岩水寺は寺伝によると延暦年間(782~806)創建、最初龍池院と称していましたが、のち般若院に名称が変わります。盛時三百六十坊の塔頭を数える大寺だったといいます。享徳三年(1454)根本中堂が再建され、現在の岩水寺となりました。直接寺の由緒に関係すると思われる遺跡に、寺東の勝栗山古墓群があり、久安二年(1146)七月廿七日・廿八日に新所(湖西古窯址群)で焼かれた陶製五輪塔が出土しています。結縁者銘があり、大中臣氏等伊勢神宮関係者が名を連ねています。また大門西には鎌倉・室町時代の蔵骨器が出土した泉墳墓群があります。つまり、このあたりは古くからの葬地でした。弔い・死体処理を行っていたのは聖でしょう。つまり岩水寺には受戒の僧のほかに大勢の聖また修験者(山伏)が住んでいたのです。これはおそらく近くに天竜川の渡りがあり、宿が近く市が開かれていたような人の活発な交流があった地だからでしょう。
さて永禄元年(1558)武田信玄が上杉謙信との戦いにより聖地善光寺が荒廃するのを恐れ、甲府に善光寺を建て善光寺如来を移したと伝えます。その甲府善光寺本堂上棟棟札裏に「生国羽州宮遍照寺 源瑜 六十四歳」が仏事を修したとあり、「遠州厳水寺 法印」と記されています。甲斐善光寺文書によると、源瑜は四十歳ころから木食となり遠州雲厳寺村の岩水寺に住み、「真言無双の道人」であったといいます。
「羽州宮」は現在の山形県長井市宮です。そこにある「遍照寺」の創建は不明ですが、永享八年(1436)宥日僧正によって再建されました。この宥日の師僧は最初兵部律師宥朝でした。宥日上人は能書家で火伏・水難除去の祈禱の名人だと伝えられています。その同じ長井庄下長井小松千州寺に小松寺宥尊が学頭として住むことがありました。宥尊は真言小野の一流三宝院流願行方を受け継いだ学僧で、甥に浄土宗西蓮社聖冏がいて、念仏にも天台・神道にも精通していました。浄瑠璃光寺(常陸国新治郡佐久山)上宥に学び、師亡き後高野山に上りその兄弟弟子宝性院宥快に師事しました。その宝性院では宥日上人が、応永二十四年ころから永享八年ころ(1417~1436)まで院主永遍から小野の法流を伝授されました。遍照寺は談林(学問所)に指定されていました。したがって宥尊と遍照寺とはおそらく関係があったでしょう。また高野山奥の院には当時木食と呼ばれる聖集団がいて、苦行的修行および堂舎の修造のための勧進を行っていました。天正元年(1573)高野山に上った木食応其はのちに宝性院に住し、門主から金剛峯寺検校に進みました。すなわち室町時代から近世にかけての宝性院には、奥の院聖集団に関係し苦行を行う山伏的・念仏と勧進の聖的さらに学僧的な性格を持つ僧たちが存在していました。ここに源瑜が木食となる原点があったと考えられます。
源瑜は遍照寺第五世で優れた学僧でした。中興開山宥日上人が火伏・水難除去の祈禱の名人であったのでそれを受け継いだことによって暴れ天竜と呼ばれる大河による水害防止除去に験があったのでしょう。また高野山宝性院との関りから奥の院に入ったのでしょう。さらに長井庄堂森(米沢市郊外万世呂)に今善光寺があり、同じく岩水寺近くにも善光寺がありました。こうした環境から真言宗寺院として移転創建された甲斐善光寺の初代大勧進に招請されたものと思われます。
ちなみに信濃善光寺は無宗派で、天台宗の大勧進(貫主)と浄土宗の大本願(善光寺上人・尼)とが住職しています。
参考文献;「遍照寺史」『山形県史 資料編古代・中世史料2』所収
『善光寺史研究』小林計一郎著
さて永禄元年(1558)武田信玄が上杉謙信との戦いにより聖地善光寺が荒廃するのを恐れ、甲府に善光寺を建て善光寺如来を移したと伝えます。その甲府善光寺本堂上棟棟札裏に「生国羽州宮遍照寺 源瑜 六十四歳」が仏事を修したとあり、「遠州厳水寺 法印」と記されています。甲斐善光寺文書によると、源瑜は四十歳ころから木食となり遠州雲厳寺村の岩水寺に住み、「真言無双の道人」であったといいます。
「羽州宮」は現在の山形県長井市宮です。そこにある「遍照寺」の創建は不明ですが、永享八年(1436)宥日僧正によって再建されました。この宥日の師僧は最初兵部律師宥朝でした。宥日上人は能書家で火伏・水難除去の祈禱の名人だと伝えられています。その同じ長井庄下長井小松千州寺に小松寺宥尊が学頭として住むことがありました。宥尊は真言小野の一流三宝院流願行方を受け継いだ学僧で、甥に浄土宗西蓮社聖冏がいて、念仏にも天台・神道にも精通していました。浄瑠璃光寺(常陸国新治郡佐久山)上宥に学び、師亡き後高野山に上りその兄弟弟子宝性院宥快に師事しました。その宝性院では宥日上人が、応永二十四年ころから永享八年ころ(1417~1436)まで院主永遍から小野の法流を伝授されました。遍照寺は談林(学問所)に指定されていました。したがって宥尊と遍照寺とはおそらく関係があったでしょう。また高野山奥の院には当時木食と呼ばれる聖集団がいて、苦行的修行および堂舎の修造のための勧進を行っていました。天正元年(1573)高野山に上った木食応其はのちに宝性院に住し、門主から金剛峯寺検校に進みました。すなわち室町時代から近世にかけての宝性院には、奥の院聖集団に関係し苦行を行う山伏的・念仏と勧進の聖的さらに学僧的な性格を持つ僧たちが存在していました。ここに源瑜が木食となる原点があったと考えられます。
源瑜は遍照寺第五世で優れた学僧でした。中興開山宥日上人が火伏・水難除去の祈禱の名人であったのでそれを受け継いだことによって暴れ天竜と呼ばれる大河による水害防止除去に験があったのでしょう。また高野山宝性院との関りから奥の院に入ったのでしょう。さらに長井庄堂森(米沢市郊外万世呂)に今善光寺があり、同じく岩水寺近くにも善光寺がありました。こうした環境から真言宗寺院として移転創建された甲斐善光寺の初代大勧進に招請されたものと思われます。
ちなみに信濃善光寺は無宗派で、天台宗の大勧進(貫主)と浄土宗の大本願(善光寺上人・尼)とが住職しています。
参考文献;「遍照寺史」『山形県史 資料編古代・中世史料2』所収
『善光寺史研究』小林計一郎著