奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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遠江国引佐郡式内社(3)蜂前神社

2022-04-26 19:48:25 | 郷土史
『風土記伝』に「祝田村羽鳥大明神(二社坐) 蜂前、祝田之旧名也、三代実録貞観八年遠江国鳥飼神授従五位下」とあります。
刑部は五世紀中頃允恭天皇妃忍坂大中姫の御名代として設定されたとされます。御名代は在地首長の子弟が選ばれ、都に上り舎人・靫負・膳夫として一定期間勤めます。ただこの地がその時代に設置されたかどうかは不明です。また前身とされる鳥飼神=鳥飼部の設置も記紀では雄略期です。ただこのころ五世紀後半雄略天皇期には、人制による養鳥人が定められたとします。ちょうど、この地域を見下ろす東の台地上に、突然引佐郡最大全長55メートルの前方後円墳陣座ケ谷古墳が造られた時代に当たります。
 しかし、部民制にしても屯倉にしても、地方への普及は6世紀に入ってからです。この世紀の初めころには都田と祝田の境の川に近い谷あいに郷ケ平に前方後円墳4号墳が造成され、のち総数8基の群集墳を形成していきます。ちょうど都田川が都田の平地から細江の平地に出る最も狭い所に位置しているので、この川の治水・開拓を行った首長でしょうか。同時にその東上の台地端に6世紀の土師器・土製模造から成る祭祀遺跡中津坂上遺跡が存在します。
 これらは国造制以前の首長墓ですが、ミヤケの経営には中央から派遣された官人が当たったとされるのですが、仁藤敦史氏によると、それは必須の条件ではなく、実際には先の古墳の被葬者の後身である国造が部民などを徴発してミヤケの経営に関わったのです。その範囲は古代引佐郡数郷を含んでいたかもしれません。
 鳥飼部が斎き祀った鳥飼神は平安前期以前には、遠江国司により国の政策上重要な神と考えられていました。それゆえ、叙任の申請をしたのでしょう。つまり、蜂前神社の前身が鳥飼神であれば、刑部郷を代表する神社でした。でも、実際にはそれが証明されているわけではありません。そのためには、9世紀後半の有力神社が『延喜式』記載の10世紀前後の約数十年の間に別の神社名に変わった理由を説明しなければなりません。それは難しいので、とりあえず式内「蜂前神社」のみ考えていきます。
 
  建久三年(1192)八月日「伊勢太神宮神領注文」によると、刑部御厨は二宮領で、嘉承注文(三年1108)・永久宣旨(三年1115)とあるので、十二世紀前半には立荘されていました。給主散位大中臣親範は建久三年当時の給主です。祖父親定は祭主・従三位、父親仲は権大副・正四位下ですが、長兄親隆も祭主・正三位で当時の大神宮の頂点に立っていました。おそらく、神明宮の勧請は十二世紀前半で、南北朝期に書かれた「神鳳抄」には、刑部御厨は内宮上分三十石、魚三十斤、外宮には上分三石を納める百余町の内宮所管の荘園と記されています。また同書には新たに「祝田御厨」が立てられています。
 大正時代の『引佐郡誌』には祭神は天照大御神、稜威雄羽張命、熯速日命、甕速日命、武甕槌命とあります。これらの祭神は『古事記』によれば、伊邪那岐命が十拳剣=天之尾羽張で迦具土神を切り殺したとき、剣に付いた血が湯津石村に走りついた神々の内に、剣の鍔際についた血から甕速日・樋速日(熯速日)・その子武甕槌神が生まれたと伝えます。そして、熯速日命を祖とするのが服部連とします。『新撰姓氏録』にも河内国神別天神に同じことが書かれ、摂津国神別天神服部連、熯速日命十二世孫麻羅宿祢後とあります。
 天照大神はもちろん内宮の祭神ですので、刑部御厨の鎮守神でした。おそらく十二世紀にはこの地に神明宮が勧請されたとおもいます。鎌倉時代に入ると、神主の勢力が増してきて、神明宮の祭祀はもともと神主(権神主)の職であり、他姓を混じない決まりでした。内宮はこれをテコに祝田御厨を刑部御厨から割いて立てたのです。
この皇太神宮所管の地にも天照大神は勧請されたのですが、そこには神衣祭に奉仕する荒妙・和衣を調進する奉職者の神も祀られました。神衣祭は内宮のみの祭祀で、外宮では行われません。そこに神税として織布を納める服部(神服部)氏の存在があったのでしょう。伊勢の神服織機殿神社の祭神は天御鉾命と天棚機姫孫天八千々姫命で、前者を服部神部の祖神とします。したがって、最初この両命が祭神でしたが、のち神衣祭が天岩戸神話に関わりがあることから『引佐郡誌』記載の神々になったのでしょう。「祝」田は「はふり」田という意味も考えられていますが、伊勢神宮では下級神官を意味したり、神を直接祀る祭祀者を指すこともあります。

 蜂前神社はそれゆえ、十世紀には確実に存在していたわけですが、十二世紀前半までには、衰退あるいは神社名を変えたことになります。現位置はおそらく、古代にはしばしば洪水を引き起こす川側で、その鎮静を祈る位置ですが、祭祀の場としてはふさわしいものとは思えません。農業・開拓神とすれば、川が平地に出てくる場所字瀬戸近辺の可能性があります。だとすれば、鉢を逆に伏せた形の恩塚山(都田町)あたりでしょうか。頂上には恩塚山古墳群(経11m円墳中心)があり、その北には津島神社があります。ちょうど都田川下流域を見渡す場所です。または祝田字瀧峰(通称瀧の谷、滝有り不動尊を祀る)も関係しているかもしれません。

 いずれにしてもこの「蜂前神社」の旧地は不明です。『引佐郡誌』によれば、「祝田」は「旧名神田、八田と称す。承久以来方田其後祝田と云ふ」とあります。戦国時代の古文書が多く残っていて、村の精神的紐帯あるいは意思決定の場として、現在地の神社が機能していたのは確かです。


 


遠江国引佐郡式内社(2)三宅神社・須部神社・乎豆神社

2022-04-24 00:14:42 | 郷土史
②三宅神社
 『風土記伝』は井伊谷村二宮大明神とします。井伊谷城の東麓にあり、祭神は初め田道間守、のち宗良親王を合祀したといいます。後者は別にして、三宅神社に田道間守の祖天日鉾を祀るのはありますが、田道間守自身を祀るのは珍しい例です。記紀に田道間守の伝承があり、天日鉾(新羅王子)の後で垂仁天皇の命で非時香菓(ときじくのかくのみ)すなわち橘を探しに常世の国に行ったひとです。三宅連祖とあります。これと、新撰姓氏録などから逆に三宅神社の祭神を、国学の隆盛であった江戸時代に入って決めたのではないでしょうか。また現在地の比定も問題があります。「三宅」に関わる痕跡はこの井伊谷にはまったく存在しません。
 「三宅」はむしろ、辰巳和弘氏の言うように都田の旧名を「ミヤケダ」と考えれば、そこにあったとしたほうが良いでしょう。だとすれば、上都田の川前遺跡を見下ろす川西の独立小丘が候補地になるでしょう。川の前遺跡は奈良・平安時代に中心のあった遺跡で、須恵器・土師器・灰釉陶器・山城産緑釉陶器・越州窯青磁・墨書土器・陶馬とともに、石敷きの道路遺構などが発掘されていて官衙関係の遺跡の可能性も指摘されています。

③須部神社
 これは現在地である可能性は高いと思います。須部遺跡といわれるように、境内周辺には須恵器・中世陶器など多くの遺物が散乱しています。川を挟んだ向かいも椿野遺跡が存在します。都田御厨は、伊勢神宮領(内宮)尾奈御厨(浜松市北区三ヶ日町)の便補されたところですので、神明宮がその時勧請されて神社字名が神名風呂と名付けられのです。
 この須部神社の数百メートル北に向かって進んだ人家のない小谷奥の小平地に小さな神社があり、この周辺からも須恵器・中世陶器が出土しているので、これが奥の宮かもしれません。

➃乎豆神社
「京田」(三宅)・「須部」(須恵部)・蜂前神社の前身といわれる鳥飼神(鳥飼部)・「刑部」郷・伊福郷(伊福部)などの大化の改新以前の朝廷の直轄領や部民集団が存在していました。古代引佐郡四郷のうちそれに属さないのは「井伊」郷のみです。その理由については諸説ありますが、はっきりわかっているわけではありません。
 伊福郷に郡衙が置かれた可能性があります。その一部を形成するとみられる津が井通遺跡だといいます。その遺跡を見下ろす位置に、現在この神社があります。「乎豆」の「乎」は「を」で「小」もこの仲間、「豆」は「つ・づ」で「津」も同じです。そこで「小津」で、大津(国津)に対し、郡津の意味でしょう。そこで、この場所か、あるいはそう遠くない場所にこの神社はあったはずです.。



遠江国引佐郡の式内社(1)渭伊神社

2022-04-21 10:19:32 | 郷土史
延喜式神明帳遠江国には「引佐郡六座並小」とあり、渭伊 ・乎豆・三宅・蜂前・須部・大煞(れんが無)格神社が記載されています。全体として比定を試みているのは寛政元(1780)年完成の『遠江国風土記伝』が早い例です。
 ①渭伊神社
  井伊郷神宮寺村正八幡宮。これとは別に、南の他の中にある湧水を井大神として祀る。この井が地名の由来とします。三代実録、貞観八年十二月二十六日、従五位を授けられた「蟾渭神」もこの神だとします。
 この「蟾渭神」は渭伊神社の神ではありません。第一に、「蟾」は月(ニクヅキ)ではなく、虫偏ですので訓は「ヒキ」(ヒキガエルの意)、音は「セン」で「イ」ではありません。この「イ」は当時の発音では「ウィ」で、「伊」は「イ」で異なる発音です。「渭伊」は「ウィイ」です。ところが、「渭」は「ウィ」ですので「渭伊」とは平安時代の発音では違っていますし、和名抄の地名では「ヌマ・ヌ」(沼)としての使用法のほが多いのです。例えば群馬県の沼田は「渭田」と表記されます。したがって、「蟾渭」の読みは「ヒキヌマ」で、この神は遠江国長上郡「ヒキヌマ」郷の神です。同郡蒲大神のように、三大実録において叙されながら式内社とはならなかったのです。
 神宮寺村正八幡宮は今の天白磐座遺跡の地ですから妥当でしょう。井大神は龍潭寺前の井伊共保出生の井ですが、本当に当時からあったかどうかは不明です。井戸は定期的に底をさらわなければ浅くなって死に水になります。現在囲ってあるのは江戸時代に彦根藩主が金を出して祀りなおしたものです。それ以前は浅くなって山井のようだと中井氏が書いています。史料上の初見は井伊直平が井料寄進した書状ですが、井料は井が田への配水のために修理保持するための費用です。また御手洗といわれるように、貴人の使用によって
特定の用途にしかしようできない「御井」ではありません。また、井戸替えには井戸神に捧げた物、石であったり陶器であったりを取り上げ、再び井の底に納めるのですがそれが出たという話も聞きません。
 むしろ、井の名称は渭伊神社真北のうなぎ井戸、現白岩水神社によるとしたほうが良いでしょう。前に書いたようにおそらく両者は一体でした。日本天台宗開祖最澄のいう「白岩神」もこの神ではないかと思えるのです。最澄でないにしても、第三世天台座主円仁は東国出身で、東海道も上下し、参河国国府においても薬師如来が国分寺の本尊であったことから、早い時代に天台僧がこの地に関わった可能性は十分あります。この神を含む浜名湖西の山系は十世紀には天台宗を中心とする一大宗教圏を形成していました。おそらく、奈良時代には白岩の神は祀られていたと思います。それは、天白磐座遺跡のみならず、タチスの峰との位置関係から推測することができます。 


井伊氏系図問題点あれこれ(1) 井伊道政ー南北朝

2022-04-16 09:45:23 | 郷土史
井伊道政・高顕親子(南北朝時代)
 井伊氏が早くに後醍醐天皇政権下に参じたことは知られています。建武政権樹立時、京都四条坊門小路辺に百姓屋敷に「新田殿手者 井二郎」が居住しています。(『鎌倉遺文』関東編192号、竹内文平氏所蔵文書)これは道政であると考えられます。以下、この人物及びその子を見ていきます。
 歴史学者の小和田哲男氏は南北朝時代の井伊道政・高顕親子を幕末・明治に南朝重視の風潮から、もともと本流でないものが加筆されたものと述べています。南朝関係の書籍での初見は、宝永七年(1704)の書写本が残る『信濃宮伝』(大龍寺蔵)です。浜松市北区三ヶ日町の郷土史家高橋佑吉氏は「道政」を『信濃宮伝』『浪合記』などの俗書で作り上げた虚名としています。
 しかし、官務家である壬生家文書のなかに年未祥「為次書状」があります。それには遠州井伊輩が安堵綸旨と惣領高顕の申状を持参したとあります。古文書の専門家が「年次未詳であるが、消息と題する本巻物の中に南北朝期のものが含まれている」(静岡県史資料編6)と述べているので、その存在は間違いないでしょう。高顕がいれば父道政もいたでしょうし、「惣領」とあれば、決して「井伊氏本流ではない」とはいえないでしょう。
 次に「高顕」が出てくるのは、徳川光圀命で『太平記』を諸史料により考訂編纂させ元禄四年(1691)刊行された『参考太平記』所収の金勝寺本『太平記』に「妙法院宮(宗良親王)、時行(北条)外は、伊井介高顕が城に篭られたり。」とある記事です。これは他の写本にはありません。
 妙法院宮宗良親王は、『太平記』巻十七に延元元年十月十日、東宮一之宮中務卿(尊良)は北国へ、「妙法院宮ハ御舟ニ被召テ遠江国ヘ落サセ玉ヒ」とあります。諸本によれば、暦応元年/ 延元三年(1338)義良親王が奥州渡海の為伊勢国の湊を出帆した際別の船に乗り、途中嵐の遇い遠州に遭難漂着したと伝えます。それには諸説入り混じっていますが、この金勝寺本だけが「妙法院宮・五辻宮・相模左馬頭時行以下の船は難風以前に遠江曳馬宿で今川心省の手の者と戦い追い払い、伊井介高顕の城に籠ると伝えています。
 宗良親王自らの手になる『新葉和歌集』に、延元三年秋後村上院が陸奥国に下向のとき大風に遇い一艘のみ伊勢国篠島(現愛知県)に遭難漂着したので会いにいったと書いています。また、『太平記』巻十九に延元二年には遠江井介は妙法院の宮を取り立てまいらせて、奥の山に楯籠ると書くので、確かに義良親王遭難以前に井伊谷にいたのは確かでしょう。それゆえ、異なる部分は多少あるでしょうが、延元二年高顕存在は間違いないと思います。
 
他方安永八年(1779)五月八日の跋がある日高繁高著『兵家茶話』延元元年冬「宗良親王は井伊介道政供奉て、近江国打出浜より御舟に召れ、美濃路を歴て尾張国犬山と云所へ渡らせ給、」遠江国に着き、奥山の城に入ると書きますが、これは真実とは思えません。ただ、父道政がいたとしたら、延元二年以前に死没していた可能性が高いでしょう。延元元年の井責め当りかもしれません。

 新井白石編纂、元禄十五年(1702)完成『藩翰譜』を昭和四十二年新人物往来社編纂刊行した『新編藩翰譜』所載系図に「「自道政至成直六世以井伊氏明治系譜補之」とある「道政ー高顕ー時直ー顕直ー諄直ー成直」。
 また、天保九年(1838)卒の佐藤貞寄著『井伊美談』に、彦根城主二代直孝世子直滋が浜松逗留中、井伊信濃守代に物頭・書記であった二俣五郎左衛門の孫の禅僧が宿に訪れたときの話があります。「この井伊家系図は井伊谷没落の節兵火に焼失しか共、是は已然二俣の家に残りたる趣分明也」と言って、彼に系図を差しだしました。に直滋は慶長十七年(1612)生まれ寛文元年(1661)に五十才で死没していますが、突然湖東三山百済寺で出家し、万治元年(165 8)廃嫡となりました。この間系図は行方不明になってしまったのですが、浜松宿で直滋に随行していた青木三郎右衛門もこれを覚えていました。そこには「遠江介時直ー遠江介顕直ー遠江新介諄直」とあり、現行の系図に比べて「蓮数も多くあったと述べたと伝えます。

 道政から成直六世は『寛永諸家譜伝』・『寛政重修諸家譜』という近世大名系図には記載されていません。この系図からは良直は院政期末鎌倉前・初期ころの人でしょうから、だいたい左衛門太郎行直が南北朝初期ころとなるでしょうから、永禄六年(1563)死没の直平まで五代を数えます。後で書きますが、直平は謎の人物で、おそらく死んだ後で浜松を領したり、毒を飲まされ落馬して死んだなどという逸話を創作されています。其の実際の史料には永正五年(1507)九月十五日の、龍泰寺(のち龍潭寺)に井料五反を寄付した寄進状が残っています。そうしますと、どちらにせよ「連数」が不足します。
 こう考えてくると、道政から成直六代がもともとの系図にあって、泰直代に庶家を数家分枝し系図が複雑化しているので、これ以降が南北朝末ころよりの系図ではないかと思えるのです。



 

井伊氏系図ー貫名氏(3)ー三国氏説

2022-04-03 08:25:37 | 郷土史
 井伊氏は、宝賀寿男編『日本古代氏族集成』収録の「三国真人」・「北家藤原」・「南家藤原」各氏の項に記載されています。そのうち「三国真人」・「北家藤原」氏に記載の系図は、現在知られている「井伊氏」に関する最古の系譜伝承から採られたものです。これらはいずれも史料的根拠のない系図で、わたしは三者ともに偽作された部分を多く含んでいると思います。とくに「三国真人」「藤原南家」説は取り上げるに値しないできです。
 それらは、日蓮の徒による宗祖日蓮の系譜の追究がもたらしたもので、いわゆる「貫名氏系図」とも言われているものです。宗祖日蓮が、貫名氏の出身という伝承が流布され、とくに宗勢が拡大した室町時代以降に、その貫名氏のほか、その祖とされる井伊氏についての追究がなされたのです。とくに、「継体天皇裔氏族」の「三国真人」系図(以下宝賀三国系図)は、整いすぎていて日蓮の徒の初期の系図成立段階にはなかったものでしょう。もしあれば、かれらもそれを利用したでしょうから。

 日蓮の素性について、初期のものは元弘三年/正慶二(1323))に書かれたとされる日道著『日蓮聖人御伝土代』(成立年に疑義あるも、大石寺6世日時の応永十年(1403)奥書があります。ただ具体的な記述はありません。また『法華本門宗要鈔』は偽撰といわれていますが、延文五年(1360)の識語をもつ日興の六上足で西山本門寺開山日代(1294~1394)の『法華宗要集置文』の記載があります。「出生ハ安房国長狭郡東条小湊ノ釣人権ノ頭ノ子也」とあり、父親を日蓮自身が語った貧しい漁師から身分を引き上げています。次に、中山門流日堯の貞治元年(1362)成立の『当家要文集』や誕生寺祖師堂安置「日蓮聖人木造胎内納入文書」である貞治二年(1363)八月二九日「日静願文」がありますが、これらにも父母や祖先の素性については触れていません。
  つまり、この14世紀の半ばころには、まだ日蓮の出自の具体的な姓氏は記されていません。

日蓮没後百年前後(1380ころ)とも、あるいは百四十年(1420ころか)よりは前と推定されている『産湯相承事』は、日蓮が瀕死の病床で日興に語ったことを書き留めたといわれます.。「久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神は、我国に天下り始めし国は出雲なり」「出雲日の御崎」などの特定地域の記述から、東佑介氏はこの書を出雲国周辺に拠点を構えていた日興門下日尊門流により成立したものといいます。(「産湯相承事の真偽論」)ここでの注目は日興の門徒が関わったとされていることです。
母の名を梅菊、平の畠山殿の一類とし、東条片海三国の大夫に嫁し、子を成して童名善日、仮名是生、実名は即ち日蓮だと初めて日蓮の具体的な家系について書かれています。

その後、寛正2年(1461)中山本成房日実の「『当家宗旨名目』が著され、聖武天皇の末裔が三国姓を名乗り、河内守道行と号して遠州へ下り、その末葉貫名五郎重実のとき所領の相論により合戦に及び一族は滅亡した。この罪によって重実二男仲三は安房国東条片海へ配されたが、その重実二男仲三の子が日蓮であるとし、「此事系図御書に見たり」とかいてありますが、『日蓮聖人系図御書』が偽書であることは証明されています。
 その『日蓮聖人系図御書』には、聖武天皇、河内守通行末葉、遠江貫名重実まで十一代。重実の子は三人あり、仲太・仲三・三男仲四。所領相論により合戦に及び、一族滅び、仲三は安房国東条片海へ配流となり、その子が日蓮とします。
  
 すなわち、十四世紀末の南北朝合一ころには、日興門流において、日蓮父は三国大夫、三国重実、母は畠山氏の出で名を梅菊とする説が成立します。その八十年後ころかそれよりさほど遠くない時期に、中山門流の日実が、聖武天皇の末裔、河内守通行を先祖とする遠江貫名氏が所領争いで一族滅亡の憂き目にあい、辛うじて生き延びた貫名重実の子仲三は安房国東条片海に流され、そこで生まれた子が日蓮であるとします。日蓮父はここで「貫名氏」であったとされたのです。そして、このときまだ、貫名氏は三国姓であったのです。他方、日実と同じころに、同門流の日親が藤原冬嗣後裔備中守共資が遠州村櫛に住し、その子孫赤佐太郎盛直子に井伊良直・赤佐・貫名政直三人の子が生まれます。政直子重実に重忠があり、この時伊勢平治に与力安房国東条片海に配流され、そこで生まれた子が日蓮であると述べました。おそらく、
 
 これらを整理していくと、十四世紀末頃には資料は不明であるが、日蓮三国氏説が成立し、十五世紀半ばころになると藤原氏=井伊・貫名説が説かれ、中山法華経寺の門流は三国=貫名説を採択します。おそらく、『産湯相承事』の説が既に流布されていて、この派もそれを踏襲し喧伝していたのですが、日親の貫名説がでてきて、貫名が東海道遠江国の地名であったことは承知していたでしょうから、折衷せざるを得なくなったのです。また法華経寺は日蓮初期の信者富木常忍開基の寺で、日蓮真筆の多くの紙背文書が残されていて、その一つ『破禅宗』紙背文書に、宝治二年(1248)六月二日付「法橋長専・ぬきなの御局連署陳情案」があったことも関係しているかもしれません。富木常忍も法橋長専も千葉介頼胤家臣です。そこで「ぬきなの局」の夫貫名氏も千葉介の文筆官僚で日蓮両親とする推測もあります。(中尾尭『日蓮』)日蓮在世時には、この遠江を本貫とする貫名氏が下総辺に住んでいたわけです。ところが室町時代に日蓮=貫名氏説が起こったとき、既に遠江貫名に貫名氏はいなかったので、この地に移り住んでいた理由が必要になりました。それが所領相論という架空の事件だったのです。
 そしてこの後、日興門流もこの「三国=貫名氏」説を採用します。それには貫名氏が井伊氏の庶流ですから、井伊氏が三国氏であれば問題ないことになります。そして、これを説く相手は主に信者ですので「あなた方ご存知の話」を前提にして話したのです。
 元弘三年/正慶二年(1333)二月七日遷化「日興上人御遷化記録」に三人の「伊井氏」が参列しています。「伊」と「井」はもともとは異なる発音でしたが(あ行「い」とワ行 
「ゐ」wi)、語頭においては鎌倉時代以降同音になり、「井伊氏」も「伊井氏」と書かれたりします。ですからこの「伊井氏」は「井伊氏」の可能性もありますが、三国氏との関係から、越前国坂井郡伊井郷を苗字の地とする「伊井氏」だと思います。ここで重要なのはその正確な出自ではなく、三国湊・三国神社など三国氏の本貫と近隣であることです。これが暗に証左であるとされた可能性もあります。

 つまり、日蓮聖人滅後百六十年後ころには、その出自を三国氏あるいは藤原氏とする説が共存し、貫名を名乗ったとする系譜が一般化した。かくして文明十年(1478)成立の『元祖化導記』に、またその十数年後円明院日澄は『日蓮聖人註画讃』で、貫名重実の子重忠を挙げ、安房に流されて生まれたのが日蓮と書き、以後この説が定説となった。

『元祖化導記』 文明10年(1478)身延山十一代日朝編。「元祖誕生日ハ二月十六日辰ノ剋ト」或る記に云く、その先祖は遠州の人、貫名五郎重実也、平家の乱に安房の国に流されたり。或る記に云く、高体をば薬王丸と号す也。御出家の初めの仮り名は是生也。
 『日蓮聖人註画讃』 円明院(啓運)日澄著、永正七年(一五一〇)卒。
 巻一 第一誕生 姓三国、父遠州刺史貫名重実次子重忠、日蓮はその子、その先聖武天皇裔、父は遠州よりハナタレて安房州長狭郡東條郷片海市河村小港浦に魚叟と成り、母は清原氏、貞応元年壬午二月一六日午の時姓三国 或記云、孝謙天皇御宇、他国より吾朝を襲わんとす。魚逆(一字)大臣を大将として、異敵を退治、その時三国姓を賜い、河内守通行 (シゲユキ)と号す。神亀八年辛未九月十三日のことで、その賞に遠江国を賜る。
子孫相継ぎこれを領す。(神亀は六年まで、八年は天平二年。)

 すなわち、日蓮の徒の日興門流・中山門流・身延門流等々宗派を問わずこうした説を踏襲し、江戸時代に入ると噴飯ものの系譜も語られるようになります。