奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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井伊氏系図ー日親口伝(2)

2022-03-20 19:49:45 | 郷土史
一)「竺雲等連略伝」
 白石虎月氏は、「竺雲和尚傳」を引いて、「康応元年(1389)生、不詳其本貫」を書きますが、夢想派同門の『臥雲日件録』という日記を残した瑞渓周鳳が、「送竺雲連蔵主東帰幷序」いう偈頌を残していて、そこに「竺雲丈人、将帰遠江」(『臥雲藁』)とあり、明らかに遠江の人であるのは確かです。地名(生地などにちなむ名前)も「遠江(えんこう)」といいます。瑞渓の詩に「蔵主」とあるので、『静岡県史』は、永享七年(1435)八月十一日の相国寺出世以前のものとします。しかし、『東福寺誌』は「京兆萬壽寺竺雲等連」と「竺雲和尚傳」に題していますので、これが永享初年(1429) 頃ですが、これは五山出世の最初で、それ以前の応永末年(1428)に諸山摂津広厳寺に住しているので、これ以前の可能性があります。
 また「文明二年正月七日寂壽八二」と書き、その下に【妙智院過去帳】と出典を載せているように見えます。しかし、実際に現在妙智院に伝わるものには文明三年正月七日、八十一才とあります。示寂の年とその寂年について、玉村竹二氏が後者の正しさを論証しています。だとすると、生年は、永徳三年(1383)になります。ここに俗姓は井伊氏と記載されています。
 つまり、遠江出身というのが確かで、「妙智院過去帳」の記述が信じるに足るもので、それは自らが塔したのですから、当然なわけで、それゆえ俗姓「井伊氏」というのも否定できない事実でしょう。
 竺雲和尚は、夢窓派の漢籍に通じていた大岳周崇に法を継ぎ、相国寺のほか、五山の上南禅寺住持などを勤めています。ただここで重要なことが三つあり、先の玉村氏の書を参考にすると、第一に後花園天皇の受衣師を勤め、また同天皇を開基として宝徳寺を開創したり、将軍足利義成(義政)の受衣師を勤めるなど、時の権力者と非常に親い関係にあったことです。ここには相国寺鹿苑院塔主となり、僧録司に任じられ、時の五山僧のうち非常に高い地位にあったことも含みます。 
 第二に天竜寺雲居庵や臨川寺三会院など、派祖夢窓礎石が開いた塔頭の塔主になっていることです。とくに、前者の荘園は遠江国村櫛荘でした。
 最後に「連漢書」と称されるように、『前漢書』に初めて加点するなど、中国の典籍に通じ、とくに周易に詳しく、五山史書研究の基礎を築くなど。易・歴史に明るいことです。村櫛は井伊谷の南に当たり、陰陽五行では火気、井伊谷は北で水気、水克火は夏季に起こりやすい病気を克するという目出度い意味もあります。また相生説では金生水、金は西、すなわち京都を指します。つまり、京都下りの井伊氏が井伊谷に移ることで、病を治癒する仏教に言う薬師如来のような人物となるのです。当然長寿にもつながります。
また寛正四年(一四六三)八月八日、六代室町将軍足利義教の側室で、七代義勝・八代義政の母、高倉殿(日野重子)の葬儀の喪主(主喪とも、葬儀の責任者)を勤めています。
 こうしたことから、「井伊氏系図」の冬嗣から赤佐太郎盛直及びその子井伊良直、二男赤佐俊直、三男貫名政直までが竺雲が語った系譜だと思います。日蓮貫名説は以前述べたように偽作の可能性が高いと思います。つまり、近世大名系図の原型は文明以前にできていたが、竺雲が井伊氏をこの氏の嫡流にするため、自分の知っている井伊谷近くの村櫛を居住地としたのです。彼は幼くして京に上り大岳に仕えたため、それほど詳しいことを知らなかったのです。
 
 そこで、私たちが見る「井伊氏系図」は赤佐盛直より前を諸系図からの借用と伝承から作ったのです。その時、井伊氏祖は共資とされ、共保はまだなかった可能性があります。「共保出誕の井」という伝承は江戸時代のものを見る限り、それほど古い形を残しておらず、室町期を遡るとは思えません。ある程度信用のおける盛直以下は多少の脚色があったとしても、信用できる部分もおおいのではないでしょうか。但し、南北朝以降はまた別問題です。


【参考文献】
「<六条八幡宮造営注文>について」
  海老名尚・福田豊彦 『国立歴史民俗博
  物館研究調査』第45集 一九九二年
 
* 年未詳「送竺雲連蔵主東帰幷叙」(『臥雲
  集』) 
* 「妙智院過去帳」
* 『日蓮信仰の系譜と儀礼』中尾堯著 吉
  川弘文館 平成十一年刊
  『日蓮―その行動と思想』高木豊著 評
  論社 一九七〇年刊
  「中世仏教の展開<その三>」藤井孝 
  『日本仏教史中世編』 一九六七年
  『われ日本の柱とならん 日蓮』佐藤弘
  文著 ミネルヴァ書房 二〇〇三年刊
* 「旃陀羅考 日蓮上人はエタの子なりと
  いう事」喜田貞吉著 『底本 賤民とは
  何か』所収 河出書房新社 二〇〇八年
  刊
* 「第二章 平安時代の磐田 第一節」鈴
  木小英 『磐田市史 通史編上巻』所収
* 『東福寺誌』白石虎月編 思文閣出版
  昭和五年初版・昭和五十年復刻 
* 『五山禅僧伝記集成』玉村竹二著 講談
  社 一九八三年
* 「京兆本法寺開山日親上人傳」『本化別 
  頭仏祖統紀』日潮著
* 「道賢等檀那職譲状」(潮崎りょう稜威
  主文書)『静岡県史 資料編6』
* 「鎌倉公方足利基氏書状」(本間文書)
  『県史 資6』
* 応永三年六月十五日「遠江守護今川貞世
  書下」(本間文書)『県6』
* 嘉禄三年二月二十五日銘「懸仏銘」(東
  京国立博物館所蔵) 『県6』
* 年未詳「西園寺実俊施行状」(熊野速玉
  神社文書) 『県6』
* 『日本古代氏族系譜集成』上・下巻 宝
  賀寿男編 古代氏族研究会刊 昭和六十
  一年
* 「大般若波羅蜜多経奥書」(滋賀県柳瀬
  在地講所蔵)『県 中世資料編補遺』
* 『福井県史通史編2 中世』「第一章武
  家政権の成立と庄園・国衙領」「第四節
  庄園国衙領の分布と諸勢力の配置」
* 角川ソフィア文庫版『保元物語』解説 
  日下力 平成二七


 
 


井伊氏系図ー日親口伝(1)ー貫名氏(2)

2022-03-17 20:10:58 | 郷土史
最初に断っておかなければならないのは、わたしは仏教信者でも、まして日蓮宗・法華宗の信徒でもありません。目的は「井伊氏系図」の真偽を判断することです。

 さて次に日蓮の素性を語った早い例であり、同時に井伊氏系譜についての史料上の初見である、鍋かむり日親上人の口伝について考えていきます。そのあとで、日蓮の徒による系譜を追っていきます。
 久遠上院日親が述べた井伊氏系譜は、同じころに唱えられていた三国説とは明らかに違っていて、しかもかなり整ったものでした。本来なら貫名氏について述べればすむところを、多くを井伊氏に割いています。誰か井伊氏に詳しい人物に聞いたのでしょう。ヒントは口伝の中にあります。
 『新撰長禄寛正記』寛正四年(1463)八月八日条に、法門流布の禁を破り罪科に処せられたが、この日室町将軍足利義政母勝鬘院逝去により大赦にあいます。そして、管領細川勝元に感謝するためその屋敷を訪れた際、伊勢守貞親に宗門の起こりを尋ねられ答えたものです。
 簡単にまとめると、藤原閑院左大臣冬嗣の子良門二男兵衛助利世の子少納言共良の後胤だと述べています。その共良四代孫備中守共資、京より下向して遠州村櫛に住み、五代の孫赤佐太郎盛直の一男井伊良直、二男赤佐俊直、その弟が貫名政直であり、政直孫に重真、その子重忠と続きます。重忠の時伊勢平治与力して安房国長狭郡東条片海市河村に流され、そこで生まれたのが日蓮だと述べています。
ここで気が付くのは、井伊氏祖とされる共保がでてこないことです。それは次に述べるとして、貫名氏、あるいは石野氏は鎌倉時代を通じて在地に住み続けているので、安房国配流はなかったと思います。この「日親口伝」のこの部分は政直以前と以後に分けて考える必要があります。

 冬嗣六男良門の子が、比較的信頼のおける『尊卑分脈』に利基・高藤両名しか記載されていないのは有名な話です。それゆえ、その部分を偽作したという説が江戸時代からあります。まあそれはそれとして、最初に問題にしたいのは、何故「共資」は遠州村櫛に居住したかです。近世系図では、一条院御宇正暦年中(990~995)遠江守の除目を受けて遠州村越の郷に住んだ、とするものがあります。しかし、正暦二年から長徳元年(995)までは和名抄の著者で歌人の源順の弟子源為憲であり、それ以前も以後も国守についてはわからないところもありますが、共資が補任された形跡は見出せません。それと何故村櫛なのかが不明です。井伊氏の祖が国衙在庁官人であったことは確かでしょうから、まず国府(磐田市見付)に向かうでしょう。街道から行くにしても、船で行くにしても、村櫛は通り道ではありません。つまり、遠州の一部の地理走っていても、そのほか大略的に不案内な人物がこれを語ったか、あるいは何らかの意図があって語ったかのいずれかでしょう。
 井伊氏の祖が在庁官人であり、留守所の「介」という官職名を名乗るくらいですから、目代クラスの有勢在庁であったことは確かです。断っておくと、この「介」は除目によって任じられたものではなく、在庁官人の筆頭者、留守所の首位、すなわち「在国司職」といわれます。十一世紀末から十二世紀初頭以来知行国主制が進展し、知行国主が指定した受領国司(大介)ーここまで在京ーおよびその下に目代が位置します。そして、その目代が統轄する留守所が形成されます。峰岸純夫誌によると、留守所は前代からの国衙機関などの「所」の上に、国内郡司級の豪族の結集した「官人」と「所」の事務機構を分掌する専門家集団の地方官僚の「在庁」とに二分されています。井伊氏の「介」は知行国主または受領国司の補任によるもので、「官人」に分類されます。それゆえ、その祖先は在地の郡司級の人となります。ただ、この時代以前に律令制以来の郡司はほとんど、新興の土着した王臣家・受領郎党の子孫などに代わっていました。井伊氏もそうした人たちの子孫で、その後の在り方からみると、受領郎党のうち、武芸を職とした一族でしょう。おそらく、国衙権力と武力を背景に国衙領に進出し、郡司・郷司・保司などの所職を手に入れたのでしょう。最初、天竜川が遠州の平野部に広がる喉元を押さえ、渡船の権利を対岸の野辺介の祖先と分かったのです。野辺介は遠江権守藤原南家為房の子孫といわれます。(尊卑分脈)その後、赤佐氏を名乗り、その子の一人が井伊郷に住み「井伊」を苗字としたのです。そこで力を付け、知行国制の開始で郡司層の復権が果たされ、留守所「官人」となったのです。
 こう見てくると、井伊郷への進出は国衙あるいは館のあった磐田市見付辺か麁玉郡赤佐郷からであり、村櫛ではありません。
 また、井伊氏の祖といわれる「共保」が登場しないのも気になります。多分この口伝が語られたころ、彼が八幡宮御手洗の井から出現したという話はできていなかったのでしょう。しかし日親口伝はそれ以前に語られた史料がなく、同時代以後に書かれた系譜とも違い、かなり整備されたものです。その正否はどうあれ、井伊氏をよく知る人でなければ、語られない内容を含んでいます。つまり、この突然ともいえる系譜は誰かに聞いた可能性が高いと思います。それが竺雲等連ではないかと推測されるのです。
先に日親略伝を掲げ、この僧が井伊氏と無関係の人生を生きたことを述べておきます。
【久遠成院日親略伝】
 「鍋かむり」として有名な日親上人は、応永十四年(一四〇七)上総国武射郡埴谷村の生まれ。父は埴谷左近将監平重継法名日継、埴谷氏開基で、日蓮の初期の檀那であった富木常忍(日常)開山の中山法華経寺僧で、父重継弟の日英開山の妙宣寺に入り、日英上人に師事した。兄もこの寺に入り、貫主になっています。師の遷化により、第五代本妙寺貫主日暹上人に従い十四歳薙染。応永三十二年(一四二五)十九歳のとき、西海総導師職となり、日英の師本妙院三世法宣院日祐が開いた肥前国松尾山光勝寺に掛錫、これを中興した。翌年中山日裕廟に詣で、成身弘法の大願を立て、応永三十四年(一四二七)正月上京。永享十一年(一四三九)立正治国論を献じ、将軍足利義教を諫めた。当時この行為には禁令が発せられていたので、捕縛され獄に下された。
 日親の思想は、法華信者以外の布施を受けず、また法華信者以外には供養を施さない、という「不受布施義」を掲げたため、信仰にとくに厳格で、拷問を受けても信念を曲げなかった。そのため焼鍋を頭からかぶせられたりした。「鍋かむり」とはこのエピソードによっている。同獄の本阿弥清信と現当二世の道契を結ぶ。その本阿弥清信が開基となり、日親開山の京都叡昌山本法寺において、長享二年(一四八八)九月十七日遷化、八十二歳。

 日親が日蓮の初期の檀越である富木常忍(日常)開山の中山法華経寺の僧であったことは大事なことです。同時代の中山法華経寺本成房日実が『当家宗旨名目』において、聖武天皇の末裔が三国姓を名乗り、河内守道行と号して遠州へ下り、その末葉貫名五郎重実のとき所領相論がもとで合戦に及び一族は滅亡した。この罪によって重実二男仲三が安房国東条片海に配せられ、彼の子が日蓮とし、「此事系図御書に見たり」(『日蓮聖人系図御書』偽書とされている)と述べています。これが貫名説の初見です。三国氏説そのものは、日蓮が末後近くに話した自らの素性を、日興が聞き書き留めたと言われる『産湯相承事』(真偽未定)が文献上の初見です。父を三国氏あるいは三国大夫、母を畠山一門とし、これが日蓮家系を初めてのべたものです。
 すなわち、日親は既に日蓮の俗姓が三国氏であるとされていることは十分承知していて、にもかかわらず、藤原氏説を日実のように曖昧ではなく、整然と述べているのです。しかも、これが赤佐・井伊・「貫名」(のちにこう呼ばれるが、日親自身は語っていない)三氏の親族関係を掲げた最初です。しかもかなり具体的で、知っていて、遠州の地理、とくに村櫛や井伊郷の位置を知っているものの関与が疑われるのです。それが竺雲等連だと推測されるのです。

                                                    続く
    
 

井伊氏系図ー貫名氏(1)

2022-03-15 08:32:32 | 郷土史
井伊氏については中世後期の日親上人の口伝や近世大名系図などをもとに、藤原冬嗣の子良門の二男兵衛佐利世の子孫説や、日蓮の徒による三国氏説ほかがあります。しかし、鎌倉時代前後を含め、平安時代に遡る系図については疑わざるを得ないものがあることは、これまでも多くの人が指摘しています。そこで、なにが真実で、何が誤解なのかを考えて見たいと思います。
 静岡県史編者が康安元年(1361)か貞治元年(1362)のものとする「熊野山新宮造営料所」に、「貫名郷六十九石五升三合」、「井伊郷二十一石ニ斗一升二合」などが割り当てられましたが、これは、これらの地が国衙領であったからです。また、井伊氏は「井伊介」を名乗っています。これは朝廷によって叙任されたものではなく、国衙の「所」の「介」です。つまり井伊氏は鎌倉御家人以前は在庁官人でした。井伊氏と赤佐氏が親族関係であったことは種々の史料から確かめることができます。そして、建治元年1279)五月日、京都「六条八幡宮造営注文」に、その負担を割り当てられた遠江の武士の中に、「井伊介跡」・「赤佐左衛門跡」・「貫名左衛門入道跡」があって、割当高は、赤佐・貫名が同等五貫で、井伊介はそれより低い三貫の割当てとなっています。また官位の称も、当時の武家任官では、差異のない同等のものでありました。ここで「跡」というのは、海老名尚・福田豊彦両氏によれば、「寛元二年(1244)十二月の幕府追加法の<付父祖元跡知行>の意味」で、つまり「御家人役賦課方式の変換が十三世紀中葉に行われ、その時に開幕当初の始祖にまで遡って賦課」するような、「惣領制的な公事賦課方式」によるものです。また「御家人役は、原則として所領規模を基準として賦課」されていました。また、国衙(現磐田市見付)からの距離、地域の条件を合わせて考慮すると、赤佐・貫名氏が同等で、井伊氏はその下となります。すなわち、赤佐・井伊氏を考えると、系図の「赤佐太郎盛直」を祖として、その一男井伊良直、二男赤佐俊直は順序はどうあれ、それほど間違いではないでしょう。
 問題は「貫名氏」を同族とすることです。実は貫名氏と赤佐・井伊氏との関係は証明されていません。かれらを一族とした最も古い所伝は日蓮の徒によるものです。しかし、中尾尭氏もいうように、日蓮と貫名氏との関係は証明できないのです。氏は状況証拠を積み上げて「おそらく」日蓮は「貫名氏」であろうと推測しています。たとえ、それが正しいとしても、貫名氏が井伊氏と同族であるということにはなりません。貫名氏も在庁官人であったことは、後で述べるように、ほぼ間違いないでしょう。
 赤佐・井伊氏と貫名氏は一応切り離して考えたほうがよいでしょう。

 さて近世大名系図「井伊氏」の室町時代以前については、わたしの推測では日蓮の徒が室町時代中後期に作り上げたものをもとにしていると思います。ただ日親上人の口伝についていえば、おそらく臨済宗の僧竺雲等連が関わっていると想像されますが、確証がありません。そこでまず、史料が残る貫名一族を俎上にあげます。
 
【藤原行直】
 承元二年(一二〇八)から翌三年にかけて書写された、現在福井県小浜市中村区所有の「大般若波羅蜜多経」は、もともと遠州で書写されたものです。現在残っている巻は、全六百巻のうち九十三巻です。そのうち、大旦那「藤原行直」の奥書があるものが、承元二年から翌三年にかけて四十二巻、建暦二年(1212)に一巻、無年号のものが二十巻ありますが、檀那名を記さない建永二年(1207)のものも、おそらくこのとき書写されたものでしょう。そうすると、五年にわたる書写事業であり、筆師僧も数名請じ、上質な紙の使用数も相当なものでしょうから、書写に多大の費用を費やしたはずです。
 書写の場所として、遠江府中朝日寺、同薬師堂敷地(磐田市見付)・蓮華寺(周智郡森町)がありますが、蓮華寺は遠江一宮小国神社別当寺で、すべて国衙関連の施設です。
「藤原行直」も在庁官人で、資力のある人物でしょう。そのうち、五八〇巻に、「承元三年六月廿八日、於遠江国法多寺東谷書写了、□名三□□□覚□□□、依此写□□、亶那・筆師共往生之内臨終正念焉」とあります。法多寺は一山の名称で、現在袋井市にある法多山尊永寺が遺称地ですが、尊永寺は、もともと山内の一寺院でしたが、中世後期以来一山を支配するようになったのです。法多山は現袋井市に位置し、貫名の南の山です。
 小浜市に奉納されるまでに、失われた多くの経巻が、いろいろな場所で写されたもので補われていますが、承元年間のものは、もともとの主巻でした。こ こに、この経の檀那「藤原行直」が、名を連ねています。そして注目すべきは、この史料の最後に、「首尾・上欄や途中に<貫名郷気比宮>等の気比宮に関わる墨書がある」と追記されていることです。『磐田郡誌』によると、この気比宮は、現在広岡(現袋井市内)にあるが、もとは下貫名宮地にあったといいます。勧請年代は不詳で、社記によれば、往古越前国角鹿(敦賀)より遷座といい、宝永元年(1704)九月以降の棟札が数枚残っているともいいます。気比宮の勧請というのは、本拠越前や若狭周辺を除くと意外と珍しいもので、静岡県内では、この地のほかには寡聞にして知りません。勧請年に関しては、多分斯波氏が遠江守護に任命され、越前甲斐常治が守護代となり、斯波氏被官が多く襲来した戦国時代だと思います。
 では、それ以前はどこにあったかというと、おそらくこ神社の境内社の熊野神社でしょう。遠江国は平治元年(1159)熊野三山造営所となり、承久の乱後の仁治二年(1241)熊野新宮消失、安房・遠江国が造営料国に命じられています。院政期以来遠江国には熊野信仰が強くなり、各地に熊野神社が勧請されました。法多山も熊野修験が入山しました。
 ですから、たしかにこの神社が鎌倉時代にあったとは言えませんが、とくに貫名に近い「法多山」を書写の地とし、また、闕巻をあはり同様に法多山有力在庁と考えられる貫名氏の存在から、この貫名の地に、この経が最初に奉納された可能性は高いでしょう。康安元年(一三六一)八月十八日法多山住天台沙門顗海春秋都三七歳が書写した二九七巻を、補完しているのもそれゆえでしょう。
 そういうふうにみていくと、「藤原行直」は、宝賀寿男氏があげる「三国真人系図」や、藤原氏系の『続群書類従』第六輯下所載系図(「直行」とあるが「行直」であろう)や、「藤原氏井伊奥山系図幷諸親類之次第」系図(引佐郡奥山平田八江蔵)、中井家蔵の系図などでも、貫名氏二代「貫名四郎行直」が挙げられていますが、この人物のことだと思われます。その後、健治元(1275))「六条八幡宮造営注文」記載の「貫名左衛門入道跡」というのは、承元二年から七十年経っています。おそらく行直の子の代でしょう。行直は十三世紀前後に活躍した人です。行直を系図と同一人物とすれば、健治元年御家人役賦課の対象は、多分行直の子直家だと思います。そうしますと、いま近世大名系図が正しいと仮定すると、赤佐盛直の三男貫名四郎政直、その子行直と続いていますが、大雑把に推測すれば、政直は十二世紀後葉、盛直は十一世紀後葉から十二世紀前葉にかけて活躍した人となります。確実ではありませんが多分、井伊氏も貫名氏も在庁官人であり、「直」という通字からも同族としても良いと考えられます。
 ただ井伊氏元祖共資以降「共」を通字とする人たちは、「遠州太守」を官職としますが、これは事実と異なります。たとえ「介」だとしても、先に述べたように「所」の「介」ですので、やはり真実ではありません。よって辛うじて、盛直父惟直が残りますが、これらの系図は「井伊新大夫」とするので、「井伊」は外すべきで、そうすればおぼろげながら赤佐・貫名一族の祖の可能性が出てきますが、詳細は不明です。
 また貫名行直の子は直家と直友ですが、直友は仮名六郎で、貫名南隣の石野を領し、「石野」を名字とします。
【藤原定直】
 嘉禄三年(1227)二月二十五日、石野若宮王子に、懸仏一体を奉納した大施主「中務大丞藤原朝臣定直」は、年代的に石野氏だと考えられます。通字「直」からも矛盾しません。系図上石野氏の祖、貫名六郎直友が、十三世紀前後に生きた人だとすれば、「定直」が二世になるわけです。

 ここで重要なのは、日蓮は貞応元年(1222)生まれですので、その父が貫名氏であればまだ遠江国貫名郷にいて、姓は藤原氏であったはずです。そしてここには書いていませんが、鎌倉末まではこの地での足跡を諸史料からたどることができます。つまり、今考察した以外の事柄を日蓮の父の素性に付加している説は眉にツバをつけて聞かなければならないということです。

 補足しておくと、貫名氏は建治元年(1275)八月日「京都六条八幡宮造営注文」に名が見られます。その後、建武二年(1275)九月二十四日「石野弥六郎跡」を足利尊氏によって、富士浅間宮に寄進されています。おそらくこの地は、貫名氏から預かったものだと思います。この後、熊野御師道賢が「ぬきな一族」の先達檀那職を盛湛律師御房に売り渡しています。この後、康安元年(1361)か翌年に貫名郷・井伊郷ほかが足利義詮所領となり、応永六年(1399)九月十八日付で幕府は石野郷・貫名郷内平六名などを御料所としました。さらに、同三十年(1423)十月二十九日には同所を足利義満娘今御所に宛がわれています。貫名氏自身は応安七年(1374)六月二十九日付の今川了俊のものと思われる「沙弥某書下案」に、肥前国西嶋光浄寺領半済の他煩あるべからずという命令が「貫名民部丞」宛に出されています。これらが南北朝・室町時代までの貫名氏の動向です。

      
 

 
 
 

イナサの国=龍蛇神のクニ(2)ー遠江国引佐郡

2022-03-01 08:26:22 | 郷土史

 イナサについて考えてみます。 地名としての「イナサ」は全国的に分布していて、ここでは詳細は省きますが、地名学者によりさまざまな解釈がなされています。今代表的な数か所を選んで考察していきます。  【肥前国稲佐神社】  『日本三代実録』記載の貞観三年(861)従五位下、仁和元年(885)に従五位上に昇った肥前国杵島郡「稲佐神社」があります。『大日本地名辞書』は稲佐神社を西彼杵郡悟真寺の項に載せ、「是は長崎の稲佐村の神にやあらん」としていますが、長崎の稲佐は豪族の名にちなむといいます。その長崎市稲佐山には淵神社が祀られています。これとは別に同書が引く「筑前志摩郡今津寿福寺弘安三年旧記」に、権現は七歳の時五島に浄土会の観音として現れ、それより平戸の郡安満嶽の主持の権現、肥前後藤山御正体黒上法身権現となり、それよりイナサ大明神と現れ、竜王崎のかふめの島に留まります。今これを彦島といい、竜王崎より舟に乗せ、寺井の津より上がるという記事に続きます。これが杵島郡稲佐山神社のことです。竜王崎はこの神社の続きにあります。平凡社版「長崎県の地名」に、西国寺社奉行伊豆藤内「稲佐神社再興表文」には、欽明天皇代に新羅に従属していた百済聖明王が謀反を起こしたとして殺されたとき、世子余昌並びに弟恵等数十人が妻子と一族を率いて来朝し(肥前国誌)、余昌が父の遺骨を稲佐山(杵島山)山頂に葬り、帰化して稲佐大明神として祀ったとあります。確かに「日本書紀」欽明天皇十五年(554)に新羅との戦いで聖明王が死没しています。また境内整地の際古墳時代後期あるいは奈良時代と目される箱式石棺が出土したといいますが、詳細は不明です。徐福伝説もこの社に伝わっています。さらに、この山の東南端には竜王崎古墳群(五世紀末~六世紀後半)が存在し、大陸的要素の強い遺物が出土しているとのことです。祭神は天・聖王神・女神・阿佐神とありますが、「神社明細帳」には、社伝では初め五十猛命を祀っていたが、飛鳥時代に百済より阿佐王子が来朝し、稲佐大神とともに両親を合祀、王子死後王子も合祀したと伝えます。とすると、先の書の天神を除く三神のことで、ともかく朝鮮半島と「イナサ」との関りを示唆すると同時に、稲佐大神は五十猛であり、この神は百済聖明王などより古くから祀られていると述べていることになります。

 ところで、五十猛命は「紀」の「神代上」第八段・一書(第四)で、天を追われた素戔嗚尊が、その子五十猛命を率いて、新羅国曾尸茂梨に天下ることになるのです。しかし、のち出雲に行って大蛇を退治します。五十猛命は樹種を持って天下りし、日本国中に植え、紀伊国伊太祁曾神社に祀られます。「記」の大屋毘古神と同体とします。この前半の記事から、五十猛命は新羅とまた父を通じてですが、蛇とつながりがある。また、第七段・一書(第三)には、八俣ノ大蛇の背には「松柏」が生えていたのであり、第八段・一書(第三)には大蛇の頭ごとに「石松」があり、同段一書(第五)では杉・檜・柀・櫲樟などは素戔嗚尊の鬚髯・胸毛・尻毛・眉から成ったのであり、八十木種も播いて生やしたのであり、五十猛命はこれらを全国に分布させたのです。ただし、ここでは杉・櫲樟は船、檜は宮を、柀は棺を作るのに使うとします。妹大屋津姫命の大屋は木によって大きな家を作るによる、さらにその妹枛津姫命は結婚にあたって一緒に住むために、本家の端(ツマ)に立てるツマ屋の意味で、いずれも木匠が祀る祖神である樹木の神素戔嗚尊と、それを斎祀る男神と結婚する姫神との間に出来た子、つまり木工作品の長く無事であることを祈願するための三神です。すなわち大屋毘古神と同体とされる五十猛命は木匠なのです。八俣ノ大蛇に生えているのは、自然物であり、素戔嗚尊は人の生活に役に立つ樹々を生み出したのであり、それをもって子である五十孟命にその全国への植栽とそれを用いて家など木工物を作ることを命じたのです。製作に使用する利器が大蛇の尾から出た草薙剣だと思います。大蛇は山の神であり、剣は蛇の形代です。これを持って山へ入り、仕事の安全を祈ってから、下草を刈り植樹したのでしょう。そうすると、五十猛命はイナベと関りがあります。もともと木国(紀伊国)一国の神ではなく、イナベが斎祀った神でもあったはずです。つまり、イナベの原郷は新羅にあって、かれらが山の神である龍蛇神に祈っていたのが原形だと思います。これに蛇を退治する素戔嗚尊の伝承が合わさって、以上の話ができたのです。これらは多分鍛冶による伝承だったはずです。鍛冶と木匠はその仕事上密接な関係があります。要するに「イナベ」は「イナ」に関わる「部民」の意味ですので、「イナサ」の「イナ」もまたかれらが齋き祀った「イナ」の神(「サ」は朝鮮語で「社」「砂」の意)であり、新羅(朝鮮半島)及び龍蛇と関わりがありそうだ、ということが言えそうです。

【大和国伊那佐山】

 次に大和国伊那佐山です。奈良県宇陀郡榛原町にある標高六三七・七メートルの山です。その頂上には式内都賀那木神社が鎮座しています。 『日本の神々』4大和「八咫烏神社」の項によると、志賀剛が「実は今の八咫烏神社は福西・比布・母里など芳野川左岸の諸村から目の前に仰がれる伊那佐嶽の真(旧)の式内八咫烏神社の共同の遥拝所=斎宮であったらしい。真の式内八咫烏神社は伊那佐山の尖峰(嶽さん)の山頂に祀られていたが、近世に貴船社(大和志)と改称された」(『式内社の研究』と述べて現在の都賀那木神社に比定し、さらに補考で「高塚の故老も八咫烏社は元はイナサ山にあったとも述べている」という説を引用しています。平凡社版「奈良県の地名」および『角川 地名大辞典』らは大和志の説を挙げるにとどめています。他方『寺院神社大辞典』大和・紀伊は「都賀那伎神社」条で、伊那佐山山頂に鎮座。「延喜式」神名帳の宇陀郡「都賀那木神社」とされ、仁寿二年(八五二)七月二六日に官社に列せられた(文徳実録)とあり、ツガナキの意味についての諸説をあげています。しかしこの山が本当に伊那佐山かどうかははっきりしないのです。『地名辞書』は「大和志山路山を以て神武帝御歌に見ゆる伊那佐山に充てたるに由り、近年此名立つ。古事記傳は之を採らず、伊那佐山は墨坂の別名ならんと曰へり。延喜式、都賀那木神社、伊那佐山の上に在り、是又大和志の説なり」とし、疑問を呈しています。つまり、伊那佐山の場所も、都賀那木神社の所在地も確かではないということです。

 したがって、ここでは考察外ということになります。

【出雲国伊那佐浜】

 この地は、『日本書紀』巻一「神代上」では「五狭狭之小汀」「五十田狭之小汀」とも称されます。つまり「伊那佐」は「五狭狭」「五十田狭」とも言われたのです。

 この「五十狭狭」は垂仁紀即位三年条「一云」に、新羅から来た天日槍の天皇への捧げものの中に、「膽狭浅之太刀」があります。訓は「いささ」で、「ゐささ」ではありません。これは「五十狭狭」と同じです。そこで、これ自体がどんな太刀かは不明ですが、天日槍は新羅の王子ですから、朝鮮半島と関わりのある言葉だということがわかります。また本文欄外上の註に、延喜神名式に、播磨国賀古郡日岡坐天伊佐佐比古神社(今、兵庫県加古川市加古川町大野字日岡山所在日岡神社)、胆狭浅は即ち伊佐佐か、とあります。天日鉾は初め播磨国宍粟邑に、船に乗って辿り着きます。ここでも「五十狭狭=イナサ」は、新羅(朝鮮半島)と関わっています。 

 さて「神代上」第八段一書(第六)に、国作大己貴命(亦名大國主神・大物主神・葦原醜男・八千戈神・大国玉神・顕国玉神)と力を合わせて国家の経営に尽くした少彦名命が常世の国に去って、大己貴神が「今此の国を理むるは、唯し吾一身のみなり。其れ吾と共に天下を理むべき者、蓋し有りや」と問うたところ、「神しき光海に照して忽然に浮び来る者」があり、これが大己貴神の幸魂奇魂で、これによって大己貴神が国を平静に治めることができるのです。そしてこの幸魂奇魂はその望みによって、大和国三諸山に鎮まり、大三輪の神となります。大己貴神と少彦名命との最初の出会いは、出雲国の「五十狭狭」の小汀でした。少彦名命は白蘞の皮で作った舟に乗ってやってきたのです。『古事記』では、御大の御前に天の羅摩船に乗って来た神の名がわからず、久延毘古(山田の曾富謄)に聞くと、少名毘古那神と述べました。 白蘞とは、ヤマカガミと読み、今のビャクレンのことで、解熱効果があります。羅摩はカガミで、ガガイモのことです。吉野裕子は、白蘞も羅摩も「カガミ」と読み、「異種の植物ではあるが、共に蔓草で、前者は長い地下茎をもち、後者は巻きひげをその特色」とし、これからカガミとは「長く這う地下茎とか、他のものにまつわりつく蔓をもった植物に冠せられる名称」であるとします。これに似た語に「カガチ」があり、ヤマカガチは大蛇の意であり、この語の「チ」は「<ミズチ>(水蛇)、<オロチ>(大蛇)などというように、蛇・虫類を指し、また霊力を表わす」こと、また「カガミ」の「ミ」は「身」であろうとして、

 〇「カガチ」は蛇そのものを指し、またホウヅキの異称

 〇「カガミ」は蛇神を連想させる蔓植物の名称

 これから、さまざまな「カカ」「カガ」の古典・民俗・方言使用例を探り、<カカ><ハハ>(『古語拾遺』記載)以前の大蛇名であって、子音転換によって、<カカ><ハハ>に移行」したものとして、「カカ」は蛇の古名と結論付けます。 ここでは、少名彦名神が「カカ」ミの船、すなわち蛇の船に乗ってきたと述べていることに注目してください。

 谷川健一は、「神光照海(あやしき光、海を照らして)忽に浮かび来る者」とは三輪山に斎き祀られた大己貴神の幸魂奇魂のことで、三輪山の神は蛇神であるから、「海を照らして依り来る神」も蛇神だと述べます。そしてこの神は神在月(出雲以外は神無月)のころ、この地方に依り来るセグロウミヘビのことで、地元の漁師によると、「夜に海蛇が海の上をわたってくるときは、(黄金の模様によって)金色の火の玉に見える」という証言を載せています。そして、稲佐浜にも旧暦十月ころにはウミヘビが来訪し、この浜に上がるのです。地元で龍蛇様とよばれるウミヘビを、とぐろを巻いて円錐形にして、出雲大社へ納めるのです。またこの行事は佐田神社でも行われ、こっちの方は出雲西北の恵曇の古浦から奉納します。またこの龍蛇信仰は朝鮮半島とも関りがあるといわれています。さらに『古事記』の「御大の御前」(ミホのミサキ)は現松江市三保関町に比定する説もありますが、島根半島を漠然と指すと考えれば、日御碕神社(出雲市日御碕町)も同様の神事を行っています。あるいは同行事を三保にある神社でも行っていたのでしょう。

 以上のことから、実質的な国の経営者である大己貴神を助ける国魂―少彦名命も手のひらに乗るくらいの妖精的存在ですので、これに含めても良いでしょうーは「蛇」神であり、谷川健一の解釈によれば、朝鮮半島から来たということになります。さらに少名彦名命も神代上では「五十狭狭」の小汀に海の方から渡って来た神で、前にのべたように、これは新羅と関係する地名ですので、やはり朝鮮半島新羅から渡来した神といえるでしょう。 中国語では、「蛇」は呉音・漢音ともに「タ」、あるいは呉音「ジャ」、漢音「シャ」ですが、呉音漢音ともに「イ」(yi)とも発音します。「なよなよしたさま。また、くつろいでのびのびしたさま」を「蛇蛇(イイ)」というと『学研漢和辞典』(藤堂明保編)にあります。朝鮮語では訓「(ぺム)」音「사」サ)ですが、「クリョンーイ、クリョンギ」とはチョウセンネズミドリという蛇の一種で、朝鮮で最大の蛇のことをいい、大蛇としても使用されます。また「イームギ、アムギ」は伝説上の動物で、竜になろうとしてなれず、深い水底に住むという大蛇。みずち、おろち。もう一つの意味は熱帯に住む大きな蛇の俗称、蟒蛇(うわばみ)、大蛇を指すと『朝鮮語大辞典』は載せています。したがって、「イナサ」・「イタサ」・「イササ」に共通する「イ」が「蛇」を、意味しているのではないか。そうであれば、三文字目の共通する「サ」は稲佐浜のように浜ばかりではなく、伊那佐山もあるわけですから、これも朝鮮語だとしたら「社」(、サ)であるかもしれません。「イナサ」「イタサ」「イササ」などの「ナ」「タ」「サ」は良くわかりませんが、「ナ」すなわち土地・国の変異転形かもしれません。つまり、「イナサ」は「蛇(龍蛇)の国の社」の意の可能性が高く、新羅からもたらされた語ではないでしょうか。

 ここに至って、やっとわたしたちは「オロ」と「イナサ」の共通性にたどり着いたのです。最初に挙げた「鳥名子舞」の歌謡に戻ることができたのです。つまり、伊勢神宮から見て、遠江国はイナサ(ミナサ)・オロの国、すなわち「蛇」神の国、豊穣と再生の国だったのです。