奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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縣氏系図ー浜松市北区三ヶ日町

2022-06-10 21:47:58 | 郷土史
【縣氏系図の検所済
 浜松市北区三ヶ日町の旧家「縣氏には、①物部・穂積・采女氏の租とされる宇麻志麻遅命から始まる「縣家系図」参照;浜名史論所載改訂系図)と、②南北朝期には成立していたと思える「大中臣系図」(群書類従)に、大宮司大中臣茂生、その子祭主永頼(正暦二年<991>補任)五男岩崎大夫宣成、その長男散位成助六男佐実とあり、佐実に「遠江住」とあります。この佐実の子孫が三ヶ日町「縣氏」(百家系図稿所収、以下「英多神社祠官縣系図」)という二種類の系図があります。
 ①縣氏については、高橋佑吉著『浜名史論』が①に対して検討を加えていて、「上古以来の旧族浜名縣主の子孫であり、鎌倉期浜名氏興起してより、その重臣として現れた」と述べています。しかし古代・中世を通じて現三ヶ日町「縣」名字は、諸史料に出てきません。高橋氏が同名だとする「安形・安方」にしても、初見は永正七年(1510)極月十二日、岡本郷又の光近名の内西広畠を大福寺に寄進した「岡本新三郎信久」が改名し、永正十六年(1519)十二月六日、上田の内和田の田地を同じく大福寺に寄進した「安方源左衛門尉信久」だといいます。ただ私見では両者は違う人物だと思います。最初の寄進地西広畠はもとは目代吉春の地で、嘉吉二年(1442)十月十三日に宅磨右京進に売り渡したものです。吉春本人か、息子かはわかりませんが、寛正三年(1462)大福寺不動堂建立奉加帳に、「目代誠全」がいます。安方信久は年貢を目代方に納めるように述べていますので、目代ではありません。岡本氏は目代の家系です。文正元年(1466)九月八日大福寺に岡本津見寄の畠と同所刀禰名の内の田を売ったのですが、名本は目代八郎左衛門です。応仁二年(一四六八)三月一日摩訶耶寺に田地を売った「惣公文兵衛三郎景久」が存在し、明確には言えませんがこれも岡本氏の可能性があります。岡本氏は延徳二年(一四九〇)六月二十三日岡本昌光売券に在所松下・同所在所宗光名を売った記録があり、これも岡本郷の地ですので、「岡本」という名字がこの地に由来することは明白ですし、これらの記録は「岡本氏」嫡流のものでしょうから、もし「縣氏」が岡本氏を名乗ったとすれば分家となるでしょう。そして、その出自は「縣」が設定された律令以前どころか、中世後期を遡ることはありません。

 ②英多神社祠官「縣氏」系図では、大中臣佐実が寛治二年(1088)遠州に下向し、浜名郡縣家を継ぎ、祭を掌る、とあり、岡本御厨下司であったとします。この「掌祭」は英多神社を管掌したということです。それゆえ佐実は大中臣姓で、名字「縣」を名乗ったことになります。しかし「岡本御厨」は伊勢神宮の資料に見えません。ただ「但木御園」のように同資料に記載されないものもありますが、岡本はまさに「浜名神戸=本神戸」そのものであったので、そもそも、のちに本神戸周辺に開墾され、本神戸内に立てられた大墓御園などとは違います。さらに二十二社など有名な神社は保護されましたが、地方の式内であったとはいえ無名の小社が神宮領となった地で生き延びられたかどうか疑問です。佐実後継は正家子正助に「権守」の注記がありますが、国守遥任の場合はその職を担います。これも信用できません。また佐実四代孫正定に「安元二年(1176)四月再建大福田寺」とあり、これは大福寺を再建したということですが、この寺の創建については開基大中臣時定寄進状に詳しく、正定再建の余地はありません。次の「承元元年(1207)再建大福田寺」は、時定の寄進状そのものですが、名前は「晴定」で明らかに間違っています。すなわち鎌倉前期であるここまでのところ、この系図の信憑性は低いということです。思うに、佐実遠州住は神宮側の史料にあり、おそらく江戸時代にそれを神道家で遠州国学の徒であった縣氏祖先が、佐実の子孫を作成し系譜を継いだ可能性もありえます。
 
 さて②の人物と①「縣家系図」を比較してみます。まず同じ事績の系図上の人物を探すと、佐実に比定されるのは、正三位神祇伯大中臣輔親末子輔節男従七位上神祇大史輔世が、天喜二年(1054)「為神祇官奉幣使下向留テ正家ノ婿トナリ家職ヲ継グ」とあるのが、内容はまったく違いますが対応します。しかし祭主輔親に末子輔節は系図に見えず、まして輔世も見当たりません。神祇大史は正八位下相当です。また奉幣使は五位以上で卜占に叶ったものが選ばれます。ただ英多神社は国幣小社で神祇官ではなく、国司から幣帛を受けます。十世紀後半になると、国司も二十二社に対する成功を優先し、そのほかの神社はだんだん廃れていき、祭りも行われなくなります。したがって輔世が神祇官奉幣使として、天喜二年(1054)に下向してきたというのはほぼありえません。
 両者ともに縣家が先にあって、年代は違いますが、大中臣氏が浜名に来て縣家を継いだといいます。①では輔世の前が正家であり、「従六位下浜名大領」だったといいます。
また②「晴定」は①資料のとおり「時定」ですが、「従六位三郎、大中臣畠山朝臣」の注記があります。「畠山」がどこから出てきたのか、貞観中(八五九~八七七)遠江介であった「波太山部朝臣忠時」の姓か、それとも忠時子忠邑が「開墾浜名波太庄三百余町歩」からか、いずれにしても信用できません。②では佐実のあとは「号縣大夫・縣社司」である正家が継ぎます。それは「継縣大夫物部正範遺領兼下司」であって、縣家はすでに大中臣佐実が継いでいます。この正範は②系図には登場しません。強いて言えば、佐実は岡本御厨の下司でしたが、縣家養子となり、英多神社祠官職を継いだのです。しかし縣家には物部正範という嫡子がいて、代々の私領を譲られていたのですが、佐実の子の正家代になって、その正範の私領を譲渡されたということでしょうか。岡本下司職は父佐実から引き継いだものです。そこで名実ともに縣氏は姓大中臣となったというわけです。
 ところで、①も成務天皇代にあるはずのない浜名惣社神明宮を建立したり、光仁天皇(在位770~781)以前にその神主になったり、とても信頼できる系譜ではありません。この系図も時定以前は全く後世の作と言ってよいでしょう。①で注目にあたいするのは、時定子正延で、「縣治郎四郎、波太ノ姓ヲ縣ト改ム」とする注記です。以下子孫はすべて「縣」姓(名字)となります。たしかに②系図が佐実以来「縣」名字であったのに比べ、①系図に「縣」姓(名字)が出てくるのは、時定子正延が最初です。それまでは物部氏や尾張宿祢姓、波太山部朝臣姓、波太姓、大中臣畠山朝臣姓でした。時定の子ですから十三世紀中頃に生きた人でしょう。(実在していればですが)
 ①②を勘案すると、どうも②の佐実次代正家を縣氏祖と考えているようですが、実際に系図上信頼がおけそうなのは、両者共通の名前を系譜に載せ始める正頼からでしょう。 「正順」は「靫負介」です。これ以後は官途も共通であり、正頼五代 孫刑部正秀は「太郎家より養子」とありますが、「天正中随于徳川家」(風土記伝)とあり、その子刑部左衛門正行が天正九年(1581)死没しています。また正明二男安形伊賀守正道の子正継は永禄十二年(1569)佐久城主肥前守頼広出奔後家康家臣戸田氏に仕えています。以下の子には、長男以下すべての子の名前を挙げるようになります。それゆえ十五世紀前半ころに生きた人と推定されます。②はとくに詳細にその分枝を辿り、明治・大正まで名を連ねています。正明正頼以前に共通の名前は正親(近)ですが、①系図は正頼父であり、正延子ですので、鎌倉時代後期の人物となり、正頼が推定年代と大きく異なっています。
 
 さて、このように十五世紀前後ころから、すべてではないにしてもある程度信頼できるとした系図ですが、その中でとくに②で注目すべきは、それまで系図上代々「縣」を名乗っていたのにも関わらず、永禄から天正ころの人物とおぼしき「正頼」(加重郎・加茂左エ門)に至って、「安形之字ヲ改縣トス」と書くことです。また『浜名史論』所載「縣氏系図」に「宇都宮安形氏系図」を参酌したという系図(以下③)によると正明二男正道は「安形伊賀守」、その子宇都宮縣氏初代正継も「安形半兵衛信門」です。そして、縣但馬守正明の長男正綱は縣名字ですが、二男正道が「安形」であり、正綱子は「安形刑部左衛門正秀」です。つまり、正明以後正綱を除き「縣」名字はいないのです。この「縣」は「英多」という地名から採ったもので姓とはいえません。つまり、もともと「安形」ではなかったかと思われるのです。それゆえ、中世後期に至るまで「縣」名字が出てこないのでしょう。
 また付言すると、①ではたんに正順を「加茂左衛門」とのみ記しますが、その父は、②が縣又四郎正友であるのに対し、正友の長兄縣出雲守正綱の孫である土佐守正久となっています。系図上はどうも②の方が詳細で信が置けそうです。

 戦国時代の永正年代になって初めて安方名字が出てきますが、このときの源左衛門尉信久は、縣氏系図には登場しません。高橋氏は岡本信久が安方名字を名乗ったとし、縣氏は岡本では岡本・安方を名乗ったとしますが、安方氏はその後も鷲津本興寺文書にも夫婦で出てきますが、やはり安方です。こうした縣・大屋・安方という名字は関東に多く、文和二年(1353)八月二十八日「二階堂成藤奉書」に、「下総国*井庄星名郷内神村之半分を大屋孫三郎が横領して訴えられていますが、これなどは新田一族の大屋氏でしょう。また「関東幕注文」(山形県上杉文書)上州新田衆「縣新次郎」・下野国足利衆「縣左衛門・縣七郎・大屋右衛門・大屋上総助」や慶長二年(1597)九月二十九日「上総国埴生郡芝原枝*郷御縄打水帳」の「桐生与太夫・大屋彦三」、「長部村検地帳」の「天正拾九年(1591)十月下総国香取郡長部村水帳写」に「安方刑部左衛門」などが史料上に出てきます。これらの内新田系の大屋氏は別にして、縣・桐生・安方は、浜名氏被官として出てくる人々の名と同じです。南北朝時代、浜名氏の拠点の一つが関東にあり、こうした名字が浜名神戸浜名氏被官として流れ込む余地はあると思いますが、今のところはたんなる推測にすぎません。
 高橋氏は、縣氏は賀茂氏も称したとしますが、これはおそらく誤解で、江戸期縣(安形)氏の中に「加茂左衛門」と称した人々がいると述べていますが、これは字で、名字ではありません。賀茂氏は浜名政明寄子で、代官を勤めていますが、出自は別です。史料上に出てくる賀茂氏、たとえば賀茂修理亮殿・安方左京進殿・宅磨弥三郎・鶴見彦三郎
のうち、安方左京進は系図に登場しますが、長禄元年「代賀茂助左衛門尉忠直」は系図に記載されていません。

 いずれにしても、史料が系図という扱いに注意を要するもの以外にほとんどないため、戦国末から近世以後を除き、実態に近づくのは至難の業でしょう。

都田御厨(1)

2022-06-07 21:56:14 | 郷土史
「都田御厨」は『兵範記』裏文書仁安二年(1167)八月「大中臣公宣申状」によれば「先祖三代の領地」であり、永保(1081)以前の成立と言われます。この時は在庁官人の濫訴により廃退したが、伊勢斎宮寮中院を造進するのは、神祇大副が受領を募って行うことが慣例であるとして、復活したといいます。公宣は父親が祭主大副従五位で、保延四年(1138)薨去ですが、実は系図上の公宣子伊勢守公隆の嫡子です。その公隆は公宣祖父公定弟大宮司公義二男といわれるように複雑な家系です。公宣は少副従五位下で、仁安(1166~69)造内宮使、建久(1190=99)造外宮使を務め文治四年(1188)に卒去しました。その三代前は祖祖父公兼で、第六十九代大宮司従五位下です。公兼は万寿元年(1024)十二月九日任翌年着任し、在任六ケ年でした。つまり、任期前は京に住んでいたわけです。祖祖父は大神宮司茂生、祖父は祭主で蓮台寺本願安頼、父祭主永頼養子宮司千枝です。つまり、公宣は伊勢神宮最上位の祭主・大宮司一族でした。

『神宮雑例集』巻一によれば「都田御厨為便補所」とあります。勝山清次氏によれば、この十一世紀中の便補保は初期段階のものです。白河院政下別名制の成立、荘園の拡大・増加により国 司は増大した負担を担いきれず、濟物未進・未済が顕著になり、寛治年間(1087~93)以降恒常化します。この時代の便補保は、「濟物を受ける権門や諸司側の私領が何らかの形で存在するばあい」に立保されると言います。都田が便補保となった理由は不明ですが、考えられるのは遠江国主源基俊が尾奈御厨収公と本神戸田を苅加えたのが二年前ですので、是と関係する可能性があります。神事過怠を理由に国守に便補保を要求したのかもしれません。そのばあい、都田の隣地刑部にも御厨があることを考えると、浜名神戸をテコに祭主一族が進出してきていたのでしょう。これにより、最初に都田は便補保として成立し、それを契機として、国免荘になったのだと思います。ところが国司交替などにより、荘園整理令を理由に一度は収公されたのでしょう。そして復活するわけですが、その年代は史料がなく特定できません。そこで一応の目安として、斎宮中院造成について考えてみます。
 「大中臣公宣申状」どおりであれば、三代前の公兼代に都田御厨は成立したことになります。公兼は万寿元年(1024)十二月九日六十九代大宮司に任じられ、同二年二月十日着任しています。在任六年、度会郡野依に邸宅を構え、野依前司と呼ばれています。公宣申状には、伊勢斎宮寮中院を造進するのは、神祇大副が受領を募って行うことが慣例と記されています。しかし、公兼は「造内宮司」を努めたことはありますが、「斎宮中院」には関わった形跡が見られません。三男の第七十六代大宮司公義は治暦四年(1068)二月任、在任十二年とあり、また永保元年(1081)重任となっています。そして、寛治八年(1094)卒していますが、この間「造内宮司」、さらに斎宮助を努めているので、三代前云々はこの公義の可能性があります。この人物は公宣祖父公定の弟です。ただやはり、斎宮中院造成に関する記録はありません。確実な記録によれば、「造斎宮中院功」により仁平四年(1154)正月五日従四位下に叙された四十代祭主・従三位・神祇伯親章があります。この代は公宣実父で、系図上は公宣子となっている公隆です。父は公義で、公隆に「家司」という肩書があるので、おそらく祭主親章家司ではなかったかと思われます。そうしますと、これが収公の危機にあったのち、御厨復活の時期でしょう。ただ、棚橋光男氏によると、「建久三年神領注文」は嘉祥三年(1108)七月二十九日二宮禰宜注文と永久三年(1115)六月十七日宣旨に記載の旨を記し、その写しを調進するのみで官の認可を得られる種類に往古神領が分類されるといいます。都田御厨はこれに該当しています。すなわち、十二世紀初めころまでには立荘されていたわけです。ちょうど伊勢神宮において、宮司・禰宜を包摂する祭主権力が確立する時期に当たります。そこでこのころ成立した御厨御園の給主に大中臣氏が就任するのです。ところが先に述べたように、この後国司により一端収公されたのですが、先に述べた理由で再び御厨として蘇ったのです。だとすれば、さきの想定は意味を持たなくなり、結局不明ということになります。

 「建久三年神領注文」には都田御厨は内宮(皇大神宮)所管になっています。南北朝期編纂『神鳳抄』には「都田御厨」は内宮所管、上分田見作八十九丁で段別一斗の賦課となっています。したがって、供祭上分は八十九石です。延元四年/暦応元年(1339)十月日「給人引付諸神領注文」には刑部・祝田御厨は記載されていますが、都田御厨は未記載です。
 同じ鎌倉時代の寿永三年(1184)三月十四日源頼朝より、「如元従神宮使、可致沙汰」と所領安堵がなされていますが、詳細は不明です。その後南北朝時代の北朝延文二年(1357)五月二十七日「後光厳天皇綸旨」において、洞院大納言(実夏)知行の旨安堵されています。祖父実泰が後継とした実夏叔父実守が南朝に参候したため実夏が後継者になったのです。これは領家職で、本家は伊勢神宮内宮庁です。延文五年/正平十五年(1360)父公賢が死没後、実守が後継を主張します。後光厳天皇は同年六月二十八日家領分割を命じました。したがって、都田御厨領家職も分割されたはずです。しかし、貞治元年/正平十七年(1362)実守の南朝方回帰に伴い、実夏一円所領となりました。ったのです。実夏は貞治六年/正平二十二年(1367)父が死没した際、一度は廃嫡されました。しかし、応安三、四年(1370)には洞院家を継承しています。都田御厨は応安七年/文中三年(1374)五月二日には都田御厨の税の減少を述べています。
 永和三年/天授(1377)二月二十八日神宮が新義の課役をかけたと百姓等に訴えられ、祭主大中臣忠直に問うと述べています。この後至徳元年/元中元年(1384)都田御厨半分を洞院大納言家に返付するよう遠江守護今川貞世に命じられています。
 十五世紀初め遠江守護に斯波氏が任じられると、被官が大挙押し寄せ、荘園代官を請け負い、年貢横領・対捍が常態化します。康正元年(1455)五月二十六日の「伊勢大宮司書状写」によれば、都田御厨(上方)は地頭は洞院殿代官に池嶋氏が務め、下方はもとは井伊氏が地頭だったのですが、この時には斯波氏被官堀江氏が務めています。しかし、堀江氏により神税減少し対捍したため大宮司が三か月後催促しています。
 
 やがて今川氏親が遠州を平定するころには遠州全体が今川氏の所領となり、都田御厨は今川氏によって井伊氏に給与されます。この時代実質的には神宮領は収公されています。

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