いを黙宗のもとに送って、これを再興するように頼んだ、といいます。住山数年、修造終わって、嗣法の弟子梅霖に託したとします。梅霖は天文二十三年(15554)寿像に法語を需めています。 臨済寺は、今川氏親母北河殿旧宅に建てられた善徳院を前身とし、天文五年(1536)今川氏輝の菩提のために、跡を継いだ義元が、氏輝の法号に因み、善得院を大竜山臨済寺と改めたものです。天文十年(1541)四月には、明叔慶浚が住持に招かれています。雪斎はもと九英承菊と名乗り、善徳寺琴渓承瞬会下にあって、のち京都建仁寺霊泉院常庵竜崇について学んでいました。そして天文十一年三月から同十三年二月までの間に、妙心寺霊雲院大休宗休に参じ、その法を嗣いで、太原崇孚と名乗ったと伝えます。同十七年三月の氏輝十三回忌には、臨済寺住持になっていて、山門・仏殿の修造に励んでいます。氏輝十三回忌には師の大休も法語を述べています。このあと、太原は大休を臨済寺住持に懇情し承諾を得ています。大休は翌年八月に亡くなっています。太原は同十九年妙心寺三十五世として、奉勅入寺します。またこの年六月二日義元室定恵院殿南室妙康大禅定尼が死没します。彼女は武田信玄姉で今川氏真母です。この葬儀には黙宗も加わり、鎖龕を勤めています。
 年未詳の「臨済寺諸塔頭以下書立」は、今川義元の朱印が文書の継目部分に押してあり、永禄十二年正月十八日武田信玄が披見したものです。義元の時代に、貞永寺は既に臨済寺末寺になっており、永禄十二年には確かに梅霖座元が住持となっています。ついでにいうと、遠州安国寺であった貞永寺開山には、三つの説があり、夢窓派の玉峰殊圭(『豊鐘善鳴録』)あるいは妙圭(禅学大辞典等)とその弟子南溟殊鵬及び双峰通玄を嗣法し、浄妙寺を視篆した天祥源慶です。

 嗣子は梅霖はじめ四人いて、元察に入野龍雲寺(浜松市南区)、宮口報恩寺(同市浜北区)祝田大藤寺を雪庵宗粕(二世)に、それぞれ任せます。龍潭寺を継いだ南渓瑞聞には、天文二十年(1551)に号「南渓」を授けています。また永禄三年(1560)今川義元葬儀において、梅霖が取骨、南渓が安骨を勤めています。 瑞岩山報恩寺は開山を勅諡廣鑑神應禅師=黙宗瑞淵、開基龍潭寺殿天運道鑑大居士=井伊直盛、天文二十三年に創建と伝えます。小和田哲男氏が過去帳から見つけた南渓瑞聞がそれまで言われていた井伊氏ではないとする説は正しいと思います。今川仮名目録追加によれば、男子なければ還俗させたはずですから。これは井伊直虎女子説にもいえることです。井伊氏庶流・奥山氏・小野氏もいるわけですから、嗣子がいないとは言えないわけです。
 臨済寺以下の諸寺に関する事蹟については、はっきり言って確実な資料がないのでわかりません。貞永寺や龍雲寺、報恩寺は戦国時代から江戸時代にかけて、妙心寺派であるのは間違いないのですが。
 
 黙宗の人となりを知る資料を、ここでひとつ挙げておきます。
 「行状」には載っていませんが、天文の初めころ、甲府東光寺住持で、武田信玄の帰依厚かった仁甫珠善と三河で出会い、二十年以上に渉る交際が始まりました。仁甫は永正三年(1511)以前に、法蓋山東光寺(山梨県甲府市)に入山して、建長寺派から妙心寺派に変えました。信玄の伯父は仁甫につき得度し、藍田恵青と名乗り、東光寺住持となっています。天正十年(1582)武田氏滅亡後、織田信長は快川国師等七十人の僧を、恵林寺で焼き殺したが、その中に藍田は入っていました。この時快川が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と頌を唱えたのは有名です。弘治三年(1559)妙心寺開祖祖師二百年忌を記念して、居成り三人が勅許され、美濃岩村大円寺希庵玄光推挙により、居成りの請書が下着し、信玄は一万疋(百貫文)を奉加するというごとく、仁甫を深く崇敬していました。しかし仁甫はその前の弘治二年五月急死してしまいます。黙宗は居成り勅許前に仁甫に手紙を書いています。 
 天文二十三年(1554)四月六日、安祥示寂したと、「行状」は書きます。
 こうした顔の広さと足利学校で学んだ兵法や易学は、井伊氏の動向について大きな影響を与えたと思うのですが、龍潭寺所蔵の諸伝はほとんど語ろうとしません。


井伊谷龍潭寺史(4)ー開山黙宗禅師以前、師文叔

2022-05-12 03:00:42 | 郷土史
長野県飯田市松尾の龍門寺所蔵「竜門開山再住妙心廿四世勅諡圓照真覚禅師文叔大和尚略伝」(以下「文叔略伝」と略す)によれば、文叔瑞郁(1467~1535)について、「遠州井伊谷城主直平、迎請主自浄院」とあります。文叔瑞郁の伝は、松源寺・龍潭寺に残っていますが、内容は大同小異であるといいます。井伊直平云々は、永正四年(1507)九月十五日付「井伊直平寄進状」2に関わるもので、寄進先は「龍泰寺」です。
 ところで、先の「文叔略伝」あるいは龍潭寺僧某の「黙宗大和尚行実」では、この寄進状の主井伊直平に請じられたのが「文叔和尚」であり、また和尚が居住したのは「自浄院」であったと書いています。龍泰寺ではありません。しかし、今この件については後回しにして、まず文叔和尚の来住について述べてみたいと思います。
「文叔略伝」によれば、文叔瑞郁は信濃国市田城主松尾嘉右衛門大夫正哲居士の実弟です。美濃金宝山瑞龍寺悟渓宗頓に参侍し、悟渓より「文叔」の号を与えられ、また悟渓の命で、同国山県大智寺開山玉浦宗珉について修行し、その法を嗣ぎました。天文四年(1535)六十九歳で遷化しています。ところで、師の玉浦宗珉が文叔に与えた得法得悟を証する印可状が残っていて、それによれば、永正五年(1508)六月、文叔四十二歳のこととあります。また、翌六年三月上旬、文叔の需めに応じて、玉浦が頂相に自賛を書しています。それには「文叔首座」とあります。この年は玉浦にとって妙心寺に瑞世し、一住三年の初めの年に当たります。また、長野県飯田市松尾龍門寺に、文叔が妙心寺住持に就任したときの「同門疏」・「山門疏」・「寅門疏」が残っていて、そのうちの「山門疏」に、「前第一座文叔郁公禅師、住持」とあります。それゆえ、このとき文叔は師の命によって、妙心寺の前堂首座を勤めていたのでしょう。そして、おそらくこのときに(それ以前かもしれませんが)、住持になるための前提となる秉払を遂げたのだと思います。とにかく玉浦の在任中の永正九年(1512)ころまでは、妙心寺に在住していたと思います。そして玉浦のあと、妙心寺二十三世桂峰玄昌の一住三年の住持中、永正十二年(1515)二十四世住持(奉勅入寺・居成)になっています。
 その間、兄の市田城主松尾明甫正哲居士が建てた松源寺に入寺したとすると、この寺の開創は永正八年から同十年と想定されているので、さらに永正九年から同十年に絞ることができます。文叔は開山に師の玉浦宗珉を勧請し、自らは二世となっています。そこでまず、印可の年を考慮すれば、直平寄進状の永正四年までには、文叔瑞郁は井伊谷には来住できません。またそのあとの史料からも、その後もしばらく永正九年ころまでは、師の玉浦に随侍したと思われます。また遠州では、永正五年七月今川氏親が遠州を平定し、遠江守護職を手にして、ようやく落ちついたのですが、それももつかの間、永正三年に続き、伊勢長氏に命じて、二度目の西三河松平長親攻めに及ぶも敗れています。今川軍には井伊氏・奥山氏も従っていますが、この敗戦を契機に、同七年には、大河内氏が斯波・井伊氏を語らって氏親に反旗を翻し、今川軍が十一月、引間に出陣し、十二月には井伊谷周辺が主戦場の一つになり、永正十年(1513)まで戦いが続いています。当然、井伊谷は焼土と化したでしょう。それゆえ、このころにも文叔は来ることはできないでしょう。また永正十三年(1516)から、再び大河内貞綱が、信濃国の国人を催し斯波義達を語らい、今川氏との戦いを開始しました。翌年三月には引間城を占拠し立て籠もりました。これに井伊・奥山氏も同調したのであり、翌十四年八月今川軍の勝利で幕を閉じ、大河内親子など多くが討ち死に、斯波義達は普済寺で出家させられ、尾張へ送り返されました。このときも井伊谷は主戦場のひとつになっています。そうであれば、いつ起きるかも知れない戦乱の地に、文叔が足を踏み入れることはなかったはずです。つまり、この十四年に至っても来ていない可能性が高いでしょう。
 黙宗が、鎌倉で玉隠から「黙宗」の字説を授かるのは、永正三年で、永正四年には、すでに正法寺を出て、諸国行脚の旅に赴いています。そこで以上から、少なくとも永正十四年までに、文叔瑞郁が井伊谷に来住し黙宗等に教え、のち信濃松源寺に移ったという所伝は受け入れがたいということになります。

 ついでに言っておきますと、三ヶ日町平山凌苔庵悟渓某が、悟渓宗頓と誤解されていますが、この平山悟渓は宗頓ではありません。この僧が龍潭寺の濫觴であるという主に幕末に彦根藩系譜方河村万右衛門などによって、取り上げられたのですが、明らかな誤解です。(弘化四年(一八四七)九月、彦根藩系譜方河村万右エ門取調べにつき草稿控)これは既に論証されています。文叔禅師は本当に勧請開山にすぎないのです。
  
<註1>妙心寺には奉勅入寺して世代となるものと住世するものがあり、後者は妙心寺四派による輪住であり、一住三年の住山であるのにたいして、前者は臨時奉勅であり、
三日で開堂祝聖(しん)から退院上堂の法語を垂れて自坊に帰山するもので、一般的にはこれを「奉勅入寺」(居なり)といいます。(妙心寺史等)これにより、「前妙
心」という称号と、紫衣勅許が得られることになります。
<註2>「字」はある程度の法階に昇進すると、本師(受業師)又は尊宗する先輩より授けられる称号で、中世では、公的には十刹西堂になると許されたが、詩会や平常の社交では、それ以前に既に所有、使用している。西堂とは他寺の前住を務めた僧の堂舎であるが、そこに住む僧自身も呼んだ。最初は居所によったが、その後居所による称号の性格は薄れた。たとえば禅の本旨たる「無」字など使用。(無準師範等)法諱の下字と道号とが字義上の関連がつくよう作られた。(玉村竹二等参照)

[参考文献]
『浜名史論』『静岡県史』『瑞泉寺史』訳、解釈共に『悟渓宗頓 虎穴録訳注』芳澤勝弘編 思文閣 二〇〇九年