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浜松市北区三ケ日町の中世墓

2023-04-05 20:29:48 | 郷土史
三ケ日町の中世の墓については、内山真龍著『遠江国風土記伝』が三ケ日町只木の「公家塚」を「橘逸勢」の墓と推定したのが、この地の古石塔に言及した最初でしょうか。その後1953年刊の『浜名史論』において、三ケ日の郷土史家高橋佑佶氏が同じ「公家塚」を「南朝方某公卿」の墓としましたが、のち「後醍醐天皇皇子尊良親王の一宮」の墓と訂正しました。他方小笠郡の郷土史家西郷藤八は公家塚周辺から採集された数枚の中国銭の年代から時代を室町中期、被葬者は従一位花山院長親であると推定し、高橋佑佶氏と争論しました。そして次に愛知県の古石塔の初期の研究家であり、考古学者でもあり、石造物製作者でもあった岡崎市の池上年氏が三ケ日町の宇志瓦塔遺跡のレプリカを造ったのですが、三ケ日町の石塔調査には及びませんでした。つまりこの段階まではほとんど根拠のない文献資料からの推測にすぎなかったのです。
 本格的な調査は本間岳人氏が摩訶耶寺・幡教寺跡(大福寺前身)の石塔を調査したのが、この地における石塔研究の始まりとなりました。研究は「遠江における石製塔婆の様相」(『立正考古』第37号、1998年)としてまとめられました。さらに遠江中世石塔研究会メンバー松井一明・木村弘之・溝口彰啓氏による「浜名湖北岸における中世石塔」(『浜松市博物館年報』第23号、2011年3月刊)が遠江全域における石塔および石材調査の過程の一環としてまとめられています。その結論としては三ケ日町内に13世紀から15世紀中葉の古式石塔は存在せず、15世紀後葉以降の小型で量産された新式のものだけということでした。
 
 磐田市見附中世墓を例にとると、塚慕・コの字形墓・土壙墓・集石墓など13世紀前半から17世紀初頭までそれぞれの時期に形を変えたり、継続的に造墓されています。三ケ日町での形態は破壊が著しくほとんど不明ですが、火葬されたものは蔵骨器に入れられるのでその陶器片が残ります。それを参考にして推定すると、中世墓地としては只木地区奥の巨岩が露出している場所周辺に最大の墓域が形成されていました。ここは大福寺所管の薬師堂のあった地であり、その前身といわれる幡教寺跡のある富幕山の登山口に当たります。墓地はここのほかにも登山道途中にもあり、伝幡教寺跡にも石塔が数基あるので、この山全体が少なくとも鎌倉時代以降天台系修験の聖地であったと考えられます。ただ鎌倉時代中期に過ぎには真言系の修験が優勢になったと思われます。中世墓地は12世紀末ころから始まり、戦国時代まで機能していました。しかし石塔はほとんど見受けられず、数群に分かれた広い中世墓地跡から、わずかに一基小型の宝篋印塔の笠と基礎の部分が存在するだけです。被葬者は伊勢神宮荘園の荘官層・名主層だと考えられます。日比沢・尾奈などにも鎌倉時代の墓域が確認できます。尾奈地区には多数の宝篋印塔・一石五輪塔を集積した円通寺があります。寺伝ではもとは西の弓張山系山中にあって、天台宗比叡山延暦寺第三代座主円仁開創になると伝えます。この寺のすぐ隣の龍谷寺も同人の開基という伝承を持っています。龍谷寺はもともとは尾奈駅北の丘陵上に位置し、そこは中世墓地の地でした。つまり両寺院ともに天台の念仏系でした。のち龍谷寺は臨済禅に変わり、やがて両寺院とも曹洞宗へと移っていきます。おそらく組織された葬儀の形式を確立していたことも曹洞宗への転衣の一因でしょう。

 大福寺など真言寺院は二十五三昧会やそれに関連する光明真言を唱え浄化された土砂加持による死者供養が両寺開創以前からおこなわれていましたが、これを踏襲していました。弓張山系の拠点的寺院である普門寺(愛知県豊橋市)の伝承中には、住持として良源の名も挙がっています。また鎌倉時代には東大寺大勧進重源流の高唱念仏も取り入られました。重源は法然の弟子でもありました。摩訶耶寺境内および周辺からも鎌倉時代以降の蔵骨器や中世後期の石塔が存在しています。

 なぜ三ケ日町に南北朝・鎌倉時代に遡る古石塔が存在しないのかは不明です。近世江戸時代に入ると、寛永から元禄年間(1624~1704)ころまでは村の上層百姓の石塔が存在しますが、多くはありません。普通の農民段階まで普及するのはおよそ享保(1716)前後ころです。墓塔のない層も存在します。埋め墓と詣で墓があります。寺院内でなく家に付属する墓もありますが、村の墓域に統合されてしまったものがほとんどで実態が不明です。

最近刊大竹晋著『悟りと葬式』(筑摩書房、2023年)は「平安時代においては、穢の思想が発生したことによって、血縁者ならざる者の葬式を行うことが避けられるようになっていた」し、皇族・貴族など有力者を除き、「在家者が出家者に布施を与えて在家者の葬式を行うことは出家者に三十日の忌み(蟄居)という負担を強いるものだった」が、鎌倉・室町時代「禅宗の出家者は忌みを守ら」ず、「聖者の力によってあらゆる穢をものともせずさまざまな在家者の葬式において亡者を引導するようになった」といいます。他宗の出家者は「当初そのことに驚きつつも、結局禅宗の出家者を模倣していった」ことをインド・中国・日本の出家者と在家者との関りの分析から説いています。
 被葬者についてほとんど触れませんでしたが、大福寺の古石塔集積地にある十五世紀後葉の最大の宝篋印塔は、ほぼ同サイズのものが宇志にありました。これはおそらくこの地の領主大屋氏のものであろうと考えられ、大福寺が浜名氏苗字の寺であったので、先の宝篋印塔は浜名氏のものであったと思われます。墓塔の規模が大体同じなので、同じ大屋系浜名氏のものでしょう。
 


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