奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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細江神社ー浜松市北区細江町

2022-09-23 17:37:55 | 郷土史

松市北区細江町所在「細江神社」は、気賀七ケ村総産土神と言われます。主祭神は素戔嗚命です。また奇稲田姫命も同時に祀られています。
 創建年代は不祥ですが、明応八年(1499)の大津波により浜名湖糊口の神角避比古神社が流され、最初村櫛に漂着し、そこに御仮屋を建て、のち再び伊福郷吉部赤池に漂着しまた御仮屋を建てて祀りました。のち、永正七年(1510)あるいは天正二年(1574)八柱神社境内(現在地)に移遷したと伝えます。
 最初「牛頭天王社」でしたが、のち「細江神社」と改名されました。その時期は江戸時代前・中期を通じて旧名でしたが、末期天保年間には「細江神社」を名乗っています。細江町気賀七ケ村の総産土神です。
 牛頭天王については中国・朝鮮の牛頭山との関係などが考えられていますが、現在では日本独自の神だとする説が有力です。およそ平安時代から鎌倉時代御霊会や夏越の祓い、行疫神として、水神祭などを執行していた京都祇園社や蘇民将来説話・素戔嗚命・薬師如来などの信仰に関係を結びました。
 
 浜名湖周辺には京都祇園感神院系統の牛頭天王信仰が、確認できる限り鎌倉時代前期には入ってきています。たとえば三ヶ日町大福寺鎮守がそうです。大福寺は熊野三所権現と牛頭天王を鎮守としています。もうひとつは尾張津島神社系の牛頭天王ですが、このほうは細江神社社伝にもあるように遅れて、明応の大海嘯を契機とし、ほかのほとんどの天王社(現素戔嗚社・八王子社・津島社・八雲社など)も永正年間以後江戸時代の創建と伝えます。数社の諏訪神社が平安時代中期以前に遡る創建伝承を伝えるのとは対照的です。諏訪神社も水神を祀っています。これは津島の御師の活動が中世後期になって盛んになったことを意味します。また織田信長・豊臣秀吉・徳川家康三代の篤信を受け、戦国末から江戸時代の隆盛は、そうしたことも契機としています。細江神社の神輿湖上巡行などは津島神社の
明治の神仏分離令で、神とも仏ともつかぬものとして権現と並んで名指しで非難され、多くの牛頭天王社が素戔嗚神社・八王子神社・八坂神社・須賀神社・八雲神社などそのほかの別名に変えています。

 細江神社の祭神の漂着伝承は他の津島天王勧請社にも概ね見られます。それは津島天王社の重要な祭事である天王祭の「神葭神事」と関係しています。京都御霊会に神泉苑へ御霊を鎭めるための御よし神事がありますが、神葭神事はも同様に、御霊鎭祭のため葦で編んだ船に罪穢れを封じて川に流し、暑気による夏の疫病封じの祭りです。神葭着岸の地は疫病流行を恐れこれを祭ります。遠州地方では浅羽地方に葦船を作り流す祭りが近年まで残っていました。また奥浜名湖三ヶ日町でも、北奥只木河名の神が南の鵺代に流れ着き、河名神社に祀ったという伝承が残っていて、これも牛頭天王のことです。
 津島天王祭の始まりは不祥ですが、鎌倉中期には存在したとされ、長禄三年(1459)古文書もあります。このころから祭日は六月十五日(旧暦)でした。
 細江神社の多くの船で湖上を練るのは天王祭の川祭の名残だと思いますが、津島本社でも江戸時代には既に、神葭神事と川祭の関係は分からなくなっていたといいます。

 それゆえここに角避比古神が流れ着いたという説には首肯できません。もちろん角避比古神の後身であるという説は付会でしょう。

 最後に前に書けなかったので付け加えておきますと、細江に「屯倉水神社」があり、「屯倉」が中世後期に遡りえる地名であることから、この神社が式内「三宅神社」後身であるとの説がありますが、この「ミヤケ」は津島神社関連の「ミヤケ」のことである可能性もあります。津島神社二月(旧暦正月二十六日)祭事に「烏呼神事」があり、古くは「屯倉供祭」とも呼ばれていました。この関係も考慮すべきかもしれません。(未調査)
 
 

浜名郡の式内社ー猪鼻湖神社

2022-09-03 08:41:36 | 郷土史
この神社は一説に浜名湖南現湖西市新井町在とするものもあります。新井町は古代猪鼻駅家があったので、その説が立てられたのです。神社名は「猪鼻湖神社」、つまり猪鼻「湖」ですので、ここではありません。延喜式神名帳記載の並びからは浜名湖北にあたり、この並びから、大知波八幡宮(湖西市)に比定する説もありますが、ここには「猪鼻」地名はありません。やはり浜松市北区三ヶ日町内だと考えて間違いないでしょう。
 『引佐郡誌』は古老の話として、本社はその位置が海辺故、台風などにより何度か流され、創立及び再建の日時不明と言いますが、むしろ神社の原位置がわからないと言ったほうが正しいでしょう。『遠江国風土記伝』には、下尾奈村神明社(現三ヶ日町)が後身であるとし、迫戸(せと)明神と称したと述べています。社地は猪鼻岩(現在地)の湖辺(現瀬戸)だといいます。さらに、「文和風土記曰、浜名郡猪鼻湖神社二座、景行天皇十九年八月所祭猿田彦也。 按浜名肥前守頼親之末、亦猿田氏有者、此社辺所生乎。」と書き、祭神が猿田彦神だとします。佐久城最後の城主浜名肥前守、あるいは兵庫頭重政の次男・三男がそれぞれ「猿田氏」を名乗っています。ただ、伊勢発祥の猿田氏は猿田舞の踊り手で、出雲にも拡散し、有名なのは銚子の猿田彦神社の猿田氏もいます。猿田彦神は導き(先導)・交通安全などの神です。その裔は太田命であり、宇治土公はその子孫となっていますが、諸説あります。ちなみに、三ヶ日町は伊勢神宮の荘園である浜名神戸・新神戸はじめ御厨・御園の地であり、太田命もこの地の最も古い神明宮に祀られています。しかし、未だ神明宮が勧請されない「延喜式」の段階で、祭神を猿田彦とするのは無理があり、どんなに早くても南北朝末以降に大屋系浜名氏がこの地域に住み着いてからのことです。
 下尾奈神明宮について言えば、おそらく平安時代寛徳二年(1045)以降に創建されたのは確かです。しかしこのころ既に神社政策の転換がはかられていて、猪鼻湖神社のような地方の小社は支える人を失い、その存在すら忘れ去られていたものが大半です。ですから、尾奈神明宮がこの神社の後身と言えるだけの証拠はありません。むしろ式内名神大角避比古神のように、猪鼻湖糊口の守護神であると考えられ、現在の位置近くに鎮座していたのでしょう。別名瀬戸明神(現猪鼻湖神社)とも言われ、その立地は大崎半島ですが、地番はこの辺だけが対岸の尾奈に属しています。伊勢神宮との関係からは、尾奈御厨は中世内宮所管であり、大崎は外宮所管です。平安時代の中期にはこの神社は廃絶していたと思われ、中世に浜名氏が中興したと伝えます。そこで天照大神の先導神として、新たに猿田彦命を祭神とした社を建てたのです。それゆえ尾奈神明宮との関係性が生まれたのです。
 単なる推測ですが、尾奈は除外して大崎の遺跡を考えると、ウズ山が最も適当ではないでしょうか。僅かですが山麓に須恵器片が散乱し、入り口といえる場所からは十世紀の灰釉陶器片や十一世紀から十二世紀にかけての山茶碗が多数散らばっていました。祭祀遺物はありません。延喜式当時の集落が尾奈・鵺代・日比沢・岡本・三ヶ日などにあったのですから、瀬戸を通る船の守護神として浜名湖全体を見渡せるこの山に古代の遺物が点在することが一層その感を強くします。
 以上、式内猪鼻湖神社に関しては再考の余地があり、資料が非常に少ないので他の似た環境の神社から推測することも必要になると思います。今はこのへんで。