奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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凌苔庵ー浜松市北区三ヶ日町

2023-02-20 23:31:50 | 郷土史
浜松市北区三ヶ日町平山に中世存在した「凌苔庵」は悟渓宗頓禅師が開いたと伝承されています。しかしこれは全くの早とちりで、「悟渓」という道号であれば「宗頓」という諱が対応するという思い込みによるものです。『禅学大辞典』の法系図などをみると、「悟渓」という道号の僧はたとえば京都東福寺三聖門派だけで三人います。このうち悟渓宗頓と同時代なのは悟渓一鳳(別号悟栖)でしょうか。三ヶ日町は東福寺住持を勤めた仏海禅師一峰明一が同町大谷虎洞山高栖寺を開いたと伝え、一峰明一は三河吉良実相寺五世です。浜松荘は中世吉良氏の所領であり、吉良氏開基実相寺の弟子が住持する寺もあって、そうした関係で東福寺とも関係があり、むしろこの悟渓一鳳が平山悟渓の可能性が高いでしょう。
 また現在の凌苔庵跡といわれる字「リョウテ」の遺跡の位置にも疑問があります。「加藤寅三覚書」(静岡県史別編民俗)によると、「リョウテ」の遺跡の地には戦国時代ころの陶器片が散乱していたとのことですが、現在地には何もなかったという古老の談を聞いています。三ヶ日の著名な郷土史家高橋祐吉によれば、禅僧は水を好み(遺跡は山中の湧水点付近)、そのうえここを凌苔庵と特定する決め手は仏花であり栽培品種であるシュウメイギクの存在であるといいます。しかし隣の愛知県新城市では石灰岩質土壌で自生するものが見つけられています。決定的なものではありません。むしろ現在地の谷を挟んだ西の段丘上のほうが可能性が高いと思います。その段丘下の谷は中世大福寺末寺万福寺があったところですが、この周辺一帯は鎌倉時代から戦国時代の陶器片が散乱しています。日当たりからも陰気な場所より陽気なこの丘陵のほうがふさわしいと思いますが、確定するまでには至っていません。

 悟渓宗頓は応永二十三年(1416)尾張国丹羽郡南山名村に生まれました。同国瑞泉寺(犬山市)日峰宗舜に師事し、のち日峰法嗣美濃国愚渓寺義天玄詔・同国汾陽寺雲谷玄祥・伊勢国大樹寺桃隠玄朔に参禅、京都龍安寺雪江宗深により印可を受け「悟渓」と命名されます。大徳寺五十二世・妙心寺十一世住持となり、妙心寺東海庵の開祖となります。応仁元年(1467)の乱を避け瑞泉寺に戻り、同二年美濃斎藤妙椿に招請され、守護土岐成頼菩提寺として瑞龍寺の開山となります。晩年は瑞泉寺・瑞龍寺で過ごし、明応九年(1500)済北院寂。勅賜大興心宗禅師。ちなみに引佐郡井伊谷龍潭寺開山黙宗瑞淵は悟渓禅師の法嗣玉浦宗珉から嗣法した文叔瑞郁の法を嗣いでいます。

 平山凌苔庵の文献上の初出は寛正三年(1462)十二月十二日「大福寺不動堂造立勧化帳」です。これが悟渓宗頓であれば四十八歳の時です。雪江による印別付与は二年後の寛正四年です。まだ修行途中で三ヶ日に来る余裕はなかったでしょう。凌苔庵平山「悟渓」自身の初見は文明十六年(1484)六月十二日「悟渓寄進状」に浜名神戸刀禰名を「悟渓老僧為慈母亡魂見蘭禅尼菩提」として大福寺に寄進しています。この年の四月十五日悟渓宗頓は、景川宗隆の後任として妙心寺に十一世として出世しています。これは雪江宗深の定めた二夏三年の入院ですので、当然三ヶ日にはいないことになりまっす。また彼の法語を収録した『虎穴録』に「慈父真叟道詮禅門二十五年忌拈香」を自ら執り行ったときの法語がありますが、母についても塔銘「慈母梅蘂妙清大姉塔婆銘」に関する法語が記載されています。そうしますと、母親の法名が異なります。さらに先の平山悟渓の寄進状には花押がありますが、悟渓宗頓の残っている晩年の書状には印章が使用され、花押は稀有なものでそこに署名された文字は少し似ていますが筆跡は異なります。
 以上から平山「悟渓」が「悟渓宗頓」である可能性は非常に低いと言わざるを得ません。
 
 

津和野町旅行記

2023-02-10 18:44:51 | 旅行
数少ない友人だった人から島根県鹿足郡津和野町の話はよく聞かされていました。一度は訪ねてみたいと思っていましたが、このたび鳥取・出雲・松江の旅行のついでに立ち寄りました。
(1)「津和野城址」(三本松城)と乙女峠マリア堂
  太鼓谷稲荷神社の赤い鳥居の石段をくねくね折れ曲がりながら歩いて上り、上り切ったところに立派な社殿に¥がありました。そこから今来た階段とは違う車用の参詣道路を少し下ったところにリフトがあり、城のすぐ近くまでいくことができます。山頂に石垣だけ残っています。鎌倉時代に吉見氏による創建と伝えますが、実際には戦国時代ころに築かれたのでしょう。
 城主は吉見氏が戦国時代大内氏のち毛利氏に仕えましたが、江戸時代初め断絶します。その後坂崎出羽神直盛が城主となりますが、大阪夏の陣における徳川家康孫娘千姫に関わる事件で元和二年(1616)謀殺されやはり断絶します。この後元和三年因幡國鹿野(鳥取市)から亀井氏が転封となり城主となり、以下明治維新まで続きます。最後の城主亀井玆監は天保十年(1839)久留米藩主有馬頼徳六男で養子です。玆監自身も著名な神道学者でしたが、彼の開いた藩校養老館初代国学教師岡熊臣はじめ大国隆正やその弟子福原美静などは明治再興の神祇官を主導しました。こうした保守的な地盤が、明治になって浦上村民などキリスト教徒弾圧に与する要因となったのです。明治六年(1873)のキリスト教禁制の高札撤去まで津和野・萩・福山に流され拷問で殉死した浦上村民は3394名のうち552名に上ります。津和野でのその場所が現在の乙女峠で、鎮魂のためマリア堂が建っています。これは亀井氏の前の城主坂崎出羽守が豊臣秀吉の禁教令に背き続けたような熱心なキリスト教信者であったのと対照的です。
大工など城建設に携わった人々を殺し沈めたという、城建造につきものの伝説の千人池は城下と反対方向の山下にあります。またこの本丸には抜け穴があり、地元の中・高のクラブがよく探検を行ったと聞きます。現在は石を積んで入れなくしてあります。
 
(2)友人の思い出の中の津和野
 山陰の小京都ともいわれ落ち着いた城下町と思っていましたが、友人は津和野の思い出を語るときは、なぜか暗い面持ちをしていました。そう考えると小さな盆地に位置するこの町が、息が詰まるような狭苦しさとそれでいて懐かしさがこみ上げるような不思議なところだと感じました。
 森鴎外もこの町の出身ですが、死ぬ間際に石見國津和野の「森林太郎」として葬るように遺言したと伝えます。その墓は同町曹洞宗永明寺にあります。軍医としても作家としても時代を極めたと言って良い人物が、一介のヒトとして葬ってくれというのはどういう心境でしょうか。この町のもっている光と影に関係しているのでしょうか。

 帰りに山口線に乗って長いトンネルの向こうにある隣町の山口市徳佐の広い開放的な盆地を見ると、悠久の時代から一方は時間がゆっくり流れ続け、津和野は中世以来昭和まで怒涛のように流れすぎて、現在再び時の流れに取り残されていっているような気がします。津和野郷土資料館で徳佐の初期須恵器を見、津和野に比べてその時代の文化の卓越性がいつの間にか中世には逆転していったことの意味を感じた次第です。

 

初生衣神社(1 )ⅱー創建と御衣祭、浜松市北区三ヶ日町

2023-02-03 12:00:00 | 郷土史
初生衣神社の御衣祭の起源を久寿三年(1156)とする由緒書がありますが、これは鵺退治で有名な源頼政が「浜名郡岡本村之内伊勢神明為初衣領五町八反黄金壱枚銭拾八貫以焉永代買取令寄附畢」という久寿二年乙亥十一月付頼政寄進状によるといいます。荒唐無稽な話です。これが真実味をもつと地元で信じる人がいるのは、『平家物語』の頼政鵺退治の「鵺」地名の存在と、浜名氏祖先とする同物語の「猪鼻早太」の存在です。前者が戦国末から織豊期にかけて贄代から替えられた地名であり、後者は「井早太」ともいわれ、引佐郡井伊谷では井伊氏とみています。「早太」の「太」は太郎のように長子を指しているものだとすれば、「早」が字でしょう。そうすると渡辺党渡辺早が思い浮かびます。彼は頼政郎党であり、この氏族の元祖は遠江国焼風里と伝承されています。焼風里がどこかはわかりませんが、ここからも源頼政との関係を推測するようになった人もあったでしょうが、すべて想像の産物です。浜名氏が伊勢神宮大宮司の子孫で浜名神戸に土着した開発領主大中臣氏の一族かあるいは郎党であったことはほぼ確かです。

 御衣調進の最も信頼できる古い記事は寛政元年(1789)『遠江国風土記伝』でしょう。「従五位下神服部(称宿祢今世云目代)世住、織作神衣(中略)有織殿、併建於斎宮」とあり、これ以前から行われていたのです。しかし、伊勢神宮の神衣祭復活は元禄十二年(1699)で、その時和妙の服部・荒妙の麻続両氏は既に存在せず、代役を禰宜などや両神社の村人が勤め、織女も絶えていなかったといいます。つまり、応仁の乱以降元禄に至るまで祭事は執行されなかったのです。
伊勢神宮の神衣祭の古式では神服織機殿・麻績機織殿のみが関わったのであり、そのために両社それぞれ封戸二十二烟が与えられていました。他方浜名神戸の神税が九月に使用されたのは神嘗祭のものでした。ただ例外は三河国のみで、古代以来神衣祭の赤引糸を奉献していたのです。両織殿が復活した際には不足分を尾張木曽川町(荒妙)・大和月ケ瀬(和妙)が補っていましたが、これに初生衣神社などは入っていません。
 
文政二年(1819)五月二十六日付伊勢大宮司三位殿雑掌より神目代家へ来状の一節に、「往古より年々荒妙去寅年迄調貢有之候」も、今年はないがどうしたものかとあり、翌年は納めた旨神中丞(神因幡弼郷)宛に神宮から返事が届いています。そして、「右文政以降明治十八年まで古例の通り調貢せしにつき皇大神宮子良館或ハ本宮祈禱所の領収書なり」とあり、「往古より寅年(文政元年)」まで荒妙調貢が行われていたと書かれています。これは明治三年九月の「神嘗祭調進物雑記」(神宮文庫所蔵一冊神祇部)にあるように、神嘗祭献納品で、しかも和妙でなく荒妙です。
 ところが、寛政元乙酉(1789)三月神因幡宛「赤引糸納入関係書類写」は三州大野よりの詫びの証文です。すなわち、去未年(天明七年<1787>)に浜名ではなく当大野の値段にて買って下さいと頼んだが断られ、以来浜名の買い上げがなく困っているので、以後一切今まで通りでよいのでお買い上げください、というものです。これは「赤引糸」、すなわち和妙調進に関するものです。これについて先の「神嘗祭調進物雑記」に「皇大糸神宮御初生糸+旨(絹)」に「右者往古ヨリ今ニ至り中絶ナク遠江岡本村神目代貢方ヨリ調進」とあり、その但し書きに「毎年十月朔日ヨリ三州大野村ニテ製スル所ノ赤曳ノ糸ヲ買取リ十一月上旬迄同目代服部殿ニ納メ置吉日ヲ撰テ抜(祓)清メ織立出来後猶同殿ニ納めメ置翌年四月十三日岡本村ヲ持出シ司中江持参司庫江納ム 九月十七日大神宮司ヨリ進納」とあります。
 ここから初生衣神社調貢の和妙・荒妙は「神嘗祭」のために調進されたものとわかります。神嘗祭と神衣祭はほぼ同時期で、一連の祭事と認識されていますが、前者は外宮・内宮両宮の祭祀で、後者は皇大神宮と別宮荒祭宮という内宮のみの祭です。つまり伊勢神宮では初生衣神社の関りは神嘗祭のへの貢進と考えていたわけです。ところが、初生衣神社「由緒」には「(前略)神武以来無断絶掌天照太神御初生衣調進職、毎年奉供四月神衣祭是也、(中略)然處仁壽元稔辛未蒙勅宣叙従五位下、稱神服部宿禰毛人女、奉仕皇朝建羽槌神依為衣服元祖取其名波登里、後久壽二年乙亥七月辞官、従山城國乙訓郡渉住遠江國濱名岡本、用神服部一字稱神目代、伊勢神明為初生衣領、賜五町八反證状御初生衣調進畢。」と明治三年の神目代貢が浜松の郡方役所提出「神社取調明細書書上写」にあるからです。『遠江国風土記伝』は神服部の浜名神戸移住を「続日本紀曰神護景雲三年(769)奉神服部於天下諸社」を引いて認めています。しかし、この記事二月乙卯条の記事は、これに続けて「(中略)毎社男神服一具、女神服一具、其太神宮及月読社者、加之以馬形幷鞍」とあり、神服部の神衣調進はそれでなくとも人手が足りない上、諸国に行くことは不可能に近いので、諸社の男女神官の衣服を作り、それを朝廷の使いが配ったということでしょう。この「由緒」が信ずるに足りないことは確かです。

 明治十八年(1885)初衣神社織殿で織り立てた和妙を愛知県豊橋市安久美神明宮(元新神戸在)へ送り、それを同社神主の手により神宮に奉献していました。これも中断し、神明社から神宮への奉献は昭和二十四年(1949)初生衣神社から神明社への奉納は昭和四十三年(1968)にそれぞれ復興しました。

 註;「初生衣神社(2)」参照